コルベットの歴史

 コルベットがどんな車なのかご存じ無い方もおられるかと思うので歴史にも触れておこう。全てを紹介すると1冊の本になってしまうので、我が81年式が登場するまで簡単に紹介しよう。

 外観がどのように変わってきたか、53年,61年,67年,73年,85年型を使ったモーフィング映像(avi型式)で楽しんでいただきたい。前期型の特徴をうまく残しながら進化していく様がうかがえると思う。映像は4秒足らずだがファイルは約240Kbあるので、ダウンロードして楽しんでいただきたい。


PREVIEW1 モーフィング映像(avi型式)ダウンロード

 元祖コルベットは1953年1月ニューヨークにてプロトタイプが一般大衆に披露された。アメリカ初のスポーツカーが誕生した瞬間だ。FRPボディをまとった当時としては超未来的な流れるようなデザインの小型スポーツカーは予想を遙かにしのぐ大反響を得ることになる。量産型はプレス成形される予定だったが、あのデザインをプレス成形するのは困難で、金型を準備する時間が無く、プロトタイプの石膏型でFRPボディが量産されたという。また朝鮮戦争直後で、金属の入手が困難だったとも言われる。このFRPボディが将来のコルベットのデザインに多大な影響を与えたことは言うまでもないだろう。FRPボディは現在も引き継がれており、これが鉄板プレス成形だったらあの斬新なデザインは生まれなかったにちがいない。初代コルベットは子孫の未来を大きく左右したモデルなのだ。
 53年モデルの生産台数は300台と言われるが、最初に製造された2台はテストのために破壊されている。よって、市場に出回ったのは298台だとされている。現存する53年式は225台が確認されていると言われる。コレクターの間では、幻の1号車を探し出す活動がさかんに行われている。

19531953


 誕生当初のコルベットはブルーフレームと呼ばれる直列6気筒エンジンだった。この時シボレーはまだV8エンジンを持っていなかった。この頃からアメリカにスポーツカーブームが巻き起こり、フォードからライバル車”サンダーバード”が登場する。サンダーバードにはV8エンジンが積まれており、パワフルな走りに人気が集まった。コルベットもスタイルに合ったパフォーマンスを得るために、1955年にV8エンジンの採用に踏み切る。この年からV8エンジンを強調するため、V8搭載車はchevroletエンブレムの”V”の字が大きくなり、”cherolet”となっていた。また3ATが選択できるようになったのもこの年からだ。1958年にはヘッドライトが4燈式となり82年型まで引き継がれる。

19611961


 1963年に初代”スティングレィ”が誕生する。59年、60年のSCCA(Sports Car Club of America)レースのCモディファイドクラスのタイトルホルダー”スティングレィレーサー”がベースになった。デザインは、ビル・ミッチェルと日系人デザイナー、ラリー・シノダの手による物だ。残念ながらシノダ氏は1997年11月3日に永眠された。
 発表されたスティングレイは、ボディの周りを一周するシャープなエッジが人気をはくした。また、アメ車としては初の4輪独立懸架方式が採用される。63年型はスプリットウィンドウと呼ばれる中央から2分割されるリアウィンドウを採用していたが”後方視界が悪い”と言うことで、翌64年型からは1枚ウィンドウに変更された。スプリットウィンドウは63年のみのアイテムでありコレクターの間で人気が高い。

スプリットウィンドウ1963


 67年型では最強と言われるL88ビッグブロックエンジンを搭載するモデルが登場する。アルミヘッド、12.5:1のコンプレッション、ホーリー850cfmキャブの427cid(7L)ユニットが発生するパワーはカタログスペック430hpだが、これは当時の自動車保険料がパワーによって決められていたため、カタログスペックは小さめにしてあると言われている。実質パワーは500hpとも600hpとも言われている。このパワーを得るためにはベースプライス$4300に後$1000も払わなくてはいけなかった。

