終章
 長い夜がようやく明け、太陽の光が校舎を照らし出した。夜の間中、ライトアップさ
れて凶々しい威容を誇っていたアルゴンキン・ハイスクールも、陽光の下にその姿をさ
らすと、不気味さよりも滑稽さの方が先だって見えた。理科室に置いてある骸骨の標本
も、薄明かりの下で見れば不気味だが、屋外に引っ張り出せば紛い物臭さばかりが目に
つく。無惨な姿をさらし崩れかけた象徴にしがみつく事の、いかに無意味な事か。
最上階にいる二人の人間にとって、自分達が今いる場所の事など、どうでもよかった。
重要なのは、夜明けが来たという事だった。
 "狙撃者"はこれから起きる事を知っていた。自分がどうするかも決めていた。だが、
結果がどうなるだろうかはわからなかった。その結果を迎えて、自分がどう思うかもわ
からなかった。彼は夜明けが来るのが恐ろしかった。しかし、それでも任務に向けて、
踏み出さざるをえなかった。
 "監視者"はこれから起きる事を知らなかった。何かが起きた時、自分がどうするかも
わからなかった。まして、終局にあるであろう事など、わかるはずがなかった。だから、
彼女は夜明けが待ち遠しかった。自分が、彼が、どういう解答を見いだすのか、知りた
かった。
夜の間に雨はやみ、大きな川とそれに架かった橋とが、肉眼でもはっきりと見て取れ
た。 二人はペントハウスの上部、テラスに腹ばいになり、青年は円形にくりぬいたガ
ラスの向こうに突き出たライフルの前、少女はその傍ら、同じく外に突き出た風力計と、
双眼鏡の前にいた。二人とも交信用のレシーバーを付けている。
手元の時計を見ると、時刻は午前7時50分を指していた。後、10分。それだけの
時間が経てば、標的が乗った車が、正面の橋を東から西、彼らの方から見て左から右に
横切って行く。
 時間が経てば、太陽ももう少し南へ移動するだろうが、二人のいる位置に陽があたる
心配は無かった。一部ガラス張りになっている天井からも、角度的に陽光は入らないだ
ろう。邪魔される事なく狙撃に専念できる。もっともそういった地理的条件も含めて、
この場所を狙撃地点に選んだのだろうが。
 照準を覗いていた"狙撃者"が不意に言った。
「しまって行こう」
 腹ばいになった姿を見ながら、少女は、つくづく制服の似合わない男だ、と彼の事を
考えていたのだが、急に高校野球のような事を言い出したので、驚いた。しばらく口を
開かなかったので、てっきり今日の最初の科白は、「距離は?」だと思っていたのだ。
それが「しまって行こう」だとは予想もつかなかった。らしくなかった。
考えていた事がまた顔に出てしまったらしい。少女を見た青年は、ばつが悪そうに口
を引き結んだ。だが、すぐに気を取り直したらしく、続けた。
「これが、俺のラスト・ターゲットだ」
「え!?」
「引退する」
 少女はよけいに驚いた。高校野球の次は「引退する」である。彼女は組織に引退とい
う言葉があるなど、考えた事もなかった。そんな、プロ野球みたいに簡単なものなのだ
ろうか? 引退すればその後はコーチとして後進の指導に当たり、キャリアを積めば監
督、すなわち"管理者"クラスの幹部になれる、というような制度があるのか? 聞いた
事もなかった。考えれば考える程、少女には引退という言葉が、とてつもなく不吉なも
のに思えてきた。
「引退がまずければ、卒業だ」
 少し、学生らしくなって来た。そう、自分達は一応、学生なのだ。それにしても、「
卒業」。どのみち嫌な言葉である。晴れの門出のような事を連想させなくもないが、い
かれた教師とさんざんやりあった後で、いったい何を卒業するというのだろう。
「ねえ……」
 と、"監視者"が言いかけたその時、通信が入った。聞き慣れた冷たい声だ。
