主な登場人物
  荒光景(あらみつけい)      フリーター
  掛川多岐美(かけがわたきみ)   大学生
  桜本千春(さくらもとちはる)  大学院生
  南尾進(みなみおすすむ)     会社員
  吉井真知子(よしいまちこ)    OL
  鳥飼英二(とりかいえいじ)    整備工
  向井崇(むかいたかし)      無職
  橋本良夫(はしもとよしお)    会社員
  富田修三(とみたしゅうぞう)   学園理事長
  宮田昌光(みやたまさみつ)    教頭
  山野隼雄(やまのはやお)     社会科教師
  水島剛史(みずしまたけし)    体育教師
  佐倉信介(さくらしんすけ)    理科教師
  森田俊紀(もりたとしき)     数学教師
  辻洋一(つじよういち)      英語教師
  福井浅代(ふくいあさよ)     音楽教師
  水島栄吉(みずしまえいきち)   新任の体育教師
    序章   脈拍
 少年は、閉じ込められていた。理科の授業が終わって、教師が理科室から退出した後、同じクラスの連中に、寄ってたかって理科室の準備室に押し込まれたのだ。外開きの戸の前に机か何かが積み上げられたらしく、開かなくなってしまった。完全に出られなくなってしまった訳だ。
 しばらくの間、同級生たちの笑い声が外で響いていたが、やがて聞こえなくなった。
 閉じ込められた室内は、薬臭い匂いが充満していた。それもそうだろう。普通の教室と同じくらいの大きさがあるこの準備室、その中で最も多くのスペースを占めているのは、ホルマリン漬けの標本であった。お馴染みのカエル、何かの内臓、魚、ラット、ウサギ、蛇、何十種類もの生物が、瓶詰にされて保管されている。数個ある棚に並べられた標本の数は、おおよそ百個ほどもあろうか。準備室というよりは標本室と呼ぶべきだ。ミスター解剖などと呼ばれている理科の教師が作った物である。
 窓も無く、薄暗い蛍光灯が一本あるだけのこの部屋で、少年はずっと一人だった。この日は運悪く、理科室を訪れるクラスはもうなかった。部活が終了して完全下校時間になった後、教師が誰か見回りに来るだろう。それを待つしか無い。
 陳列された標本を見ていると、否応無しに、死について考えさせられる。十三歳の少年にとって、それはあまり楽しい事ではなかった。一時間、二時間。時間が経つにつれ、少年の神経は、薬品の匂いにあたったか、じょじょにくたびれ始めた。標本のカエルの目が、こちらを見ているような気がする。
 一度、少年は大声で助けを呼んだ。返答は無かった。もし、このまま、誰も来なかったら? 少年は次第にパニックになり、扉に体当たりをした。が、跳ね返されるだけだった。何度目かの体当たりの後、少年は疲れ果てて、近くの本棚にもたれた。
 突然、その本棚が動いた。横にスライドし、その裏から鋼鉄の扉が現れた。
 鍵はかかっていなかった。少年はその扉を押し開けた。中には地下へと続く階段があった。少年は、その階段を降りた。十七段下りたところで、再び扉に突き当たった。少年はその扉も開けた。
 その瞬間、世界が真っ赤になった。
 それから、どれくらいたっただろう。少年は、その赤い世界の中を彷徨い続けていた。ずっと、ずっと……。
 数分、数時間、数日、それとも数年……? どの程度かもわからない時が流れた後、出口が見えて来た。出口の向こうには、いつもと変わらぬ世界があった。消極的な悪意と疎外感に満ちた孤独な世界が……。
 だが、その出口を遮るかのように、殺意が少年に迫って来た。銀色の輝きが少年を襲おうとしている。
 その輝きは、彼の寸前で不意に消し飛んだ。鮮血の世界の中、少年の前に、一人の少女が背を向けて立っていた。
 少年は声をかけようとして、彼女の名を覚えていないのに気づいた。少女は振り返らなかった。こんな声が、どこからか聞こえた。
「似てるね。私の名前と……」
「おい、荒光君。荒光君!」
 聞き覚えのある声に自分の姓を呼ばれ、荒光景(あらみつけい)は突っ伏していたデスクから、ゆっくりと顔をあげた。視界に入って来たのは、深紅のカーテンではなく、見覚えのある雑然とした事務所の風景だった。
「ここは病院ですか?」
「は?」
 何を言っている、という調子で聞き返したのも見覚えのある顔だったので、景はようやく安心した。それと同時に少し馬鹿らしくなった。昔あった事を夢に見て、目が覚めた後にもうそこに戻る事は無いんだと気づき、安心する。まだ怯えている証拠だ。
「またか……。近ごろ、まどろんでばかりだ」
「いかんね」
 アルバイトをしている映画館の事務所で、景は電話番をしていたのだが、うっかり寝入ってしまったのだった。直属の上司である社員の人が、側に立って彼を見下ろしている。まずいところを見つかってしまった。
「おはようございます、深川さん。頑張ります!」
「もう、君は帰っていいよ」
 暇を出されてしまった。首にされたわけではないが、これはしばらく働かせてもらえないだろう。
 荒光景は、ほうけたような表情で家路についた。街路を歩いていても、駅のホームに立っていても、電車の座席に座っていても、彼はずっとほうけたままだった。
 適当に伸ばした髪、うつろな目、半開きの口、開いた襟元、はみでたシャツ、かかとを踏んでいるスニーカー、どれを見てもほうけている。
 服装や行動が派手な者をかぶき者とか言う。かぶいて候、である。だが、荒光景は違う。言うなれば、ほうけ者だ。ほうけて候。
 日が暮れかけ、自宅であるマンションにたどり着いたあたりで、ようやく自分の格好に気づき、身繕いをする。格好はましになった。だが、顔はほうけたままだ。
「いかんね」
 マンションの玄関に突っ立ったまま、何とはなしに呟く。自分でもほうけは自覚しているのである。
 二、三分、ほうけ頭で立ち尽くしたまま考えて、ようやく一つの事に思い当たる。
「久しぶりに、やってみるか」
 景は腰のポケットに手を突っ込み、中から赤いリボンを取り出した。銀色に輝く鈴が縫い付けられたリボン。景はそれを左手首に巻き付けた。
 いかなる名工の手による鈴であろうか。豆粒ほどの小さな鈴であるというのに、それは驚くほど大きな、涼やかな音をたてた。そして、それと同時に、周囲を危険な空気が包んだ。景の側を通ってマンションに入ろうとしたおばさんが、思わず身をすくめた程の、奇妙な威圧感。スーパーの袋をぶらさげた、その近所のおばさんは景の方を振り返り、
「ひっ」
 呼吸困難に陥る程の衝撃を受けた。そこにいたのはもはや、ほうけ者では無かった。
 既に日没、陽は落ち、周囲の住宅街は薄闇に包まれようとしている。マンションの入り口は東向きなので、その場は西日も射さず、陰になっている。その薄暗がりで、二つの眼が深紅に輝いていた。爛々と光り、その瞬きで周囲全ての動く者を捉えんとしている。
 鈴の音が響く。その場に出現した獣にとって、近所のおばさんは格好の標的だった。
「フフフフフ、クックックックック」
 不気味な含み笑いがもれ、景の全身が妖炎のような殺気に縁取られた。同時に腰が落とされ、両腕が奇妙な弧を描いて動く。ゆっくり、ゆっくりと動いていた腕の動きが止まった時、景の身体は、ある一定の型のようなものを形作った。刹那、
「キャーッ!」
 ……おばさんはこけつまろびつしながら、マンションの中に転がり込んでいった。
「フン」
 眼前の獲物を見逃し、彼は構えを解いた。その場に立った青年は、もはや先ほどのほうけ者と同一人物とは思えなかった。刺すような鋭い眼差し、引き結ばれた唇、血の気の無い白い肌、流れるような身のこなし、長身を軽やかに操る体捌き。
 彼の名は、荒光景。二十三歳、職業フリーターである。

     第一章  鼓動
      十月八日
 もともと出無精である景にとって、仕事が無いという事は外に出掛ける理由が無いと
いう事にほかならなかった。
 暇があるといつまででも寝てしまう。家族は離れた所に住んでいるし、友達はいない
し彼女もいない。自分でも、寂しい青春だとは思うのだが、いないもんはしょうがない
なあ、と、ほうけた頭で考える。一日中、1DKのマンションの自室のベッドの上で寝
転がり、たまにテレビをつけてみたり、本を読んでみたりする。腹が減ったら、買い溜
めしてあった食料を消化する。身体がなまったと思ったら、ストレッチ体操をする。
 一人暮らしの独り者らしくちらかった部屋で、景はだらしのない生活を続けていた。
……今日までは。
 景が住んでいる部屋があるのは五階であり、毎朝、新聞はきっちりと部屋の郵便受け
まで届けられていた。だから、出無精の彼は数日間、マンションの玄関にすら出ていな
かった。
