いつか忘れてしまうことだよ。

ヒデのなくなった体の一部だって、いつかは再生されるさ。

全部元に戻らなくても、見慣れたらいつか違和感は消える。

いつか何もかも思い出せなくなるよ、そう、久慈の名前だって。

 

そうやって日常になじんでしまえば、ちゃんと空に溶ける事件だ。

 

時が経てば、ヒデは必ず癒される。

なのに、誰もわかってくれない。

「久慈に会いたい」

「会って和解する方がいいと思う」

それでどうなるっていうんだ。

たまたま出会った人間が狂人だったって事実は変えられない。

 

久慈は高校に入って知り合った。

生まれて21年の俺達の歴史からすれば、たかが4分の1の線をともに引っ張っただけの存在にすぎない。

この先を過ごしていけば、線は点になる。

一瞬で通り過ぎる思い出にした方がいいんだ。

これ以上線を引っ張るということは、すなわち無駄な時間を増やすこと。

俺は、精一杯前向きに考えて、結論を出している。

 

「……どいつもこいつも、その場しのぎな提案しやがって」

 

力の限り握り締めた掌に太い棘が刺さったような痛みが走った。

と、同時に全体がひやりとした液体に包まれ、膝に濡れたズボンの重みがのしかかる。

 

目を開くと、そこは柔らかな肌色の壁が眩しい新幹線の中で、俺の体は着々とヒデの待つ部屋まで運ばれている最中だった。

持っている意識なく無残に潰された紙コップから、透明の雫が溢れて落ちる。

窓際に座る俺が受ける夕焼けの朱色を反射させ、まるで血溜まりのようだ。

そう見えてしまう俺も、もはや狂ってるのかも知れない。

 

東京へ行ってみてわかったのは、知らない奴らはもう日常を進んでいるということだった。

中学のときからの友達である稲葉悠一郎も、俺と同じ年月ヒデの幼馴染を演じている向温子も、ヒデを心配しながらも自分の人生を曲がりなく生きている。

俺達だけが望郷と反対に進む新幹線の向きと同じように、一緒に過ごした時間も場所にも背を向けて走っているように思えた。

倒した背もたれに伝わる超高速で未来を逆行する振動が気になって、もう寝つくことはできなかった。

 

感情的に怒鳴れば必ず後悔する。

だからと言って、冷静に話すこともできない。

わだかまる記憶に無理やり蓋を閉めることをみんなが拒むのであれば、俺が静かにいなくなるしかない。

俺は二度とあいつの名前を口にしたくないんだ。

 

今日2回目の拳の衝撃は、ヒデの左頬に対するものだった。

ヒデは口の中を切り、本物の血溜まりがフローリングの床に散った。

 

何が起こったかというと、正直なところよくわからない。

ヒデはもう寝てると思い、チャイムを鳴らさずに鍵を開けて部屋へ入った。

「……良平? 帰ったのか?」

その声は聞こえた気がした。

いや、聞こえたからそっちの方を見た。

月明かりから程遠い室内なのに、ピカリと鋭い光が目に刺さってきた。

思わず両手で瞼を覆った。

指の隙間から、閃耀の正体を探る。

寝ていると思っていたヒデがそこに立っていて、ダラリと下がった手元が尖った金とも銀とも言えない煌きに照らされていた。

 

部屋に真っ赤な血と銀色のナイフを落としながら倒れたヒデに、

「そんなもん持って何やってんだっっ……!!!」

とか言いながら、なおも覆い被さって拳を振るう俺がいた。

ヒデは無言で頭をかばい続け、そのころには俺も、

(ああ、今、ヒデを殴ってるな、俺)

なんて、自分の行動に気づいていたと思う。

だけど、意識を自ら飛ばすように、体はヒデにめがけていった。

そんなに死にたいなら殴り殺してやるよ、とも思ったかも知れない。

だけどそんな考えは、床に転がる俺達の横に降って落ちた血よりも赤い林檎によって砕かれた。

ヒデの義母、恵子さんからの見舞い品の果物の中に紛れていた林檎。

 

壁時計の針が進む音が、ようやく俺の脳にも届いた気がした。

 

よく部屋を見渡せば、俺とヒデはキッチンの下にいた。

出刃包丁ぐらい大きな刃物に見えたヒデが持っていたものは、恵子さんの見舞い篭に埋もれていても気づかないほど小型の果物ナイフ。

剥き終わったオレンジと剥きかけの林檎が、キッチン台の上で皿に並べられるのを待っていた。

 