『「0」よりイーグル1、イーグル2へ。標的が到着した』
 双眼鏡を覗くと、橋のたもとに一台の乗用車が姿を現していた。"監視者"は車に詳し
くないのでわからないが、かなり大型の高級車である。ベンツか何かだろう。
「イーグル1、了解」
「イーグル2、了解しました」
 周囲には、他の車も人影も無かった。
「距離は?」
 いつもの口調で、"狙撃者"は照準を覗きながら尋ねた。
「2000m」
 双眼鏡の距離表示を見て、"監視者"は努めて事務的に答えた。
「減少中。……1950m」
「風は?」
 双眼鏡から目を離し、風力計のデジタル表示を見る。
「強めの横風。北西から12m」
 再度、双眼鏡を覗き、
「左に微調整、10==」
 と、付け加える。
その間にも標的の乗用車は、ごくゆっくりとした速度で、四つある車線の真ん中を通
って、橋を渡ろうとしている。
 "狙撃者"は銃弾を一つつまみ取ると、ライフルに装填した。
「風が強いわ。標的の進行方向を狙って」
 ライフルの照準が、進行する車の前方を捉えた。車の移動に合わせて、間隔を変えず
に照準も移動する。
「距離、1800。標的がゾーンに入るわ」
 引き金に、青年の指がかかる。
『今だ』
 二度目の通信。
 しかし、"狙撃者"はスコープを覗き続けながらも、引き金にかけた指に、力を込めよ
うとはしなかった。
「……青信号よ」
『撃て』
 "監視者"の「進め」のサインに続いて、三度目の通信が入る。距離計の表示は、じょ
じょに1600mに近づいていた。間もなく狙撃可能な距離から抜け出てしまう。"狙撃
者"はぎりぎりの所まで、待つつもりなのだろうか? 
 ……違った。青年はスコープから目を離し、引き金にかけていた指も外した。
「過去を忘れし者は、失敗も繰り返す」
『何をしている、イーグル1。撃て』
 四度目の通信も、聞いていなかった。"狙撃者"はレシーバーも外すと、床に放り出し
た。
「だが、それは本当に過ちか?」
 目を伏せて自問するかのように呟く青年の前で、標的は今まさに狙撃可能限界点を突
破しようとしていた。
 反射的に"監視者"は上体を起こし、隠していた銃を抜くと素早く安全装置を外し、青
年に突きつけた。"狙撃者"はさして意外そうな顔もせずに、目を上げて彼女の方に向き
直った。
「早く……早く撃って!」
 しかし少女の発した声は、半ば彼女自身に向けられたものだった。わかっているべき
だった。いや、とうの昔にわかっていたはずだったのだ。"狙撃者"は決して撃たないと
いう事を。撃つ覚悟を固めなければならなかったのは、"監視者"の方だった。明日は、
撃つのか? 本当に撃てるのか? それは、少女自身が己に問うていなければならない
事だったのだ。
「もう、新入生というわけでもないだろう」
 青年は皮肉な笑みを浮かべていた。
「撃ってみろよ」
 彼女を見上げる青年の顔から、以前は何の表情も読み取る事が出来なかった。だが、
今は違った。少しだが、彼の事を知った。だから見えていた。青年の心の内側、盲目的
に学校を崇拝した大人達によって傷つけられた、優しさが……。
『イーグル2、イーグル1は不能だ。殺せ』
 少女もレシーバーをかなぐり捨てた。「0」の五度目の通信は空しく響いた。彼女の
手の銃の先は依然として"狙撃者"に向けられ、引き金にも指はかかったままだった。だ
が、その指は動かなかった。もう、動かしようがなかった。
 見つめ合う二人の遥か彼方、橋上で、標的である人間を乗せた乗用車は、狙撃の圏外
へ去ろうとしていた。
 その時。
 一発の銃声が、朝靄の中を貫いた。銃弾は、"監視者"の拳銃から放たれたのではなく、
また"狙撃者"のライフルから発射されたわけでもなかった。だが、確かに一発の銃弾が、