 澄み切った秋晴れの空が、マンションの上にも広がっていた。
 昼前になって、景はようやく起き出した。パジャマの代わりにしているTシャツを脱
ぎ捨て、別のシャツに着替える。朝食にツナ缶を食べながら、彼は部屋の窓のカーテン
を開けた。
「うーん、久しぶりにすがすがしい空だな」
 少し形容がおかしいが、景の口から出たのはこんな台詞だった。別にここ数日が天気
が悪かった訳ではない。ただ、カーテンを閉めっぱなしだったので、空を見ていなかっ
ただけである。
 ともあれ、珍しく景は、外に出て見ようかという気になった。
 サンダルをはいて近所を一回りし、コンビニで食料を仕入れる。ただそれだけの外出
だが、
「他に用も無いから、まあいいだろう」
 と、景に言わせればそういう事になる。
 景はやる気のなさげな足取りで部屋を出、エレベーターでマンションの一階に下りた

屋外に出ようとした時、ふと郵便受けが目に入った。
 各部屋の扉にも郵便受けはついているのだが、そこには新聞と電気料金の明細、あと
はせいぜい速達しか送られてこない。その他の葉書などの普通の郵便は、一階にある各
部屋の番号がついた郵便受けに届けられる事になっている。
 友達がいない彼女もいない景には、ほとんど郵便物は来ない。時々行くレンタルビデ
オ店から、セールのお知らせが来る程度である。あとはチラシだ。
 景は一応、自分の部屋番号の郵便受けを覗いた。何も郵便物が無くとも、たとえば風
俗の店のチラシが大量に溜まっていたりすると、気分が悪い。
 だが、予想に反して、そんな物は入っていなかった。入っていたのは、一枚の葉書だ
った。宛て名の書いてある面にはこのマンションの住所と、荒光景という彼の名が印刷
されている。
 郵便受けからその葉書を拾い、裏を見る。景の眉がひそめられた。
「同窓会のお知らせ。
名月の候、貴下におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。さて、来る十月九日
、当校視聴覚室におきまして、92年度卒業生C組の再会の宴を、午後5時より催したい
と存じます。参加費無料につき、この招待状をお持ちのうえ、必ずご参加下さい。
 私立城之刻中学校教職員一同」
消印は十月五日。声に出さずに全文を読んで、景は一瞬、発作的にそれを破り捨てか
けた。行く意味など、何もないように思えたからである。彼は、一年の終わり頃から登
校拒否児だった。教師の顔はともかく、同級生の顔など、何も覚えていなかった。
登校拒否になったきっかけは、ホルマリン漬けの標本だらけの部屋に閉じ込められた
からだった。あの時以来、景はホルマリンは見るのも嫌になり、もう一度、同じ場所に
閉じ込められる事への恐怖から、学校へ行く事も出来なくなっていった。残りの二年間
で登校したのは、せいぜい一月というところだろうか。高校にはどうにかこうにか通っ
たが、すっかり学校嫌いになっていた彼は、結局大学には行かなかった。高校を出て以
来、ずっとバイトをしながらぶらついている。
が、そう言った理屈の他にも、景はどこか恐ろしかった。
「つっ……」
頭痛がした。頭の奥の方で、鈍い痛みが響く。そこから、誰かの声が聞こえる。
「ホルマリンを……」
「見たのか……?」
「今はまずい……」
 あの時、ホルマリン漬けだらけの部屋に、長時間閉じ込められた景は、いつの間にか
意識を失い、病院にかつぎ込まれた。二、三日、入院し、その間に同級生や教師が入れ
かわり立ちかわり見舞いに来た。その時……
 景は頭を振った。頭の中にもやがかかっているようで、何も思い出せなかった。
もう一度、招待状を見る。
「……なぜだ?」
 わからなかった。なぜ、自分は脅えているのだろうか。たかが、学校なぞに……? 
いくら考えてもわからない。思い出せない。
最近、幾度か夢に見た事もある。仕事を干されたのも、それがきっかけだ。
「行くか……」
景はもう一度、葉書に目を落とした。日付は明日。
彼は知りたくなった。この恐怖感、そして胸の中に湧き上がる不安は、いったい何な
のだろうか。この同窓会に、その答えがある。なぜだか、そう確信が持てた。
 マンションの外には出ずに、景はきびすを返した。全ては、明日。
 そして、開幕の刻。
十月九日
 都心を外れ、郊外へ。町外れにある小高い丘。その頂上に、それはあった。
 指定の午後五時より、十分程前。すでに日没の時刻が訪れ、それは眼下の町に長い影
を落としていた。
その影の中に、景はいた。
「何も変わっちゃいないな」
 卒業してから八年、通うのをやめてからは十年の月日が経っていた。だが、町を見下
ろし、全てを睥睨するかのようなそれは、何も変わっていなかった。あの頃と同じく巨
大で、あの頃と同じく禍々しく、あの頃と同じく暴力的だった。むろん、これは景にと
っての印象だが。
 「私立城之刻中学校」。
校門の前までやって来て、景はかつてと同じ感覚を味わった。……吐き気だ。入学し
たての頃は、そんな事は無かった。だが、あの事があって以来、景はこの城之刻中学校
の校門の前に立つと、吐き気をもよおすようになった。一度だけだが、吐瀉物を撒き散
らしながら帰った事もある。
が、堪えた。景はノーネクタイだが、黒づくめのスーツ姿だった。持っている服の中
では一張羅と言っていい。こんな所で吐いて、汚す訳にはいかない。
息を整えて、景は再び目の前の入り口を見据えた。彼は逡巡していた。正面の門はむ
ろん開いている。レールの上を走る、横に長い重厚な門扉である。鋼鉄製で、巨大だ。
高さは3m近く、長さは10mほどもある。恐らく、重さは数トン以上あるのでは無いだ
ろうか。いつも登下校の時は開いており、その他の時は閉まっていた。塀の高さも3m
以上あるので、乗り越えて抜け出す、などという事は、誰も出来なかった事を覚えてい
る。
かつても景はこうして、ずっと校門の前で立ち尽くしていた事があった。高い塀と校
門によって閉鎖された中に入れば、もう二度と出てくることが出来ないんじゃないだろ
うか、そう考えた時、もう入る事は出来なくなっていた。そんな彼を、誰もが笑った。
蔑んだ。
荒光は学校に入ることさえ出来ない、臆病者だ。あいつは俺が怖いんだ、などと言った
同級生もいたらしい。誰も、彼の気持ちがわからなかった。景自身にも、なぜ自分が立
ち止まってしまうのか、わからなかったのだから、当然だが。
今も、その頃とあまり変わらない。こうして立ち止まってしまっている。
校門の向こう、二百mのトラックのある校庭を挟んで、南館と本館の二つの校舎が立
っている。各々が八階建ての、大きな鉄筋の建物である。
その本館の方の五階に、明かりがついていた。窓に、幾つもの人影が映っている。う
ろ覚えだったが、景はそこが視聴覚室である事を覚えていた。既にかなりの人数が集ま
っているようだった。
背後から、足音がした。景が今立っている校門に続く道を、誰かが上って来る。景は
振り返った。
 女が一人、坂道を上って来ていた。今、この時分にくるのだから、教師ではないだろ
う。年は景よりも多少上に見えるが、同窓生に間違いあるまい。
 視線に気づいたらしく、女は景と目を合わせた。この薄暗いのに、サングラスをして
いる。顔に見覚えはなかった。とは言え、十年ぶりなわけだから、覚えている顔とまる
で違っていてもおかしくない。服装は青のパンツスーツ、身長は160==程。小さなハ
ンドバッグを肩にかけている。
 軽く会釈して、その女は景の側を通り過ぎた。校門の中に足を踏み入れ……そこで肩
までの長さの髪を揺らして、振り返った。
「……入らないの?」
薄闇の中で、化粧っ気の薄い白い肌と、それと対象的に赤く濡れ光る唇が、景の目に
焼き付いた。
景は答えなかった。不意に言葉をかけられ、驚いたせいではない。思わず、入らない
、と答えそうになったからだ。
 黙っていると、女の唇に微かな笑みが浮かんだ。
「よっぽど、嫌なんだね」
「……どうしてだ?」
「ひどい顔、してるから」
 それだけ言うと、女は前を向いて歩きだした。
 景は、しばらくその背が遠ざかって行くのを目で追った。やがて、それを追うように
一歩踏み出した。
 広い校庭を横切って、校舎本館に向かう。今は夕方なのでまだだが、もう少し日が落
ちれば、グラウンドは照明によって照らし出されるだろう。冬場の日が短い時の部活動
の為に、ナイター設備があるのである。
 校庭の端の方に目をやると、そこには野球部の部室になっているプレハブがある。近
くにバッティング・マシーンやネットなどが放置してある。
帰宅部だった景は、そう遅くまで学校にいた事など無かったが、野球部などの運動部
が午後八時近くまで練習をしていた事は知っていた。
