トラモクのEG-420を弾く成毛 (当時のグレコの広告)

 

 

1972年にグレコのラジオCMの音楽として録音したもの。
ギターはグレコの特注EG-360第二号、アンプはブラック・パネルのフェンダー・デラックス・リヴァーブ、イフェクト無し。 その後、グレコのおまけのカセットにも使われた。
演奏は‥
   つのだ☆ひろ  Ds.
   高中正義    B.
   成毛 滋    G.

CMのコピーは‥
   つのだ「成毛さんのギター何 ?」
   成 毛「グレコだよ。」
   つのだ「ウソ!」
   成 毛「いや、あれ音いいんだよ。」
   つのだ「ホント‥」
‥であった。

 


'70年代の成毛のメイン・ギターだった特注EG-360 2号
成毛は「グレコのニセポール」と呼んでいた

成毛とグレコとは切っても切れない関係である。
成毛は'69〜'70年にはフェンダーのジャガーとギブソンのSGスペシャルを使っていたが、'71年からグレコを使うようになり、以後'82年にフェンダージャパンが登場するまでずっとグレコのギターを使っていた。当時成毛が弾けるギターはグレコしかなかったのである。


又、ジプシーアイズ以後プロの音楽業界から閉め出され、学園祭か自主コンサートしか演奏する場がなかった成毛に演奏する場を作ったのはグレコを中心とした楽器業界であった。
当時の成毛の演奏ツァーはいずれも各地の楽器会社が販促イベントとして主催したもので、既存の音楽事務所やプロモーターは一切関わらないようにして行われた。
従って成毛が'70年代にトップギタリストになれたのはグレコがあったからであり、もしグレコがなかったら成毛がミュージックライフ誌のギタリスト人気投票で一位 になる事もなかったであろう。


FLIED EGG 左から高中、つのだ、成毛。ベースもギターもグレコ

 



特注EG-360 1号。 ロンドンで 「売って
くれ」 と言われて売れてしまった

成毛が初めてグレコを使ったのは'70年当時神田商会にいた長沢尚敏氏(現レオミュージック社長)の勧めだった。

成毛は並外れて手が小さく指も短かったため、アメリカ人の体型に合わせて作られたフェンダーやギブソンのギターはネックが太過ぎて手に合わず、他のバンドのギタリストが難なく弾けるフレーズでも、成毛には指が届かなくて弾けないものが沢山あった。
成毛がこの話をすると長沢氏は「グレコだったら今工場が暇だから、言えば何でも作るよ。試しに細いネックのギターをオーダーしてみたら‥?」と言った。そこで成毛は長沢氏を通 して「トラスロッドが効く範囲内でできる限り薄いネックのレスポール・タイプ」をオーダーしてみた。

数日後、長沢氏ができあがった特注のレスポール・タイプ EG-360を持ってきたので弾いてみると薄いネックは成毛の手にピッタリで、他のギターでは指が届かなかったポジションも楽に届き、成毛は「これは素晴らしい!」と喜んだ。
しかもそのギターをアンプにつないで鳴らしてみて成毛は自分の耳を疑った。それまで使っていたフェンダーやギブソンのギターよりも音が良かったのである。


手に持っているのが特注EG-360 1号、
ハモンドオルガンの上にあるのがギブソンSG

 

当時グレコと言えば無名の三流ブランドで、「定価が36000円のギターで、工場も暇だって言うぐらいだからどうせ音はロクなもんじゃないだろう」‥と思っていたのが、素晴らしい音をしていたのだ。


初め成毛は自分の耳が信じられず、バンド仲間を呼んで目隠しテストをしてもらったが、フェンダー、ギブソン、グレコと弾き比べると誰にきいても「一番音がいい」と言われたのはグレコであった。

「これはすごい!」とやっと状況を把握した成毛はその後ステージでギターソロの時にギブソンとグレコを持ち出し、「こちらが十六万円のギブソン、こちらが三万六千円のグレコです」‥と言って弾き比べてみせた。成毛は敢えて「どっちが良い」とは言わなかったが、客席からはどよめきが起こり、明らかにグレコの方がいいという反応であった。

特注EG-360 2号。ディタッチャブル・ネックで、
裏側もイェロー・サンバーストになっている

 

ただこのギターはボディーがストラトの3トーン・サンバーストのような塗りだったので、成毛は長沢氏にフリーのポールコゾフがイエロー・サンバーストのレスポールを持っている写真を見せ、「このギターでこういう色のはできないかな?」‥と言ってみると長沢氏は「できるよ」‥と言ってその写真を持って行った。
数日後、出来上がったギターは見事に写真の通りの色に仕上がっていたが、ギターの表側の写真しか渡さなかったために裏側も同じイエローサンバーストになっていて、成毛は「これは珍しい!世界でもこんなレスポールは他に無い」‥と大喜びした。
以後このギターが成毛のメインギターになり、フェンダーやギブソンでは弾けなかったフレーズも弾けるようになった成毛はトップギタリストとしての名声を築き上げて行った。