標的の車のボンネットを撃ち抜いていた。
 見おろした"狙撃者"達の視界の中で、車体を撃たれた車はスピンし、橋のガードレー
ルにぶつかって停止した。青年は視界の橋で動く者を捉えた。アルゴンキン・ハイスク
ールの斜め正面に立つ高層ビル、その屋上にいる、ライフルを構えた二人の人影を。
 第二の狙撃者の銃から、第二弾が発射された。銃撃は今度は車体の天井の辺りを破壊
し、車はその衝撃で横転した。続いて放たれた第三弾が、剥きだしになった車体の腹を
ぶちぬいた。息を飲む"監視者"の目の前で、標的は爆発し燃え上がった。
 そして、ターゲットを完全に破壊した後に、屋上の人影はゆっくりと"狙撃者"等に向
けて向き直った。
 とっさに反応し身を伏せた"狙撃者"の正面で、ガラスが粉々に砕け、貫通した第四弾
がペントハウスの床にめり込んだ。
「物陰へ行け!」
 ガラスを避けて飛び離れた少女に叫ぶと、青年は身を起こしライフルに飛びついた。
相手のライフルは、連発式ではなかった。装填の際に、僅かに間が空く。"狙撃者"のラ
イフルには、既に装填済みだった。1==先に飛来する死神が、獲物を求めていた。
 青年は膝をついてライフルを構え、一見、無造作な動きで狙いをつけた。今日ついに
標的を撃つ事がなかったライフルは、喜々として銃声を轟かせた。必殺の一撃は狙い過
たず、遥か彼方の敵の胸元を打ち砕いた。
 "狙撃者"には見えていた。敵が全身に完全武装を施しているのが。それはすなわち組
織の特殊部隊である事が解っていた。
 遠くのビルの屋上、仲間を一撃の下に倒された兵士は、床に転がったライフルを拾い
上げた。
 膝をついた姿勢のまま、"狙撃者"は空の薬夾を排夾すると、淀みないボルトアクショ
ンで第二弾を装填した。その青年を、再度の攻撃が襲った。
 が、弾はガラスを砕き、"狙撃者"の立っていた位置を確かに撃ち抜いたが、彼を捉え
られない。弾着の一瞬前に"狙撃者"は横に飛んでいた。攻撃を読んでいたか、あるいは
飛来する弾丸を視認したか。
 床を転がった"狙撃者"は再び身を起こすと、ライフルを腰だめに構え、狙いをつけも
せずに撃った。だがそれでも銃弾が標的を外す事はなかった。
 "監視者"が見上げた先、彼方のビルの屋上で、二人目の人影が倒れていくのが見えた。
人のいなくなったビルの浮かんだ早朝の空は、まるで何事もなかったかのように澄んで
いた。
「信用がなかったな」
 もう敵はいなかった。ライフルを下ろして立ち上がると、同じく何事もなかったかの
ような、淡々とした口調で青年は呟いた。
 少女は、自分がまだ銃を構え、青年に向けている事に気付いた。
「撃たなかった……前の時も」
「……ああ」
「また今日も。撃てなかったのね」
 突きつけられた銃口と少女を、青年はどこか眩しげに見つめていた。
「自分の顔に見えた」
その答えが来る事は知っていた。少女は力なく銃を下ろした。青年は首を振って、明
るく言った。
「任務か、死か。そんな二者択一はもうごめんだ。いつまでも学生でもない」
 "狙撃者"はまっすぐに少女を見て、続けた。
「もう卒業だ。今なら組織から抜けられる」
 "監視者"は言葉が見つからなかった。だが、何か言おうとした。そんな少女を、青年
は遮った。そして、言った。
「二人でだ」
 それを聞いて、少女は自分の口に、自然と笑みがこぼれるのがわかった。少女はうな
ずき、青年の方に歩み寄ろうとした。
 突如、天井の一部、ガラス張りになった部分が、小さな爆発音とともに砕けた。二人
が天井を振り仰ぐと、その隙間から何かが投げ込まれた。
 次の瞬間、投げ込まれた物……発煙筒から猛烈な勢いで煙が吹きだした。それに続い