本館の入り口は、ガラス戸になっているが、これも今は開放されている。中に足を踏
み入れると、広めのロビーがある。照明が明るく、白塗りの壁に照り返されている。急
に昼日中になったような錯覚を覚え、景は目を細めた。
ロビーの左右に階段があり、それぞれが上階へと通じている。右側の階段の側の壁に
、張り紙がしてある。同窓会会場、すなわち五階の視聴覚室の順路が指し示されていた
。別に左側の階段を使っても五階には行けるのだが、右側の階段の方がより近いのであ
る。
階段を上って行くと、じょじょに上の階の喧騒が大きく聞こえてくる。景は時計を見
た。五分前だ。ぎりぎりセーフか。
 そう考えて、景は苦笑した。もう学生ではないのだ。たかが同窓会に多少遅れようが
、それが何だというのだろう。昔のように指導されるなんて事も無いのだ。
 階段を上りきり、五階に到達する。最近、運動不足だったせいか、息切れがする。八
階建てだというのに、エレベーターは無いのだ。私立校だからなのか、足の不自由な学
生などに対する配慮が行き届いていないのだ。もっとも、どこかに教員専用のエレベー
ターがある、なんていう噂もあった。
五階の廊下に出る。廊下は片側が教室、もう片方の側が校庭に面しており、窓ガラス
ごしにさっき入ってきた校門を見る事が出来る。階段から10m程向こうに、視聴覚室
の入り口が見える。その入り口の側に、男が一人立っていた。見覚えのある顔だ。その
方向に、景はゆっくりと歩み寄った。男と目が合う。
男の顔に薄笑いが浮かんだ時、反射的に景は視線を反らした。背広姿の、痩せた中年
の男。視線がねっとりと景に絡み付いて来る。かつて、味わった感覚だ。男の景を見る
目。
人間ではなく、物をみるような目。商品が規格に外れていないか見るような目。頭髪、
服装が規定通りか審査する目だ。
「やあ、招待状は持ってるかい」
すぐに名を呼ばないところを見ると、景の事を思い出せないのだろうか。景の方はこ
の男の事を覚えていた。
山野隼雄(やまのはやお)。生活指導を担当していた、社会科の教師。校門に立って
、生徒を値踏みするような目で見ていたのが、印象に残っている。この教師の目は、定
規無しで女子の制服のスカート丈を計れる、と言われていた。同じ生活指導を担当して
いた体育教師が、どちらかというと腕力にものを言わせるようなタイプだったのに対し
て、人の言質を取って、長々と説教をするタイプだったような記憶がある。
 景がポケットから取り出した招待状を受け取り、山野はそれをしばし眺めた。景が不
登校児になり、この中学に来なくなってから10年が立っている。当時三十歳前後だった
この教師も、四十歳ぐらいになっているはずだった。だが、景は既視感と言ってもいい
ような感覚に襲われていた。何も変わっていないのだ。今、招待状を手渡して、社会の
宿題を提出したような気分になった。この学校では、時間が消失したのだろうか。目の
前の教師の仕草も、容貌も、10年前と何一つ変わっていない。
「荒光君だね。ここに来るのは、十年ぶりか。懐かしいだろう」
「……そうですね」
とんでもなかった。景はさっきから吐きそうにはなるし、死ぬような思いをしてここ
まで来たのだ。はっきり言ってむかっ腹を立てている。何が懐かしいだ。苛立ちが後悔
に拍車をかける。やっぱり来なければ良かった。
「中に入って、待っててくれ。あと二人で、全員揃うから」
 景は答えずに、山野の側の戸を開いた。
視線が突き刺さってきた。視聴覚室の中にいて、戸口が開いた事に気づいた者たちが
、一斉に景の方を見たのだ。が、景は彼の方を見た誰とも視線を合わさず、戸の側の壁
に腕を組んで寄りかかった。
 彼の方を見ていた者の何人かは、すぐに興味を失ったようだが、依然として景の方を
見続けている者もいた。
「知ってる?」
「さあ……」
「誰? あれ」
 何があれだ! 聞こえてるんだよ! 無遠慮な視線とせりふに、景の怒りのボルテー
ジはまた上がるのである。
 彼を見る視線はあからさまに好奇に満ちたものばかりだった。景が周囲の同窓生たち
をろくに記憶していないのと同じく、彼らもまた景の事を覚えていないのだろう。
 誰とも目を合わさないように、景は視線を泳がせた。会場であるこの視聴覚室は、普
通の教室の倍程度の大きさがある。一クラス三十人と、教師が集まるには充分な広さで
ある。普段並べられている机と椅子は片付けられ、部屋の真ん中に大きな羊羹状のテー
ブルが置かれ、その上に寿司やフライドチキンなどの料理、それにビールやジュースが
並べられている。まだ全員が揃っていないからか、料理には誰も手をつけていない。同
窓生たちは思い思いに何人かのグループに別れて、談笑している。
 よくよく観察し、記憶をたどってみると、同窓生の中にも見覚えのある者がいる。一
番近くに固まっているグループの中の一人、色黒の痩せた青年の事を、景は何となく覚
えていた。確か、桜本千春(さくらもとちはる)、と言ったろうか。バイオリンが趣味
だった男だ。学校にバイオリンを持ち込み、休み時間、校庭や音楽室などでずっと練習
していた。そのせいで音楽の教師に目をつけられ、授業の時に嫌みなどを言われていた
。気が小さく、嫌みを言われても薄ら笑いを浮かべるだけだったが、悪い奴ではなかっ
たような気がする。とくに話した事もなかったが、しかし景をいじめていたグループの
中には入っていなかった。彼は確か、ブラスバンド部だった。してみると、周りにいる
のは元部員たちであろうか。
 さらに視線を彷徨わせてみると、もう一人見覚えのある者がいた。が、見覚えがあっ
て当然だった。さっき校門の所で会ったからだ。
 やはり同窓生だったらしいその青いスーツの女は、部屋の隅の方に一人で立っていた
。部屋の中だというのにサングラスはかけたまま、腕を組んで誰とも話さずに、ただ壁
に寄りかかっている。
サングラスの中の目が、こちらを見たような気がして、景は視線を反らした。景も人
に見られるのは嫌だが、彼女もそうなのかも知れない。
景は腕の時計を見た。五時まであと二分。
 その時、急に景の側の戸が開き、女が一人飛び込んで来た。リクルートスーツのよう
な格好をした髪の長い女である。
「ふーっ、ぎりぎりセーフ?」
 走って来たらしく、息を荒く吐きながらそう女は呟いた。その背後から、外に立って
いた山野が入って来る。
「おい、招待状を出しなさい」
 そう無表情に言って手を差し出す。
「あ、すいません。忘れて来ちゃったんですよ。でも、無くても分かりますよね? ほ
ら、吉井ですよ。吉井真知子(よしいまちこ)」
 女は一気にまくし立てると、自分を指さした。
「あのなあ、吉井。先生はみんなの顔は覚えてるよ。でもな、招待状を持ってくるのは
きまりなんだから、持って来てくれないと困るな」
「あはは、すいませーん」
「全く、ちっとも変わって無いなお前は」
 しようがないな、といった顔をして首を振る山野と、あくまでにこやかな女。こんな
光景にも見覚えがあった。吉井真知子。忘れ物女だ。毎日何か一つは忘れ物をして、し
ょっちゅう立たされていた。いくら怒られてもその忘れ物は減る事が無かった。性格は
何も変わっていないらしい。
が、容貌は以前とは大きく変わっている。吉井真知子は、かつてはどこか田舎臭い感
じで、クラスの他の女子と比べても、あか抜けない女だった。しかし今は、なかなか立
派な企業のOLといった風である。
ようやく教師から解放された吉井は、部屋の真ん中、テーブルの脇辺りで彼女の方を
見ていた男に、手を振った。
「久しぶりぃ」
 などと言って駆け寄る。駆け寄った先の男は、これまた相好を崩して手を振った。確
か、橋本良夫(はしもとよしお)と言う名の男だ。元野球部員だったような気がする。
吉井とは幼なじみだったか、はたまた付き合っていたのだったか、景は思い出せなかっ
た。
 時計の針が五時を指した時、突然、室内を聞き覚えのある電子音が鳴り響いた。チャ
イムである。
「えー、まだ全員揃っていませんが、時間が来ましたので、そろそろ始めたいと思いま
す。皆さん、注目して下さい」
 大声を出した者がいたので、景はそちらの方向を見た。視聴覚室の正面、ホワイトボ
ードの前に、十数人の教師が並んで立っている。声をあげたのはその内の一人、丁度真
ん中に立っている長身の教師である。メガネをかけた、インテリ風の四十代の男。この
中学校の教頭である宮田昌光(みやたまさみつ)である。
「では、理事長。お願いします」
 のっけからこれである。景の知る宮田は、以前もずっとこんな感じだった。教師では
あるはずなのだが、授業も持っていないし、ろくに生徒と会話した事もないだろう。教