「……謝らないからな」

俺が判断を誤ったのは一目瞭然だった。

ヒデは顔を覆ったまま、シンク下の収納棚に入り込むような形で床に丸まっている。

失敗したと思ったのに、「大丈夫か」と言おうとして出た言葉は、

「俺は悪くない」。

何回殴ったかわからない頬をぬぐってやらなきゃと思うほどに、

「あんな事件があった後で、ナイフなんか握れる方がおかしいんだっ……っ」

などと、ヒデを責める言葉ばかりが喉を越える。

本当に殴り殺してしまったんだろうか、と本気で不安になるほどヒデは立ち上がる気配を見せなかった。

言葉とは裏腹に、俺は恐怖を感じていたんだ。

だから、助けを差し伸べるための指が別の方向へ向いた。

 

今まで物に当たることはあっても、ヒデを殴ったことは一度もない。

いつもの俺は、ヒデと意見が行き違って最高に荒くれても、部屋中をひっかき回し、ガラスを割り、シーツを引きちぎった手で、最後には呆然とするヒデを抱きしめていた。

今、俺のこの手はヒデを久慈から守るためにあると思っていた。

ヒデの皮膚を破り血を吸うモンスター、久慈の影から。

どうも違うらしい。

事件後、一緒に暮らし始めた俺はヒデの後ろにある久慈の気配におびえている。

怒鳴り、暴れ、俺も久慈と同じ1モンスターになり下がり、ついにヒデの血を浴びた。

……いや、久慈とは違う。

俺とヒデの間には、久慈とヒデの間にあった感情がない。

ヒデが久慈に触れさせていた生き血に含まれていた、愛情の雫がない。

 

「……良……平……?」

優しく体を抱き起こすつもりだった腕は、何故かヒデの顔を無理やり俺の方へ向かせて押さえつけていた。

だから、全身を強張らせているヒデの両の瞳にも、俺の顔が全範囲捕らえられているはずだろう。

俺がその瞳に映る自分をしっかり見据え返せれば、如何に久慈と同じ獣に変化していたか自覚できたかも知れない。

だけど、見なかったから関係ないんだ。

ヒデが久慈にさらしていた、無防備な体勢と同じ格好になったときに見せる表情と、俺への表情が間逆だったとしても。

 

ヒデは頭を2回ほど左右に振った。

意識をはっきりさせたかったんだろうか、心の底から嫌で離れたかったからだろうか、ヒデのその動きが一瞬だけ俺の思考を戻させた。

しかし、ヒデがついでに床に吐き出した口に溜まっていた赤黒い血の唾を見て、闘牛のようにさっと意識が消えたんだ。

だから、俺も意味があって何かをしようともがいていたわけじゃないけど、

「何で俺じゃダメなんだよっ!」

と、叫んでいて、ヒデは、

「違う。良平、違うよ」

よく聞くと、小さな小さな声で俺の名を呼び続けていたが、俺はそれを打ち消すように、

「久慈とはやってたんだろうがっ!! 俺と何が違うんだよ! 嫌なら殴り返せよ!!」

とか何とか繰り返し怒鳴っていた。

 

ヒデは弱っている。

栄養失調やストレスなんかで落ちきった体重はまだ戻ってないし、精神的ショックだって計り知れない。

現に、殴られてダメージを負ったことを引いても、同じくらいの体格の俺が馬乗りになったところで跳ね除ける力があった奴なんだ。

なのに、今はこのザマだ。

マウントポジションを取られ、服を裂かれ、屈辱的な犯され方をされようとしているのに、本気の抵抗が見られない。

 

「……だったらさ」

 

ヒデの下半身まで剥こうとしていたときだった。

そのときのヒデは、棒のように足を放り出し、服従を誓った犬のようにあお向けになっていた。

この先の久慈の手順がわからず、力任せに裸体になりかけのヒデを押さえつけることしかできない俺に、

「良平、俺に……キスできるか?」

ヒデが静かに問いかける。

 

キスだと?

ヒデのパンツから目を離し、再度、ヒデの顔に視線を移す。

骨ばった頬についた無数のみみず腫れ、大きく開いた瞳。

ヒデってこんな顔してたっけ?

もっと丸くて頬っぺたなんて白くって、細くて切れ上がった目じゃなかったっけ。

「やりたいんだろ? 久慈はしてくれてたよ」

ヒデの唇が挑発的に動いたから、

「できるよ」

俺はもう他には何も見ないで、自分の唇の到着点だけに集中した。

 

そう、他には何も見なかった。

だから、この薄っぺらで紫がかった唇の持ち主なんて、誰にでも置き換えられた。

家庭科の授業で手元がくるって針を突き刺してしまったあのときみたいに、一瞬の痛みに耐えるだけだ。

一瞬だけ、一番表面の白くささくれた皮の天辺に掠るだけでいいのに。

俺とヒデの唇の間の空気が通り道を主張する。

なぁ、今のヒデの顔見ただろ?