て、サイレンの轟音が、室内に響きわたった。
 音のあまりのボリュームに、二人は一瞬、部屋全体が揺らめいたかのような錯覚を覚
え、姿勢を崩した。"監視者"は脚をもつれさせて階段を転げ落ち、"狙撃者"もよろめい
てライフルを取り落とし、横転してテラスの縁から下の床に落下した。
サイレンが止んだ直後、今だ煙の立ちこめるペントハウスの内部に、天井から四本の
ロープが投げ込まれた。そして、それに身体を固定した完全武装の兵士が次々と降下し
てきた。上半身を黒づくめのボディアーマーで覆い、自動小銃を手にした兵士が四人。
顔もガスマスクとヘルメットで覆われ、判別が出来ない。
落下したものの受け身を取って、すぐに起き上がった"狙撃者"は、腰の拳銃を抜くと、
柱の陰に隠れた。しゃがみ込んで顔だけのぞかせ、様子を窺う。
 派手に階段落ちした"監視者"も、銃は放していなかった。痛みにうめきながらも立ち
上がり、同じく柱の死角に入り、息を潜める。
 四人の兵士は固まらずに、銃を構えたまま分散して、周囲を見回し始めた。ペントハ
ウスは普通の教室よりは遥かに広いが、しかしいつまでも隠れていられるわけでもない。
自分が隠れている柱から、少し離れた所、床が金網状になっている部分を、"狙撃者"
は見た。床の下を配管などが通っており、中での作業のためだろう、金網が一部開いて、
下に潜り込めるようになっている。
「あそこまで、いけるか……?」
 無理だった。敵の注意はどうやら彼のいる方向に向き始めたらしい。2m程の距離だ
が、たどり着くまえに蜂の巣にされるだろう。
 だが、部屋の反対側にいた"監視者"は、全く反対の事を考えていた。彼女の方には敵
が来ていない。今なら、走ればペントハウスの入り口までたどり着けるかも知れない。
そして、敵の注意を引けば、"狙撃者"が行動を起こすだろう。迷いはしなかった。
 柱の陰から飛び出すと、次の物陰、摺りガラス張りの衝立めがけ、"監視者"は走った。
 さほど遠くない所にいた兵士の一人が、すぐに反応した。小銃を連射しながら、少女
の後を追う。銃弾が衝立を打ち砕き、"監視者"は休む間も無く走った。
 兵士達の意識が、わずか一瞬、"監視者"の方を向いた間隙を突いて、"狙撃者"は飛ん
だ。金網の下に素早くもぐり込み、前方を見る。床の金網は戸口の手前まで続いており、
兵士の一人がちょうどその真上に立っていた。
 床下は狭い。中での作業は必然的に仰向けに寝そべってすることになる。そのための
移動用の台車が、青年のすぐ側にあった。躊躇う事無く"狙撃者"はそこに仰向けになる
と、脚で床を蹴った。
 走っている少女を目で追っていた兵士の一人は、何かが転がるような音に気付いて振
り返った。彼は見た。自分の真下をめがけて、標的である学生服の青年が、床下を仰向
けに突っ込んでくるのを……。兵士は小銃を連射したが、高速で滑ってくる"狙撃者"の
動きに対応しきれず、また弾丸も、全て金網に弾かれた。金網の目は、せいぜい銃弾一
発が通る程度の隙間でしかない。射撃など不可能である。
 が、そうではなかった。スピードを落とさぬままに兵士の真下を通る瞬間、"狙撃者"
は都合四度引き金を引いた。四発の銃弾は、全てが正確に金網の目を通した。兵士の全
身が驚愕に縁どられた瞬間、防弾着の無い下半身が足から股間にかけて撃ち抜かれてい
た。
 背後の銃声を聞いた"監視者"は我知らず笑みをもらすと、たどり着いた戸口から廊下
に飛び出した。背後を振り返らないまま拳銃を撃つと、そのまま屋上に続く階段の方に
向けて走る。
 彼女を追った兵士は、慎重に小銃を構えたまま、階段に続く戸口の前に来た。"監視者"
はここに駆け込んでいた。兵士はゆっくりと扉を開け、中に入った。誰もいない。階段