19671967

 65年のモデルから82年型までボディ以外のフレーム、ブレーキ、足周りは殆ど変化しない。


 その5年後、1968年に一般に”スティングレィ”と呼ばれるあのコークボトルラインを持つ3代目になる。このデザインは82年まで受け継がれることになる。原型はビル・ミッチェルとラリー・シノダによって創られたショーカー”メィコ・シャーク2”がそれである。メィコ・シャーク2は1965年4月にニューヨークショーで発表され、人々はそのグラマラスなデザインに魅了され市販化を望んだ。メィコ・シャーク2のグラマラスラインの面影を残したまま、市販車初のTバールーフを採用し68年10月にヴェールを脱いだ。この”メィコ”は雑誌などで”マーコ”と紹介されることが多い。綴りは”MAKO”であるが、マーコとは発音できないので念為。
 69年にはあのL88をオールアルミ化したZL1なるエンジンを搭載したモデルが出現する。カンナムレース用のエンジンはL88を軽く凌いだと言われる。この年これを搭載しラインオフされたのは僅か3台で、市場に出されたのは2台だけだった。それもそのはず、車一台分”$4700”も追加しないと手に入れることが出来なかったからだ。しかも、購入者は「この車を絶対に公道で使用しません」といった内容の誓約書にサインさせられたと言う。
 1970年にはそれをも遙かに凌ぐであろうスーパーエンジンが登場する。LS7だ。454cid(7.4L)の叩き出すパワーは460hpにも達した。しかし、記録によるとLS7は1基も生産されていないことになっている。幻のエンジンと言われる所以だ。この頃から排ガス規制が敷かれるようになり、パワーダウンの一途をたどり始める。
 72年にはカタログ表記がグロスからネットに変わり、更にパワーダウンの印象を強めた。また、アイアンバンパーのラストイヤーでもある。77年、デザイナーのビル・ミッチェルが引退すると同時に、”スティングレィ”のエンブレムが外されたと言われる。つまり77年型からは同じ形をしていても”スティングレィ”とは呼べないのだ。

19731973


 80年になると、排ガス規制が厳しくなったカリフォルニア専用のモデルが登場する。ウィンドウガラスは前年度の5mm厚から4mm厚に薄くなるなど軽量化が施された。このモデルは少々排気量の小さい305(5L)エンジンが搭載され、コンピュータ制御による排ガスコントロールが試された。ヤナセの正規輸入物は全てこのカリフォルニアモデルだ。このエンジンにはアルミ製インテークマニフォールドとステンレスエグゾーストパイプがおごられた。外観では、フロント周りのデザインが大きく変わり、cd値と冷却性を向上させている。冷却性はこの新型エアダムの採用により、ラジエターへの流入量は50%もUPしている。

19801980


 そして1981年、我がコルベットが発売となる。前年度のカリフォルニアモデルに採用されたエミッションコントロール機能を搭載したエンジンは350cidで圧縮比は8.2:1に抑えられ190hp/4200rpmとプアーな物だった。アルミのインマニとステンレスエキパイは80年からキャリーオーバーされている。また燃費規制をクリアするために軽量化が施され、ミッションにはロックアップ機構が追加されたモデルでもある。バルブカバーもマグネシウム製がおごられた。AT車はリアのリーフスプリングがFRP製となり(オプションサスFE7除く)、16kgの軽量化がされている。また運転席にパワーシートが選べるようになり、ラグジュアリー性を高めた。
 81年式は80年の8月頃からセントルイス工場で生産が開始され、81年8月1日まで生産された。同年6月1日にはボーリンググリーンに新設された工場でも生産が開始された。つまり、2ヶ月間は2カ所の工場で同時に生産されていたのだ。この工場間の主な違いは外装の塗装である。セントルイスではラッカーが使用され、ボーリンググリーンではベースにエナメルを用い、アクリルのトップコートが施された2plyペイントだった。仕上がりはボーリンググリーン産の物の方が良い。4万606台がラインオフされ、内8995台がボーリンググリーン生まれだ。当時のプライスタグはベースモデルで$16,000程であった。因みに私の車はセントルイス生まれの908台目で、オプションのグラストップ、クルーズコントロール、パワーシート付きだ。