昔の面影なんてないだろ?

俺とヒデの11年間の友達期間のどこにも存在しない顔だろ?

唇なんて、男も女も一緒だろうが。

何でこの数センチの距離を縮められないんだよ。

 

「……違うんだよ、良平」

ヒデが俺を押しのけて背をあげた。

全身をかけて圧していたはずなのに、俺もいつの間にか脱力していたんだ。

「お前が望んでないんだ。それが久慈とお前の違いだ」

起き上がったヒデは、さっきまで一方的にやられていたとは思えないほど強気に答えたから、

「何でもわかってるような口きくんじゃねぇよ」

俺も上から物を言ったつもりだった。

だけど、現にこいつにキスできなかったという事実が、言葉の後味を悪くさせる。

「……だけど、同じところもあるよ」

苦笑いにも似た状況に合わない息がヒデから吐かれたから、

「もうやめようぜ」

そう告げて、今日のことはなかったことにできるかも知れないと思った。

だけど、ヒデはそうしなかった。

「久慈も俺のこと愛してなんかなかったんだ」

口調とは反対に穏やかでないことを言った。

 

「……何だよ、それ」

俺は顎が落ちた状態で間抜けな声をあげた。

「お前ら2人でホモプレイ楽しんでたんだろうが。体だけだったってのかよ。わけわかんねぇ」

手の届くところに物があれば、また八つ当たりしていたかも知れない。

あいにく、俺とヒデはぺったりとキッチンの床に座りこんでいたので、その手はなす術なく頭を抱えるのみだった。

「ある意味あってる言葉だね」

ヒデが溜息のように台詞を置き去りにしたから、

「俺はお前みたいに何でも知ってる顔しねぇんだよ。俺がわけわかんねぇって言ってんだから説明しろ」

と、頭を抱えたままで、

「久慈にとってお前は何なんだよ」

俺はもがいた。

 

「食料、だよ。お前も知ってるだろう?」

 

「……何があったんだよ」

そんな簡単な言葉を、俺はようやく口にした。

「……不安なんだよ。俺の体が再生される。そうしたら……久慈は弱る」

何言ってるんだよ、そう言いかけた。

けど、ヒデが俺ののどぼとけを押さえるように、俺の手首の脈を両手で締め付けるものだから、何も言えなくて。

「なぁ、俺……どうなっちゃうの?」

ヒデに揺さぶられるままだった。

「なぁ、助けてよ……良平」

ただ、ヒデに揺さぶられるままだった。

「俺を助けて」

 

俺は過去とか振り返るのが大嫌いだ。

考えたって、やり直せるわけじゃない。

どうにもならないことを思ってるのは時間の無駄だ。

 

俺はそうやっていつの間にか何も考えなくなっていた。

何も、そう、人の気持ちとかも。

そうしていつしか、考えることをヒデに任せきりにしていた。

その結果、ヒデは考えるばかりで、自分の気持ちを外に出さなくなっていたんだ。

察することなんて容易いはずなのに、俺から灰の如く擦れて消えてしまった感覚。

誰かのためを思っているつもりで言ったことも、実はそれが俺のエゴの隠れ蓑であったこと。

俺はようやく悟った。

久慈はヒデを傷つけただけでなく、同時に癒していた。

本人に自覚なんてなくてもいい。

久慈は自分の欲しいものを手に入れただけでなく、ヒデにもヒデの欲しいものを与えていた。

俺は一番の親友だと思っていた奴が、俺以外の誰かを求めるのが気に食わないでいた。

今まで同じグループにいたから、同じ友達だと思っていたから、同じ立場から離れられずにいた。

こうやって、面と向かって求められるまで気づかないなんて。

この男を、俺の幼馴染で一番の親友の神島秀彦を助けてやれる方法だと。

何度もヒデから聞かされていたのに、ちゃんと求められるまで気づかないなんて。

俺は霞みすぎだ。

 

俺は勝負に出た。

ギュッとヒデの腕を掴み返し、

「久慈に会いに行こう」

一言でカタをつけた。

 

例えば、俺がお前だったらどういうふうに返事したんだろう。

久々に人のことを考えることを取り戻した俺には……やっぱりまだわからない。