を上って屋上まで逃げたのだろうか? 次の瞬間、真上から少女のしなやかな肢体が襲
いかかった。"監視者"は兵士の持った銃をつかみ、銃口を兵士自身のゴーグルに押し付
けると、引き金を引いた。
 床下の戸口側の出入り口から這い出すと、"狙撃者"は立ち上がって、テラスに向けて
走った。テラスの真下の柱から兵士が姿を現し、彼を狙って小銃を乱射する。が、全て
青年はかわした。かわしながら、右手に構えた銃を撃ち続ける。撃ち続けながら、走り
続ける。銃撃にひるんだ兵士は柱の陰に身を隠した。それと同時に"狙撃者"の銃も弾切
れを起こした。だが、もう充分だった。"狙撃者"は空の銃を放り出すと、長身を躍らせ、
テラスの縁に飛びついた。そのまま素早く懸垂し、身体を上に引き上げる。兵士は目
の前にぶら下がった青年の下半身を撃ったが、一瞬遅かった。一発が彼の脚をかすめた
が、それまでだった。 "狙撃者"はライフルをつかみ上げると、立ち上がって真っ直ぐ
に狙いをつけた。テラスの真下から飛び出し、上を見上げた兵士は、自分の胸板を狙っ
た銃口に立ちすくんだ。
 轟音一閃、神聖なる学び舎に血潮が斜めに奔騰した。遥か彼方の鋼鉄板を撃ち抜く一
撃を至近から受け、兵士は胴体に風穴を空けられて倒れ込んだ。
室内に静寂が戻った。しかし、今だ"狙撃者"の五感は研ぎ澄まされていた。彼が倒し
た兵士は二人。"監視者"を追って行ったのが、一人。もう一人いるはずだった。
 何の気配も感じない。敵は完全に気配を消していた。完璧な隠行の術で、教室内に同
化している。昔、クラスに一人はいなかっただろうか。いるのかいないのか解らないよ
うな奴が。己を完全に殺し、その日一日を乗り切っていたような生徒がいなかっただろ
うか。そういった生徒にとって、学校では周りの全てが敵だった。狙われる事に慣れた
者達。組織の暗殺者は、そういった人間ばかりで構成されている。被害妄想に取り付か
れ、己の身を守ることのみに長けた者達。組織の失敗だった。狙われ続けて来た者は、
決して狙う事には慣れていないのだ。"狙撃者"でさえも、技術だけは身につけたが、結
局は耐えられなかった。自分達を襲って来た兵士も、その戦闘力を発揮する間もなく、
次々と倒されていった。最後に残った一人だけが、青年と互角の条件になってようやく、
その真価を発揮している。
 学校という空間に絶えず狙われ続けた者達。彼らが何もかも信じられなくなり、組織
に集まり、自分達の拠り所を求めたのも、当然と言えば当然かも知れない。だが、組織
に入って自由なつもりになっても、それはまだ学校に縛られているにすぎない。何か、
他に信じられる物を見つけ、何かを信じている自分を認識するまで、学校を忘れる事な
ど出来ないのだ。
 自分に向かってくる兵士にかすかな哀れみを覚えつつも、青年はナイフを引き抜いた。
勝負は一瞬のはずだった。彼のナイフが速いか、兵士が青年を捉えるのが先か……。
視界の隅、階段の端から銃口が覗いた。
 やられる、と、一瞬、青年はそう思ったが、しかし、銃声は別の場所から聞こえた。
青年からわずか数mの所まで忍び寄っていた兵士は、背後からの銃撃を受けて崩れ落ち
ていた。
 小銃をぶら下げて、少女が階段を上ってきた。疲れた表情で、それでも彼の
顔を見て微笑んだ。青年も笑い返した。そして思った。自分は彼女を信じ、助け、守っ
てきたつもりだった。だが本当は、守られ、救われていたのは、彼の方だったのかも知
れない。
「卒業パーティに行こうか」
 いたずらっぽく言うと、少女はしようがないとでも言う風に、肩をすくめた。
「お店はどこ?」
 連れだってテラスを下り、戸口の方に向かいながら、ふと、青年は振り返った。テラ