師らしい事をしているのを、見た事が無い。PTAの相手役や父兄との交流なども、ま
るでやっていなかった。式典などの進行を務める事はあっても、話の本筋には絶対に入
ってこない。十年前はまだ年も若かったし、いつも生徒から、いてもいなくてもどうで
もいい、と陰口を叩かれていた。存在感の無い、影の薄い男である。
 その背後から、80歳ぐらいの老人が、杖をついて出て来た。
「あー、おほんおほん」
 わざとらしく咳払いをしている。理事長だ。曲がった腰、皺だらけの顔、定まらない
視線、黄色い歯、ほとんど残っていない頭髪、さっきから苛々しっぱなしの景の言葉で
言うならば、ヨボヨボのくそじじいだ。名前は……。
 ……ここまで五人程の名前を列挙して来た。が、ついに景のなけなしの記憶は種切れ
になってしまった。理事長だけでなく、もう誰の名前も思い出せないのだ。顔を覚えて
いる者はいる。こいつに殴られた事がある、などと言う出来事も覚えている。が、名前
に関しては、理事長の名前、側にいる教師たちの名前、周囲にいる三十人ばかしの同窓
生の名前、もう誰の事も覚えていない。派手に金髪をおったてているような者もいるが
、そんな特徴のある人間でさえ、思い出せない。これから数時間、名前もよくわからな
い、ただ嫌なイメージばかりがあるような奴らと過ごすのかと思うと、目眩がしてくる

 しかも、これから老人のスピーチがあるらしい。まるで月曜の朝の全校集会だ。学校
でやる同窓会と言っても、景はもう少しくだけたものを想像していたのだが、大間違い
である。開始の合図がチャイム、出席にいちいち教師のチェックが入るなど、大きなお
世話だと思う。他の人間は何とも思わないのだろうか。二度と戻りたくなかった、中学
生の気分だ。
「えー、諸君、今日は……」
 と、理事長が口を開きかけた時、突然、扉が開き、室内にYシャツにジーンズ姿の男
が一人飛び込んで来た。先ほどの吉井真知子を上回る騒々しい足音を発しながら、中に
駆け込んで来る。
「おっ、助かった。まだ始まってないのか」
無遠慮に大声をだし、男は周囲を見回した。あっけに取られた周囲の視線が一斉に男
に集まる。
 景は男の方を見ずに、理事長の方を見た。老人の顔が、みるみる紅潮していくのが見
て取れた。喋りたがりが喋るのを邪魔されて、頭に血が昇っていると見える。
「大丈夫ですか、理事長」
 老人の側に立っていた太った女教師が、ハンカチを取り出して皺首をつたう汗を拭っ
てやっている。
「くっくっく」
 景は含み笑いをもらし、トサカに来た爺いが血圧が上がってぶっ倒れる様を想像し、
さらに笑った。ようやく少し気が晴れた。
「南尾君、また遅刻か」
 が、景の気分を晴らしてくれた当人は、真っ赤になって引きつっている理事長の顔を
見てびびったらしい。老人が出て来る前に室内に入っていた山野に肩をつかまれ、慌て
ふためいている。
「すんません、遅れて。これ、招待状です」
申し訳無さそうな表情をした南尾と呼ばれた男と、諦めきったような山野の顔を見て
いると、再び十年前の光景がだぶる。景は遅刻マンと呼ばれていた生徒を思い出した。
南尾進(みなみおすすむ)。小学生の頃から、毎日毎日遅刻遅刻遅刻を繰り返し、中学
に入ってから百日連続遅刻の大記録を打ち立てた、伝説の男である。
だがしかし、ある時山野と、もう一人の生活指導担当が徹底的に生活指導をして、全
校生徒の遅刻の数を劇的に減らした事があった。記録はその時にストップしたはずであ
る。
その直後ぐらいに景は不登校になったので、それ以降の事は知らなかった。
 平謝りしている南尾から目を離し、再び理事長を見ると、すでに力つきたか、椅子に
座り込んでいる。どうやらもう、スピーチは出来そうも無い。
「えー、全員揃いましたので、とりあえず乾杯いたしましょうか」
 その場を取り繕うかのように宮田が進み出て来た。何はともあれ、ようやく城之刻中
学校における同窓会は、幕を開けたのである。
 大勢の人に混じって適当に寿司などを食っている内に、どうしても景の頭はほうけて
くる。彼としては必殺の敵地に乗り込むような決死の覚悟でやって来たのだが、実際に
は何もない。まあ、何かが起こる事など元からありえなかったのだが。
 もう既に、彼は中学生ではないのだ。そして、周囲にいる同窓生たちもまた、そうで
はない。かつてのいじめも、不登校になった事も、景の中では遠い過去になりつつあっ
た。
それは同窓生たちも同じだろう。皆、変わったのだ。だが、変わっていない者がいると
すれば、それは……。
「じゃあ、みんなが今どうしているのか気になるので、一人ずつ最近の近況など、報告
してもらいましょうか。結婚してる人もいるので、名前も合わせて言って下さい。では
、こっちから」
 進行役を宮田に代わって務めている教師の声に、景は思考を中断された。骨と皮しか
ないぐらいに痩せたその教師は、景の立っている壁際の近くを指さしている。
「はいっ、吉井真知子、倉沢商事でOLやってます」
 部屋の端っこに立って隣にいる男と喋っていた吉井が、元気良く返事をして答えた。
その隣の男も、
「橋本良夫。紅葉鉱業で働いてます。製鉄業です」
 と、答える。
吉井は平気そうだが、橋本は大勢に注目されて落ちつかなげである。
 大勢の視線はやがて二人を離れ、隣に腕を組んで不機嫌そうに立っている男、つまり
景の方に注がれる。
「……荒光景。映画館でアルバイトをしてます」
 なるほど、こういう会に顔を出した以上は、こんな事も言わなければならないだろう
と、予想はしていたのだが、いざ言ってみると、こんな自己紹介も無意味なものだ。
「あらみつって?」
「ほら、いたじゃん」
「ああ、一年で来なくなったあいつ」
 やかましい! 全部聞こえてるんだよ! 小声で喋っているつもりらしいが、景の耳
には全て届く。
「でも、あんな奴だったか?」
「雰囲気違うな」
「別人じゃないの」
 こう言っている奴らに目を向けると、それがかつて自分を殴った奴だったりして、よ
けい腹が立つのである。
「どうせ、外見だけだろう。中身は変わってやしないさ」
 このせりふだけは、小声ではなかった。部屋の真ん中辺りで固まっていたグループの
一人が、景の方を向いて聞こえよがしに言った事だ。
「……何だと?」
 ほうけは一瞬にして吹き飛び、景はその相手、ジャージの上下の姿の男に向かって聞
き返していた。自分で聞いてもかなり剣呑な感じの声が出た。
「フン」
 相手の男が鼻を鳴らす。その体育会系の顔と仕草と目付きを、景は思い出した。
「学校の言うことを聞かん奴は、バチバチやってもうたらええんじゃ!」
と、なぜか似非大阪弁でそう言った男。
「俺の兄貴はここの先生やねんぞ」
 と、また似非大阪弁で言った男。
今、思い返してみると情けないせりふであるし、わざわざ大阪弁で言う所も子供っぽ
い。だが、かつて大抵の中学生は、これを聞いて脅えたものだ。
 水島兄弟の弟の方。水島栄吉だ。この学校の、生徒指導を担当する体育教師である水
島剛史の、弟だ。かつて、景を空手の実験台にし、理科準備室に閉じ込めた張本人だ。
ついさっきまでは、馬鹿どもがほざいてろ、といった気分だった景だが、この名前を
思い出した途端、一瞬本気になった。壁から背中を浮かせる。組んでいた腕を解き、ポ
ケットに入った鈴を握り締める。
殺気が二人の間を走り、視線がぶつかり合うと、周囲の同窓生たちは騒然となった。
一触即発の空気が漂う。
だが、水島栄吉には、ここで争うつもりは無いらしかった。景を無視するように視線
を反らすと、側にいた者たちから離れ、視聴覚室正面の方に向かう。そちらには何人か
の教師が固まっている。
 教師たちは笑っていた。
 そこにいたのは、理事長である老人に、太った女教師、進行役の痩せた教師、教頭で
ある宮田、そして身長2mはあるだろうジャージの筋骨逞しい教師だった。彼らは皆、
室内を騒がせ、同窓会をぶち壊しにしかけた景に対して、薄ら笑いを浮かべている。
 そこに水島栄吉が加わった。巨体の教師の側に立つ。そう、その巨漢こそが、彼の兄
であり体育教師である水島剛史だ。校則を守らない者がいれば、容赦なく鉄拳を振るう
暴力教師。生徒指導のナンバー2。何人もの生徒が彼にぶちのめされた。この場にいる
同窓生の中にも、何人か殴られた事のある者がいるはずだ。あの弟にしてこの兄あり。
教師たちは明らかに景に対して、嘲笑していた。いじめられっ子の被害妄想などでは
ない。表情を見れば一目瞭然だ。
景には理解出来なかった。彼は水島栄吉の一言で、かなり頭に来ていたのだが、それ
も冷めた。解らなかった。なぜ、教師たちは俺を嘲る?