 

 

 

 


裏側もイェロー・サンバーストの特注EG-360 2号を
マイク・スタンドで弾く成毛  (撮影 東京写真工房)

 


 

当時グレコを販売していた神田商会の営業部長だった鈴木智敏氏(後の小嶋智敏社長)はグレコの売り上げを見て驚いた。それまではあまり売れずに在庫を抱えていたグレコが突然売れだし、在庫どころか製造が追い付かなくなっていたのである。
不思議に思ってグレコを買った人からの愛用者カードを読んでみると、「成毛がステージでギブソンと弾き比べるのを見たらグレコの方が音が良かったから買った」‥というものが殆どだった。


そこで鈴木氏は成毛を神田商会へ呼び、「うちと専属契約をしませんか?」‥と持ちかけた。
成毛は専属の話は断ったが、「それよりも僕の考えるようなギターを作って発売してもらえませんか?」‥と言ってみた。すると鈴木氏は「いいでしょう。何でも好きな事を言って下さい」‥と答えた。
そこで成毛は長沢氏とグレコを製造していた富士弦楽器の工場に行き、横内祐一郎社長(当時)、上条欽用工場長(今のフジゲン社長)、牛丸寿英主任、椎野秀聰氏(後にヴェスタックス社長)等と会い、「リアピックアップをオープンにする」‥等「こういうギターを作って欲しい」というのを細かく説明した。


驚いた事になんと3日後に試作品が成毛の所に届き、弾いてみると音色も弾き易さも成毛にとってまさに理想のギターであった。
そこで神田商会の鈴木氏に「素晴らしいです」‥と報告すると、鈴木氏は即座にこのギターの発売を決め、型番はEG-420、定価は42000円となった。
そして鈴木氏は成毛にこのギターのラジオ用CMの製作を依頼し、文化放送のスタジオで録音した。これが「ギターはグレコ」のmp3ファイルである。


グレコのおまけのソノシート
今聴くと信じられないが、他に情報が一切無かった当時はこのソノシートが欲しくてギターを買った人が大勢いたのである

又成毛は、このギターの素晴らしさが初心者にも分かるようにピックアップやトーンコントロールの使い方を実演してみせる事を提案し、鈴木氏はそれを当時流行っていたソノシートにしてギターのおまけに付ける事にした。
この「ソノシート付きギター」が発売になると爆発的に売れ、それまで10%に充たなかったグレコの国内シェアが数カ月後には70%に跳ね上がり、無名ブランドから一気にギターのトップブランドになってしまった。


 

 

 

ギター : グレコの特注EG-360第二号、
アンプ : ブラック・パネルのフェンダー・デラックス・リヴァーブ、イフェクト無し。 相手は奈良史樹氏。

又、このソノシートもアマチュアの間で人気が出て、前にEG-360を買った人が「おまけのソノシートだけ欲しい」と言って来るようになったので、鈴木氏は「もうちょっと内容を増やして、カセットテープの教則本を作りませんか?」‥と提案した。
そこで成毛は音色の使い分けだけではなく、ピッキングや色々な奏法、コード理論なども説明した教則カセットを作り、鈴木氏はこれをギターのおまけに付けると同時に、単体でも発売した。
当時の日本では古いジャズやカントリーの奏法を説明した教則本はあったもののロックギターの奏法を説明したものは一切無く、この教則カセットも爆発的に売れた。
後にプロとして活躍したギタリストには、「初めはグレコのおまけのカセットでギターの弾き方を覚えた」と言う人が大勢いる。


グレコのおまけの教則カセット
当時ギター教室等から「デタラメを言うな ! ギターにそんな奏法は無い」‥という内容証明が幾つも送られて来た

 


 

 

 

ギター : グレコの特注EG-360第二号
アンプ : マーシャル1959+1960cab、イフェクト無し。

 

 

又鈴木氏はレスポール・タイプの他にSGタイプのSG-360、ストラトタイプのSE-500も成毛仕様で発売し(SE-500はミディアム・スケールだった)、これが又爆発的に売れ、当時のアマチュアバンドはグレコ一色になってしまった。

 

そして鈴木氏は全国の楽器会社と連携して成毛のコンサート・ツァーを企画し、各地の楽器会社の主催で成毛は全国ツァーを展開した。これによって成毛の知名度は一気に全国規模になったのである。


グレコのフライングVを持つ柳ジョージ(左)と
SE-500を持つ成毛(右)  (撮影シンコー長谷部氏 )

 


 