スの上、窓際にライフルが置かれたままだった。あれも始末しなければ……。
 少女も振り返っていた。だから、二人とも気付かなかった。背後の扉がゆっくりと開
き、中に一つの人影が滑り込んで来たのを……。
 ショットガンに散弾を送り込む音に、青年は反射的に少女を突き飛ばすと振り返り、
その方向にナイフを投じた。だが、人影は機敏な動きでそれをかわすと、立ちすくんだ
青年に向けて引き金を引いた。胸元に銃弾を受け、青年はよろめいた。続いて、第二弾
が放たれ、再び彼の胸で炸裂した。青年は倒れながら、視界に映った二人の人影が、遠
のいていくのを感じていた。名前も知らない少女を呼びながら、彼の意識は暗転した。
 "狙撃者"が銃撃をまともに受け、床に倒れ込むのを、呆然と"監視者"は見つめていた。
悲鳴が喉元まで出かかり、辛うじて彼女はそれを抑えた。そして、彼を撃った人影を
振り返った。
「……私は誰かな?」
 人の良さげな笑みを浮かべながら、その男は立っていた。少女はその男を知っていた。
だが、今の今まで全く知らなかったのだ。
「今、ようやくわかりました。0……」
 新任の国語課教師、暮井。だが、それは上辺の肩書きに過ぎなかった。組織の最高幹
部の一人、暗殺部門を司る"管理者"「0」。彼が自ら出向いて来ていたのだ。
 "監視者"は唇を噛んだ。"狙撃者"は「暮井」の姿をほとんど見ていなかった。だから、
幾度か言葉をかわした自分が、気付いていなければならなかったのだ。うかつだった。
「惜しい事をしたな。彼は超一流だった。出来損ないの学生どもにしては珍しい程、い
い腕をしていた」
 「0」は笑っていた。
「だが、躊躇した。任務か、死かだ。組織では選べる道は二つしかないんだ。それを外
れようとした人間には、死んでもらう」
 言葉を無くしている"監視者"に向けて続ける。
「君も躊躇したな? 自分の意志か、それとも強制されたか?」
 少女が答えないでいると、「0」はうなずいた。
「君にも、向かうべき二つの道がある。組織に戻るか、それとも……。答は聞くまでも
ないな。だが、二度と躊躇うな」
 「0」は手の中の銃身に、第三弾を送り込んだ。
「いい仕事をしたければ、躊躇わずに、仕上げも自分でする事だ」
 床に倒れている"狙撃者"の身体に銃口を向ける。だが、それと同時に"監視者"は、持
っていた自動小銃を「0」に向けていた。
「もう、撃っても意味がないよ」
圧し殺した声を聞いて、「0」は気押されたように一歩下がった。
「今日の任務は終了だぞ? もめそうだな」
「同感よ」
 銃を構えたまま、「0」は下がった。背中で扉を開け、廊下に出る。
「銃を下ろせ。正気か?」
「まともじゃないのは世の中よ」
 二人は銃を向け合ったまま、エレベーターの方に移動した。
「私は帰るぞ? 君も乗るかね?」
 「0」はエレベーターの戸を開けて、中に入った。少女は首を振った。
「歩く」
「かなりあるぞ?」
「疲れてないのよ」
 憎々しげに"監視者"を睨むと、「0」は戸を閉め、操作レバーを下ろした。エレベー
ターはゆっくりと下降し始めた。
 それと同時に力が抜け、少女は銃を足下に落とした。これで、何もかも終わった。あ
あは言っても、組織がこのまま自分を生かしておくとは思えない。そしてなにより"狙撃
者"は……。少女は彼のいるペントハウスの方を振り返った。亡骸をそのままにはしてお
けなかった。少し泣きたかったが、彼女は歩きだそうとした。
 その時、声が聞こえた。
「定員オーバーだな」
 下降するエレベーターの中、シャフトの真上から降ってきた聞き覚えのある声に、
「0」は思わず声を上げていた。急所を撃った。死んだはずだ。テープか?