 しばらく教師たちを睨み、水島兄弟のお揃いのジャージを見た時、疑問の一つは氷解
した。水島栄吉は、今年、景と同じ二十三歳。彼は大学を卒業し、教師になったのだ。
おそらくは兄と同じ体育教師に。嘲笑の意味は解った。彼らはこう思っているのだ。
「我々教師に、きみのごとき不登校児だった人間が歯向かうのかね。満足に学校にも来
れなかった子供が、教育の専門家であり、君たちを管理する立場である我々にかなう訳
がないのだよ」
景の不登校の直接の原因は、ホルマリン漬けだった。だが、本当の要因はここにあっ
た。この教師らの優越感だ。彼らは子供に、自分の学校の生徒に対して優越感を抱いて
いる。クラスのいじめっ子が自分より弱い同級生をいじめて抱く優越感と、同じレベル
の優越感をだ。そうだ。景ははっきりと思い出した。この学校の教師どもは、一皮剥け
ば自分たちも弱者であるという事も解らずに、自分たちよりも弱い存在である生徒を思
うさまに管理し教育し、歯向かう者は指導の名を借りた暴力で押さえ込む、最悪最低の
人間の集まりだったのだ。だからこんな所には、もう二度と来たくなかったんだ!
 桜本千春のバイオリンの時もそうだ。桜本は本当にバイオリンが好きだった。いつも
学校にバイオリンを持ち込み、休み時間には練習していた。景は彼と話した事は無かっ
たが、彼のバイオリンは好きだった。バイオリンを練習している桜本は本当に楽しそう
で、それでいて真剣だった。景も、自分があんな風に打ち込めるものが欲しかった。だ
が、ある日、音楽室に置き忘れていた桜本のバイオリンが壊された事があった。学校は
集会を開き、犯人に名乗り出るように言った。だが、誰も名乗り出なかった。当然だ。
犯人は生徒ではなかった。集会が開かれている間、景は太った音楽の女教師が薄ら笑い
を浮かべているのを、ずっと見ていた。犯人は教師だった。その教師はバイオリンが弾
けなかった。彼女は桜本にコンプレックスを抱いていた。だから腹いせにバイオリンを
壊したのだ。結局事件はうやむやになり、そもそもの事の起こりは、学校にバイオリン
を持ち込んでいた桜本が悪いのだという事にされた。彼はバイオリンの持ち込みを禁止
された。
名前は覚えていないが、同じクラスに、景のような不登校になりかけだった少女がい
た。少女は小学校の頃から、ずっといじめられていたらしい。中学に入って、同級生た
ちのいじめの標的になった。少女はそれでも毎日学校に来た。だが、ついに教室には入
れなかった。彼女はいつも、学校に来てすぐに保健室に向かった。そこで、下校時間ま
でを過ごしていた。満足な授業は受けられなかったが、少なくともそこではいじめは無
かった。だが、毎日のように保健室登校をする少女を、保健の教師の方がうざったく思
い始めた。やがて、休み時間になると少女をいじめていた同級生たちが、保健室にやっ
て来るようになった。
少女はカーテンを引いて奥のベッドで寝ていた。その側で、保健の教師を交えて聞こえ
よがしに彼女の悪口を言うのだ。同級生たちを呼び寄せたのは、その教師だった。少女
は学校のどこにも行き場を失い、本当の不登校になった。
こんな事も、今まで忘れていた。忘れたかったから忘れたのだろう。だが、ここへ来
て思い出した。ここは最悪の学校だったのだ。
だが、思い出すと同時に景は冷めていった。もう関係のない事なのだ。景はもう中学
生ではない。この学校の教師は相変わらず教師だが、少なくとも彼の教師ではない。景
は教師たちから目を反らした。こんな奴らに関わっていてもしようがない。あと一時間
か二時間もすれば、この同窓会も終わるのだ。そうすれば、こいつらにも、もう二度と
会いはしないだろう。
しかし、疑問が一つ残っていた。教師たちは今にも暴れだしそうだった景を、止めよ
うともしなかった。まるでこの同窓会が、どうなってもいいようだった。来ている同窓
生の中には、この会を楽しみにしていた者もいるだろう。最悪の教師たちとはいえ、あ
まりにも生徒の観点が抜け落ちてはいないだろうか。また、学校の体面のようなものも
、意識してはいないのだろうか。
「えー、次の人、お願いします」
 まるで何事もなかったかのように、進行役の教師が近況報告を続けさせる。
 景は再び壁に寄りかかり、目を伏せた。彼はそれ以上考えるのをやめた。もうどうで
もいい。じきに終わるのだ。
「水島栄吉。今年から、この学校で、体育教師をしています」
 やはり、そうだった。胸を張って堂々と言う水島弟を見て、景は舌打ちした。大方、
兄譲りのスパルタまがいの授業をしているのだろう。兄の水島剛史は、授業中ずっと、
竹刀をぶら下げていた。何人があれで殴られた事か。
 挨拶が進み、部屋の隅に立っている女に順番が回ったところで、景は顔をあげた。校
門で会った女である。
「掛川多岐美(かけがわたきみ)。応南大学の四回生です」
はなはだクールな、というより白け切ったような声だった。今だにサングラスを掛け
たままで、腕を組んだポーズで壁に寄りかかったまま、その冷めた声を発した。
「かけがわって?」
「ほら、いたじゃん」
「ああ、あいつか」
これまた全部聞こえる。他人事ながら、景は我が身を重ね合わせて腹が立った。しか
し、景自身は名前を言われても、彼女の事を思い出せなかった。
「でも、あんな奴だったか?」
「雰囲気違うな」
なるほど、以前とは容姿も違うらしい。
「ふん」
 兄貴の側にいた水島栄吉が、また鼻で笑った。
「あいつもどうせ……っ!」
 不意に、水島は言葉を切った。掛川多岐美の回りにいた者が、声をあげて後じさる。
彼女の方を見ていた景は、思わず身を乗り出した。
 水島が鼻を鳴らした時、掛川多岐美はサングラスを外した。その瞬間、周囲の大気が
震えたのだ。錯覚などではない。景は手近の紙コップを覗いた。中のビールが揺れてい
る。
一瞬、景は確かに自分の頬をなぶる衝撃を感じたのだ。急に風圧を浴びたような感覚で
ある。
水島栄吉も同じ感覚を味わったのだろう。呆然と立ち尽くし、傍らの兄を振り返る。
その水島剛史もどうやら同じらしい。何かが起こったのはわかったようだが、それが何
かまではわかっていない。
「な、なんだ? 今の」
 誰かが呟いた。
 景は、掛川多岐美の素顔を見た。先ほどまでサングラスの下に隠されていた目は、ど
こにも焦点を合わせていないのだろう、宙をさまよっている。少し目尻が下がり気味だ
。その目で、彼女は今さっき、水島栄吉を見た。空気の震動はその時に起きた。
「いったい……」
 それが何か、景にも見当はつかなかった。こうなると、景は彼女の事をまるで思い出
せないのが、歯痒くなった。昔の写真でも見れば、思い出すのだろうが。
掛川多岐美の周囲にいた者たちが、脅えたように今までいた場所を離れる。彼女一人
が、部屋の隅に取り残される格好になった。
「えー、次の人」
 進行役の声がする。
 近況報告もあらかた終わり、ようやく同窓会からは、学校の行事臭さが抜けて来た。
が、結局、景は酒を飲むようなくだけた気分になれず、部屋の隅でジュースをすすって
いた。
景や、あるいは掛川多岐美の騒ぎにもめげず、会は和やかさを取り戻している。ホワイ
トボードの前にいた教師たちも、それぞれ教室のあちこちに散らばって、思い思いにか
つての生徒たちと雑談している。
 幸い、景の方には教師は誰も寄って来なかった。水島兄弟あたりが絡んで来るかと思
ったのだが、杞憂だったらしい。
「ぼつぼつ抜け出すか」
 いい加減いやになっていた景は、腕の時計を見た。間もなく時刻は七時を回ろうとし
ている。まだ早いと言えば早いが、そろそろ終わってもいい頃なのだが。
 進行役の教師は、どこに行ったのだろうと辺りを見回すと、水島弟が目に入った。中
学生時代の腰ぎんちゃくどもと、何か話して盛り上がっている。大かた自慢話だろう。
 番長、などという言い方は古いが、水島弟はかつてクラスでそういう立場だった。腕