当時の富士弦楽器の工場

それまではマイナーだったグレコがフェンダー、ギブソンを凌ぐギターを作れたのは決してまぐれや偶然ではない。
グレコは長野県松本市にある富士弦楽器(現フジゲン)が製造し、神田商会が販売していたが、それ以前に富士弦楽器は輸出用のギターを専門に製造していて、国内向けも始めたのは'68年頃からであった。そのため日本での知名度は低かったが、海外では既にいくつものバイヤーズブランドでギターを販売していて、厳しい外国のマーケットで揉まれながら高い技術を培ってきていた。
この富士弦楽器に牛丸寿英氏という職人気質のカタマリのような人がいて、常にいいギターを作る為の研究、工夫を重ねていた。
例えばギターには特定の音が伸びなくなる「デッドポイント」という欠陥が出る事があり、この問題を解決するために牛丸氏は木琴の製造工場へ行ってデッドポイントが出ないようにする木の削り方を修得した。そしてこの技術をギター造りに取り入れたため、富士弦楽器のギターは当時国産で唯一デッドポイントが出なかったのである。


又、神田商会にいた斉藤任弘氏は日本人で初めてアメリカのグランド・オール・オープリーに出演したカントリーの歌手であり、日本人で初めてアメリカのフェンダー、ギブソンの工場へ行ってギター造りの技術を学び、それを日本へ伝えた技術屋さんでもある。
斉藤氏は神田商会の前にはエルクにいて、日本で初めてエレキギターのネックにトラスロッドを入れた事でも知られている。(それまでの日本のエレキギターにはトラスロッドが入っていなかったのだ)
日本のエレキギター製造技術の進歩に斉藤氏は大きく貢献している。


EG-600を弾く成毛。このギターもロンドンで
「売ってくれ」と言われて売れてしまった

この牛丸氏と斉藤氏のノウハウが一緒になった事でグレコの品質は飛躍的に高まり、いち早く「NCルーター」を導入する等、アメリカのフェンダー、ギブソンの工場に負けない技術を持っていたのである。
ただ日本ではあまり知られていなかったために「無名の三流ブランド」と思われていたが、そのクォリティーに気付いた成毛が演奏する立場からの意見も入れ、ステージで証明して見せた事によって一躍トップ・ブランドになったのであった。


又、富士弦楽器のギターをイバニーズ・ブランド(今はアイバニーズ)で星野楽器が外国へ輸出していたが、日本と違ってブランドにとらわれない外国で売り上げがどんどん上がり、ついには欧米との貿易摩擦を引き起こし、日本製ギターの輸入規制をされるようになった。富士弦楽器のエレキギターは国家間の貿易問題にまでなったのである。

 

 



その後グレコのレスポール・タイプはEG-480、EG-600、EG-700‥とグレード・アップしてラインナップを増やしていったが、神田商会の中には成毛の考えに反対する人も出て来た。
よくギター雑誌に「グレコは成毛のアドバイスでギブソンのレスポール・スタンダードに近付いて行った」‥と書かれたがこれは逆で、成毛は「ちょっと見は似てるけど、ギブソンよりも弾き易く、音が良くて,値段が安い」というギターを理想としていた。
つまり、むしろギブソンと同じにならないようにしていたわけで、「ナローネック」「スリム・ネック」「イージー・アジャスタブル・ブリッジ」「コントゥアード・オフセット・ボディー」‥等、ギブソンとは全く違う仕様になっていった。


成毛が関わった最後のグレコ、
EG-700はポジション・マークが丸

又成毛は「高くていいのは当たり前。安くていいのが素晴らしい。」‥と言って低価格にこだわり、定価は「八掛けで買って5万円台まで」と主張していたのだが、神田商会には「うちは国内シェアトップなんだから、もっと高級路線で行くべきだ」‥という声が強くなった。
そして東海楽器がギブソン・レスポールのデッド・コピーを高価格で発売すると神田商会のA氏は、「うちもギブソンとドンズバ(全く同じ仕様)で、価格を高くしよう」と言い、富士弦楽器の工場へ行って「これからは成毛の意見を一切聞かないように‥」と厳命した。
ギブソンと同じ仕様になると成毛は指が届かなくて弾けなくなってしまうというのをA氏に説明しようとしたが、自分でギターを弾かないA氏には理解されず、ここで成毛とグレコとの関係は終わり、グレコの広告からも成毛の姿が消えた。
以後発売されたEG-800、EG-1000‥等は成毛の考えと全く違う仕様になり、定価も「八掛けで6万円」を超えたが、何故かEG-800は「成毛モデル」として発売された。

 

 

 

 


ミディアム・スケールのSE-500を弾く成毛
(撮影 シンコー長谷部氏)


 

 

 


右手でハモンド・オルガン、左手でグレコのSG-600
を弾く成毛 (撮影 東京写真工房)

グレコのEG-600を持つJimmy Page
大阪公演で使った (写真 プレイヤー誌)