「さっき、『向かうべき二つの道がある』とか言っていたが、おまえには、そんな多い
選択はありえないな」
 「0」はまた悲鳴を上げた。そして、止めを刺さなかった事を悔やんだ。だが、真の
後悔はそのすぐ後にやってきた。小さな爆発音と共に、エレベーターをシャフトに固定
している金具が吹き飛んだ。エレベーターは、ゆっくりと加速し始めた。「0」は狂っ
たように操作レバーを上下させた。だが、止まるはずもなかった。
「そのまま落ちていけ。たったそれ一つだけだ、おまえの行くべき道は」
 淡々とした、しかし冷酷な宣告に、絶叫して上方を振り仰いだ「0」は、急降下して
いくエレベーターの天井に、ご丁寧にもプラスチック爆弾が仕掛けられているのを見た。
 シャフトの底にエレベーターは激突し、続いて爆発が起こった。火柱はシャフトを垂
直に駆け昇り、途中のフロアを焼き尽くし、動力室を吹き飛ばし、校舎の屋上を貫き、
爆炎を天空に向けて立ち昇らせた。
 "監視者"は爆風を避けて、ペントハウスに逃げ込んだ。爆風は扉を打ち砕き、身を伏
せた少女の真上を通り抜けていった。
 少女は立ち上がって背後を振り返り、アルゴンキン・ハイスクールとともに、「0」
もまた死んだ事を確かめた。だが、しかし、彼は……?
 倒れたはずの場所に、"狙撃者"の姿は無かった。
 ペントハウスには兵士の死骸が三つ、転がっているだけだった。少女は部屋を飛び出
した。焼け焦げた廊下を走り抜け、非常階段を駆け下りた。
 一階のホールにたどり着き、そこで少女は一度、足を止めた。誰かが倒れていたから
だ。だが、近づいてみると、それは便器につながった教師の残骸だった。
 "監視者"は校舎の外に走り出た。やけに朝日が眩しかった。だが、彼女の求めていた
人影は、そこにもなかった。彼は、どこにもいなかった。まるで、この世界から完全に
姿を消したかのようだった。
 しばらくの間、少女はそこに立ち尽くしていた。何もかもが虚しかった。彼がいない
今、まるで昨日からの事が、夢だったかのように思えた。そもそも、数カ月前に彼と出
会った事さえ、幻ではなかったのだろうか? 馬鹿げた空想だった。だが、彼は彼女に、
一言の別れさえ告げずに姿を消してしまった。彼の中で、彼女はいないも同然だったの
だ。どうでもいい存在だったのだ。なら、自分が彼の事をいなかったと思って、何がい
けないというのだ? 自分にとっても、彼はどうでもいい存在だったのだ……。
 強がりにすぎなかった。悔しく、そして腹立たしかった。
 疲れた足取りで、"監視者"は歩きだした。振り返らずに歩きだした。身体が汗と埃に
まみれ、まるで鉛でも引きずっているようだった。どこかで身体を洗おう……。
 校舎から少し離れ、朝方の人っこ一人いない歩道で、"監視者"は道ばたの消火栓の側
を通り過ぎようとした。その刹那。
 一発の銃声が響いた。
 昨日から、幾度聞いただろう。いつしか耳に馴染んでいたあの銃声だった。銃弾が消
火栓を撃ち抜き、激しい水流を吹き上がらせた。
 噴き出す冷たい水を全身に浴びながら、"監視者"は振り返った。崩壊した学舎、アル
ゴンキン・ハイスクールの頂上を見上げた。
 視線が合った。組織最強と呼ばれた"狙撃者"の勇姿が、確かにそこにあった。悠然と
ライフルを構え、不敵な笑みを浮かべて……。
 濡れて額にまつわりついた髪を掻き上げながら、少女は涙を流していた。だが、水流
のおかげでそれを見られる気遣いはなかった。彼は目がいいけれども……。
 遥か天空で爆炎を背に佇む"狙撃者"は、必要の無くなった制服の上着を脱ぎ捨て、そ
の下に着ていた防弾チョッキを大地に向けてほうった。さらに、幾たびも人の命を奪っ
てきたライフルをも、惜しげなく投げ捨てた。そして、声を出さずに呟いた。
「Bye」
 もう"狙撃者"ではなくなった青年にむけ、同じく"監視者"でなくなった少女は、子供
のように大きく両手を振った。同じように「Bye」と呟き返して……。
 手を振る少女に、青年は少し照れたように微笑むと、小さく手を振り返した。
 少女は、本当はいつまでもこうしていたかった。だが、その場を離れて歩きだした。
時々、振り返って手を振りながら。
 青年も、いつまでもそれに応え続けた。今日はもう別れなければならなかった。だが、
いつか二人はもう一度、再会するだろう。
 今度は学校以外の場所で……。
タイトルへ戻る。