力の強いメンツを集め、クラスを仕切っていた。それで力を持ったつもりになって。ガ
キやガキっぽい大人が好きなパワーゲームだ。だが誰も、彼らに逆らおうとはしなかっ
た。むろん、逆らっても何の得も無かった。だが、クラスの中には彼らによるいじめに
あい、腕を折られたような者もいた。誰も何とも思わなかったのだろうか。憤りを感じ
ていたのは、自分一人だったのだろうか。それとも、こんなにも子供の時分の事にこだ
わっているのは、自分だけなのだろうか。中学の時の事、子供心に受けた屈辱など、皆
忘れたのだろうか。
 ふと我にかえって見ると、視界の中に桜本千春が入って来た。色黒の顔で、周囲を見
回している。しばらく探して、目的の物を見つけたらしい。テーブルの上の寿司の皿に
手を突っ込んだ。魚の形をした小さなプラスチック容器を取り出す。中に入っているの
は、もちろん醤油だ。
 桜本の視線の先には、水島弟がいた。桜本は、さも何か食べ物を探しているといった
、さりげなさを装い、水島弟に近づいて行く。
 水島栄吉はテーブルに尻をあずけ、かつての子分たちと喋っている。その側、テーブ
ルの上には彼が飲みかけているらしい、コーラの入ったグラスがある。
桜本はテーブルの側に立ち、料理の皿をのぞき込んだ。……ふりをして、手の中の容
器から、中身をグラスに素早く注いだ。彼の事をじっと凝視していた景からも、一瞬し
か見て取れないほどの素早い動きだった。当然、水島は気づいていない。
 すぐにその場を離れ、桜本は部屋の隅の方へ移動した。振り返って水島弟を見て、含
み笑いをもらしている。
 景も水島に視線を戻した。でかい声でべらべらと喋ったせいで、喉が疲れたのだろう

やがて水島は傍らのグラスを手に取り、一気にあおった。
「ぶげっ! ごほごほっ!」
 妙な声を出して、水島はむせた。コーラと醤油では混ざっても区別はつかないが、そ
れにしても何の警戒心も抱いていなかったらしい。飲んだ液体を半ば吐き出し、胸を押
さえている。
「くくくくく」
 景も含み笑いをし、桜本を見た。目があった。してやったりという表情をした桜本は
、景と目があうと、照れたように笑った。彼が見ていた事に、気づいていたらしい。
「あの時、憤りを感じてたのは、俺だけではなかった」
 水島一派に対して腹を立てていたのは景だけでは無かったようだ。桜本のした事は、
つまらないささやかな復讐だが、結構効果的だ。同窓生たちはゲロった水島を見て、囁
きあっている。
「うわ、何あれ」
「やだ、ゲロ吐いてるよ」
「気持ち悪う」
「まるでエクソシストじゃん」
 水島を囲んでいた子分たちも、ゲロを見て引いてしまった。むせ返る水島を残して、
エスケープしている。
「ハッハッハッハッハ」
 景は笑った。この十年抱えていた溜飲が、一度に下がった気分だ。だが、ここで笑っ
たのは良くなかったようだ。
 ようやく呼吸を整えた水島弟は、悪鬼とも見まがう形相を上げて、何とこう叫んだの
である。
「荒光ぅ、てめえだなあ!」
 どう勘違いしたのか知らないが、とんだ濡れ衣だ。だが、景は薄笑いを浮かべると、
否定せずに壁から背を浮かした。水島弟は、テーブルの側に、吐瀉物と共にたった一人
になっていた。これで少しは孤独感というものがわかっただろう。下らない事でエンガ
チョ呼ばわりされる苦しみがわかっただろう。理科準備室に閉じ込められ、カエルの内
臓と同類項にされた俺の気持ちがわかっただろう!
「ゆ、ゆるさねえ」
 水島が近づいてくる。完全に頭に来ているようだ。
 しかし、景は不思議な程にすがすがしい、穏やかな気分になっていた。
「俺は許すよ」
 悟りを得た気分とは、こういう物だろうか。復讐など空しい、というような事を言っ
た奴がいるが、とんでもない。復讐とは、自分の魂を解き放つ行為だ。傷つけられた心
の空隙を埋め、新たな糧を得る事が出来るようになる。憎んでいた相手の苦しむ様、卑
小な姿を見て、自らの憎しみを意味のない物に変える。桜本の復讐が、終わったかどう
かはわからない。だが……。
「俺の復讐は、これで終わりだ」
ポケットから鈴のついたリボンを取り出すと、景は右手首に巻き付けた。澄んだ鈴の
音が、視聴覚室中に響き渡る。
「貴様をここで叩きのめしてな」
誰にも聞こえないようにそう呟くと、景は右手を振った。再び、鈴の音。
「俺を招待したのが、不運だったな」
 教師たちを見て、そう思う。
「俺と同じクラスだったのが、不運だった」
 騒然となった同窓生たちを見て、そう思う。これは言わば、お礼参りだ。最初からこ
うすべきだった。こんな同窓会など、叩きつぶしてやる。それで復讐は終わりだ。
 ちっぽけな自己満足だと、人は言うかも知れない。人の迷惑を考えないのか。同窓会
を成功させようと心を砕いた、教師たちの思いを無視するのか、この同窓会を楽しみに
やって来た元クラスメートたちの気持ちを考えないのか、と。
だが、じょじょに昂揚していく気分の中で、景は思う。それが何だ、と。彼がこの中
学にいたのは、わずか一年足らずの間だけだった。その短い時間に、この学校は景に十
年分の恐怖を植え付けた。竹刀、校門、空手、ホルマリン、卑劣ないじめ、同級生たち
の自分を無視する冷たい目、教師たちの彼を蔑む目。彼が登校拒否になった直後、家庭
訪問に来た担任の教師が、両親に向けてこう言っているのを聞いた。
「お子さんを人生の敗残者に、落伍者にするおつもりですか」
 中学校に来ないものは、落ちこぼれの屑、負け犬だと、教師たちは同級生たちは言い
切った。景は脅えた。自分はこの先、どうなるのだろう。あと六十年以上、こうやって
人に無視され、孤独に生きるのだろうか、と。そのままでは、彼は身も心も暗黒へと落
ちていっただろう。
しかし、景はすぐに気づいた。自分が一人ではない事に。
「あいつが救ってくれた」
 かつてこの世で最も愛した者の事を、景はふと思い出した。形見となった鈴を見て、
彼は思う。
「俺を土足で辱めた奴らから、俺を救ってくれた」
 学校になど行かなくとも、あいつは立派に生きていた。中学に来なければ負け犬だ、
などと、なんたる傲慢だろう。
「俺はここにいる」
 景はそれを知った。学校になど行かなくとも、自分は確かに存在している。その事を
信じるまで、十年かかった。教師たちは彼を人生から脱落させ、消し去ろうとした。だ
が、彼は消えなかった。
人の存在を否定する事も、自分の存在を主張する事も、もう景には必要なかった。あ
れほど嫌っていたここに再び来た事で、彼は解き放たれた。自分を縛っていた学校とい
う鎖から。いや、解き放たれていたのに気づいた、と言った方が正しい。この場所は、
いつの間にかどうでもいい存在に変わっていた。残っているのは、個人的な恨みくらい
のものだった。
それさえも、景は許そうと思う。ほんの少しの痛みと引き換えに。
「さあ、来いよ」
 景は水島弟に向けて、手招きした。
「あ、荒光のくせに……!」
 虚弱体質の登校拒否児に、かつて歯牙にもかけていなかった相手に挑発され、水島は
とうとう切れたらしい。顔色が赤いのを通り越して紫色になっている。
景は身構えた。さあ、仕掛けて来い。これでこの学校とも、今度こそ永遠にお別れな
のだ。
「ぬああーっ!」
 水島弟は掛け声とともに両手を振り上げた。
「やめろ!」
 固唾をのんで見守っていた周囲の一角から、声がした。景は声のした方向を見た。
「馬鹿が。やめるんだ」
 声を発して一喝したのは、山野だった。だが、山野自身は景を見てはいなかった。
「し、しかし、山野先生」
 生徒指導教師の冷徹な目にさらされているのは、元不登校児ではなく、教師、すなわ
ち水島弟だった。水島栄吉は、明らかに脅えているようだった。
「こ、こいつが……」
 水島弟は必死に弁明しようとしている。が、言葉にならないようだ。それほどに脅え
ている。山野は痩せた腕をぶらさげ、無表情に立っているだけである。だが、水島弟は