 翌82年式は、このコークボトルラインのラストイヤーとなる。この年以降のエンジンは電子制御のインジェクション仕様になる。ミッションはマニュアルが無くなり、4ATのみの設定になった。
 コルベットがモデルチェンジする年には、必ずコレクターエディションなる特別仕様車が用意された。82年も例外ではない。グラデーションカラー、スペシャルホイール、七宝焼きの特別エンブレム、その他内装も特別仕様だった。特筆すべきはリアウィンドウで、ハッチバックになり開閉出来るようになったことだ。これは、次期モデルの為のテストケースだとされている。83モデルの発表が遅れたため、この年がコルベットの本当のラストイヤーであると騒がれた。


 83年は唯一モデルが存在しない年になる。43台のプロトタイプが作られており、これを83年型と呼ぶ場合もあるが一般的ではない。これら43台はテストのために破壊されていると言われる。84年式C4が発表されたのは83年3月だ。84年式の前半は83年型と呼んでも良い気がする。マスタングの64ハーフのように、83ハーフとか呼んでも良いかも知れない。
 2000年2月9日現在判明したことだが、実は83年型のパイロットモデルは44台製造されており、シリアルナンバー23の車両だけは工場に保存されていることがわかった。つまり、これまで定説とされた83年型の製造台数は43台ではなく44台であったこと。破壊されたのが43台であった事が判明したのだ。写真の通りシリアル#は23。10番目の記号が83年を表すDとなっている。

19831983


 84年(実際は83年3月)には、82年で生産中止になったと噂されたコルベットが、フルモデルチェンジC4で復活する。C3のハデなデザインからピニンファリーナ調に洗練されたデザインは素直にファンに受け入れられた。この年からエンジンルームもデザインの対象になりスッキリとした物になった。
 歴代コルベットは、量産車世界初のTバールーフ等、量産車における色々な「世界初」を試してきた。C4も例外ではなく、サスペンションのアーム類に軽合金を用いたのはコルベットが世界初である。マルチリンクサスについてもいち早く導入し、ハンドリング向上に貢献した。これ以降、現行モデルまで数々の世界初が試行されていくことになる。C5ではそのフレームが世界最大のプレス部品となっている。


 コルベットの歴史の中で特筆すべきモデルが存在した事を忘れてはならないだろう。ロータリーコルベットだ。2ローター、又は4ローターのヴァンケルロータリーをミッドシップマウントする物だった。GMは1972年の半ばから試作を繰り返していた。もしこれが市販されていたら、間違いなく私はこのモデルを購入しただろう。私はロータリーエンジンこそエンジンの中のエンジンだと思っている。V8もいいが、ロータリーにはかなわない。そのロータリーがあこがれのコルベットに搭載されているのだ。
 
写真は73年のフランクフルトショーに出品された物だ。レシプロ換算で6.5Lの2ローターエンジンをミッドシップマウントし、3ATが搭載されていた。今のマツダと同じデュアルイグニッション、サイドポートとロチェスターキャブで180HP/6100rpmであったが、エンジンルームには3ローターユニットも搭載できたという。その場合7.5Lで210HP/6300rpmが得られたらしい。2ローター、3ローター共ペリフェラルポートにすることで50%はパワーアップ出来たという。
 エクステリアは、ビル・ミッチェルがデザインしピニンファリーナが製作のみ担当したという異色モデルだ。ボディ材質は伝統のFRPではなくプレススチールが採用されていた。
 メィコ・シャーク2の時と同じように、人々は市販化を信じていたが石油ショックのあおりで、ロータリーエンジンの開発がストップし、日の目を見ることはなかった。

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