鬼でも目の前にしたかのように、恐怖の表情を浮かべている。
「水島先生」
 山野は振り返って呼んだ。水島弟の方ではない。斜め後ろに立っている巨漢、水島剛
史を呼んだのだ。水島兄はうなずくと、弟を睨んだ。
「栄吉、やめろ」
「で、でも、兄さん!」
 苦々しげな表情で腕組みしていた水島兄は、弟が反論しようとするのを、さらに険し
い目で睨みつけた。
「やめろと言ってるんだ」
 ようやく水島弟はおとなしくなった。憎々しげな目で景を見るが、もう向かって来な
い。よほど山野と兄貴が怖いようだ。
復讐を中断されて、少し景は不満だったが、すぐにどうでもよくなった。山野に怒ら
れておとなしくなる水島弟の姿は、あまりにもちっぽけに見えた。自分より強い者相手
だと、すぐにこうなってしまうのだ。そんな奴をたたきのめす意味も無くなった。同窓
会も、どうせじきに終わりだった。景は手の鈴を外した。
「すまないな。荒光君」
 不意に、山野が声を掛けてきた。周囲の同窓生が、景の事をじっと見ている。
「いや、こっちこそ」
 山野が止めに入ったのは、正直意外だったが、景にはまだ、そう言うだけの余裕があ
った。
 時刻は間もなく八時になろうとしていた。
 再度の景と水島弟の騒ぎがあったにも関わらず、室内はさほど気まずい雰囲気にもな
っていなかった。喧嘩になる前に割って入った、山野の手柄だろう。学校の面目は保た
れた訳だ。水島弟のプライドと引き換えにだが。
「では、名残惜しくはありますが、そろそろお開きにしたいと思います」
 理事長の送辞でもあるか、と景は思っていたが、意外と終わる時はあっさりと終わり
そうだった。教師の何人かが、残った料理の片付けを始めている。
「九時頃まで、学校内を解放してますので、皆さん、それぞれ思い出深い場所がありま
したら、回って見て下さい」
 進行役の教師がそう言うのを聞いて、いくぶん室内が騒々しくなる。
「ちょっと、あそこに行ってみようか」
 などと、誰かが言うのが聞こえた。
「思い出か」
 景には、そんな物はなかった。が、一つ思い出した。理科室だ。元々、この同窓会に
来ようと思ったのも、あのホルマリン漬けの事を夢に見たのがきっかけだ。昔はあれが
恐ろしかったが、今見ると、意外と陳腐化しているかもしれない。水島弟と同じように
。この際、精神的外傷は、きれいに片付けておいたほうがいいかも知れない。もう一度
、理科準備室に行ってホルマリン漬けの標本を見て帰れば、もう二度と学校の夢も見な
いだろう。
同窓生たちが、列をなして視聴覚室を出て行く。皆、これから思い思いの場所を回り
、それからそれぞれの帰る場所へと戻るのだろう。
 今、ここにいる誰とも、もう二度と会う事はないだろう。だが、景には何の感慨もわ
かなかった。
「さようならだ」
荒光景、同窓会へ行く。高校時代の友人などが聞いたら驚くだろう。
「お前、中学はほとんど行ってなかったんじゃなかったのか」
 なぜわざわざ行ったんだ、と聞かれるだろう。
「行っても何もないだろう」
 そう言うだろう。景はそれにこう答える。
「ああ。何もなかった」
 人の列に続いて、景も視聴覚室を出た。
「あの、荒光くん?」
 誰かが声をかけてきたので、景は振り返った。
 痩せた色黒の青年。桜本だった。
「えーと、さっきはごめん」
「……?」
「あの、僕のせいで、水島くんに……」
 そんな事か、と申し訳なさそうに小さくなっていう桜本に対して、景は思う。あれで
随分、気分がすっきりと晴れた。こちらが礼を言いたいぐらいだった。水島に絡まれた
ぐらい、何でもない。
「気にしないでくれ。何もなかったから。それに……」
「それに?」
「前から、あいつは気に入らなかった」
「え、あ、いや」
 少し、景は思い出した。昔の桜本も、こんな風に言葉につまる少年だった。多分、気
が小さいのも変わっていない。だが、こうやって自分から人に話しかけるタイプでも無
かった。やはり、誰もが変わっているのだろう。
「荒光くんは、これからどこか回るのかい」
「そうだな。理科室に行ってみる」
 桜本は意外そうな顔をしている。多分、他に理科室に思い出のある人間などいないの
だろう。
「ふーん。僕は音楽室に」
ブラスバンド部なら当然だろう。音楽室は確かこの校舎の四階の東側だった。理科室
は確か、西館校舎だ。階段も反対の方向である。
「じゃあな」
「あ、うん。じゃあ」
 景はかるく手を振ると、桜本に背を向けて歩きだした。不思議と、その方向の階段に
向かって歩くのは、景一人だった。景はそれを歓迎した。もう人の顔を見ているのはう
んざりだったからだ。
 校舎本館から西館には、非常用の連絡通路が通っているが、あくまで非常用であり、
普段は閉鎖されている。西館に行くには一度、一階に下りなければならない。だが、確
か理科室があったのは一階だった。どのみち階下には下りねばならない。
一階に下りると、東西へ廊下が伸びている。東へ歩くと景が最初に入った正面玄関ロ
ビーがある。廊下の西の突き当たりは非常口になっており、そこは常に解放されている
。そこから西館校舎へ行けるようになっているのだ。
階段を下りて、その廊下を西へ向けて歩く。非常口までの距離はごくごく短い。途中
にあるのは相談室という部屋と、保健室だけだ。
 その保健室の前に、誰か立っていた。
 最初に見えたのは、背中だけだった。校門で景が逡巡していた時に見た背中だった。
彼女は、掛川多岐美は、景の気配に気づいたか、急に振り返った。またサングラスを
掛けているので、表情が読めない。
「こんな所も、開放されてるのか?」
 立ち止まって、景は声をかけてみた。掛川多岐美は、少し景の顔を見てから、うなず
いた。
「鍵は開いてる」
 簡潔な答え。少しぶっきらぼうにも聞こえる。彼女は、扉に歩み寄った。
「ほら。電子ロックが開いてる」
 錠前の部分を指さす。見慣れない形の錠がついている。鍵穴がない。その代わりに、
おそらくカードをスライドさせるのであろう部位がある。その近くにランプがついてお
り、緑色の光が点灯している。
 彼女の細い手で、扉は引き開けられた。薬品臭い匂いが、中から少し流れてきた。景
が中をのぞき込むと、掛川多岐美はその側を通り抜け、さっさと中に入った。
 保健室。景も幾度か来た事があった。いじめというのは生傷の絶えないものだ。中は
天井の蛍光灯がついており、室内は明るく照らされている。部屋の奥にはベッドが二つ
置いてあり、カーテンで仕切ってある。部屋の真ん中には、まだ秋だというのにストー
ブがある。隅には流しとコンロ、医薬品の入っている棚、それと本棚。棚には花瓶が置
いてあるが、花は何も生けられていない。
 景も中に踏み込んでみる。
 掛川多岐美は、カーテンを開けると、その向こうにあったベッドの一つに腰掛けた。
サングラスを外す。
「……覚えてる?」
 彼女は一瞬目を伏せ、顔を上げて景を見て言った。
「……え?」
 景が聞き返すと、彼女は少し落胆したような表情を浮かべた。
「じゃあ、いい」
 また目を伏せてしまう。
 景にはわからなかった。覚えてるかって、いったい何の話だろうか。掛川多岐美とい
う、名前すら覚えていなかったのだ。昔、何かあっただろうか。
サングラスを外した青白い横顔を、景は見つめた。やはり、顔も覚えていない。
「あのさ……」
景は尋ねようと思い、口を開こうとした。その時。
 室内を鳴動が走った。震動が、保健室の壁を、床を駆け抜ける。
「な、何だ?」
 エレベーターの中にいるような、周囲を囲む震動。どこか近くで、大きな機械が動い
ているようだ。
「しまった……!」
 掛川多岐美は、不意にそう呟いて、顔色を変えてベッドから立ち上がった。青白く生
気の無かった頬が、かすかに紅潮している。立ちすくんでいる景の側をすりぬけ、保健
室の外に飛び出す。
 わけがわからぬまま、景もその背を追って部屋の外に出た。
 彼女は、出てすぐのところに立っていた。東側、玄関ロビーの方角を見て……玄関ロ
ビー? 玄関は見えなかった。玄関だけでは無い。廊下も消失していた。目の前にある
のは、鋼鉄の壁だけだった。
「何だ、これは?」
 思わず大声を出すと、掛川多岐美はうんざりしたような顔をして、振り返った。
「防火扉。見たらわかるでしょう」
「あ、なるほど……」
 景はうなずきかけ、
「いや、待て。何で急に?」
 振り返ると、背後にも鋼鉄の壁がある。保健室の前の廊下だけが、完全に区切られて
しまっていた。シャッターはどうやら天井から下りて来たらしい。さっきの震動はこれ
が閉まる音だったのだ。
「……セキュリティの故障かな。たぶん、じきに誰か来ると思うけど」
 それだけ言うと、彼女はきびすを返し、保健室の中に戻ろうとする。
「おい、待ってくれ。何でそんなに冷静なんだ? 閉じ込められてるんだぞ? 誰も来
なかったら?」
「……来るよ。同窓会が終わってから、十五分も経ってない。まだ先生たちも帰ってな
いと思う」
「それはそうだが……」
 どうも景は釈然としない。セキュリティがいかれて防火扉が下りた? 冗談ではない
。これから家に帰ろうとしていた矢先に、まさかこんな事が起きるとは……。
「おい、誰か!」
 景は叫ぶと、防火扉を何度もけり飛ばした。鈍い音が閉鎖された空間に反響する。が
、それだけだ。彼の呼びかけは壁の内側を乱反射するだけで、外からは何の反応も無い

「くそ」
 景は保健室の扉の方を振り返った。中の女も、彼のあがきに対して反応を見せない。
まるで、無駄だと解っているとでもいう風に。
 渋々と、景は保健室の中に戻った。多岐美は再びベッドに腰掛けている。
 ふと、景は引っ掛かるものを覚えた。
「なあ、さっき、「しまった」って言ったな」
「え?」
「部屋が揺れた時に、言っただろう」
 そう、確かに彼女はそう言った。「しまった」。もしかすると、彼女は何か不測の事
態を考慮していたのではないのか? それに自分が対応出来なかった事で、「しまった
」と言ったのではないのだろうか? 立ち上がった時の彼女の顔が目に浮かぶ。
「いったい、何が「しまった」んだ?」
「防火扉」
「……へ?」
 聞き返した景に、多岐美はしれっとして答えた。
「だから、防火扉が「閉まった」って言ったんだけど」
なるほど、言われてみれば、そう取れなくもない。と言う事は、彼女は部屋が揺れて
いる事で防火扉が閉まろうとしているのに気づき、「閉まった」と言って外に飛び出し
た、とこういう事だろうか。理屈に合っている。
 確かに、セキュリティシステムの故障などを、事前に予知しているわけがない。一瞬
、閃いた事だったが、どうも景の誇大妄想だったようだ。慌てていたせいだろう。馬鹿
な考えを思いついたものだ。
だがしかし、理屈で自分の考えを否定しながらも、景はやはりどこか引っ掛かる物を
感じていた。彼自身、うまく説明出来ない。だが、どこか、何か。
 もどかしさが苛立ちに変わり、やがてそれは怒りへと徐々に変貌していった。彼を閉
じ込めている空間、保健室という小さな空間ではなく、十年に渡って彼をどこかで縛り
付けていた空間、学校という空間だ。彼はこの同窓会に来て、自分が解放された事を認
識した。この学校の忌まわしさを思い、そしてそれが取るに足らぬものだったことを理
解した。最近になってようやく二十三歳になった自分が、それほど大人だとは思わない
し、世の中に通じているとも思わない。だが、かつてここで経験したイジメや、教師た
ちの暴力は、今の何をするでもなく慎ましく生きている自分と比べても、驚くほど矮小
だった。
その矮小な存在が、今こうして自分を閉じ込めている。ようやく呪縛を逃れて外へ出
て行こうとしている人間を、なおも逃がすまいとしている。
景は保健室の奥へ歩み寄った。校庭に面している外の廊下には無いが、校舎の反対側
、裏山に面している保健室の壁側には窓があった。裏山側といっても窓の外には校舎と
外界を隔絶している塀がある。しかし、窓と塀の間には数mほどのスペースがあり、校
舎の裏を行き来できるようになっているのだ。つまり、
「この窓さえ」
開ければ、その僅かな空間を伝って、ロビーの方なり職員室方面に行って、人を呼ぶ
事が出来るだろう。
窓は磨りガラスを使っており、裏庭とでも呼ぶべき空間は室内からは見えない。景は
窓枠に手を掛けた。窓は動かなかった。鍵がかかっている。窓枠を探る。だが、あるは
ずの物がそこには無い。
鍵が無い。二つの窓枠が互い違いに動く構造になっている以上、開閉するはずだ。だ
が、その開閉を束縛しているはずの錠がないのだ。普通ならば単純な留め金があるはず
なのに、それが無い。
「電子ロックだよ。セキュリティシステムの一つ」
 ベッドに腰掛けた女が彼の方を振り返り、言った。なぜそんなものが、と彼女に聞き
返そうとして、景は彼女の表情に気づいた。先ほど、うんざりしたような、と言ったが
違う。景のような単なる苛立ちでもない。もっと切羽詰まったような焦燥感、そしてそ
れと対極にあるような諦めが感じられた。
諦めというのも、景の嫌いな感情だ。正確に言えば、学校に対して諦めるのは我慢が
ならない。プライドとも言える。こんな下らない場所に負けてたまるかという、もうほ
とんど強迫観念にも似た感覚だ。
 部屋の隅にパイプ椅子が置いてあった。景はそれを掴むと、高々と振り上げた。ガラ
スの一枚や二枚、何だというのだろう。景の頭にあるのは、この不愉快な場所から逃れ
て家に帰る事だけだった。
掛け声の変わりに鋭い息の音をもらし、景は椅子を窓ガラスに叩きつけた。が、椅子
は乾いた音をたててはじき返された。
もう一度、景はぶつけた。結果は同じだった。鉄製の椅子は、目の前のガラスにひび
さえ入れる事が出来ない。
「強化ガラス。昔からそう」
 淡々と呟く女の横顔を見ながら、景は慄然とした。昔は気づかなかった。そう言えば
、尾崎豊の歌にあったような、不良がガラスを割ってまわったという風な話を、聞いた
覚えが無い。
「なぜだ? なぜ、ここまで?」
多岐美は答えない。だが、その青白い顔はまたかすかに紅潮していた。
馬鹿げている。いったいどれだけの金がかかっているのだろう。全館強化ガラス、電
動で下りてくる防火扉。たかが中学校のセキュリティにしては何とも大袈裟すぎる。ま
るで秘密基地だ。これもまた、景は気に食わない。教師たちはいったい自分たちがどれ
ほど偉いと思っているのだろう。自分たちのしている事が、どれだけ重要だと考えてい
るのだろう。こんな大袈裟な設備で守らなければならないほど、大きな存在だと思って
いるのだろうか。
 景は椅子を下ろすと、それに座り込んだ。腕と脚を組み、ため息をつく。敗北感と言
うほどではないが、こうして待つしかない自分が腹立たしい。
黙りこくっている女を景は見る。不機嫌そうな顔をしている。まじまじと見るのは初
めてだった。青白く生気のない肌と、目尻が少し下がっているせいで、全体的に無気力
そうな印象を受ける。だが、目の輝きは違う。どこか危険な雰囲気を帯び、周囲を常に
窺っているように見える。精悍といえば女性には使わない表現かもしれないが、少なく
とも目だけは、そう呼んでいいだけの鋭さを持っている。
やはり、何度考えても思い出せない。同じクラスにこんな女がいただろうか。どこか
儚げで、どこか危険で、どこか美しい。目を見張るような美女ではないが、こうやって
側にいて、その怜悧な双眸に、景は引き込まれそうになった。
尋ねてみれば、すむ事だった。彼の事を覚えているか、彼と話をした事があったか、
など聞けばいい。しかし、景は言葉を切り出せなかった。
何故だろう。そう考えて、ふと景は苦笑いした。今日はずっと自問してばかりだ。
怖いのかもしれない。これ以上過去を掘り起こすのが、恐ろしいのかもしれない。そ
れとも、十年たってようやく学校に背を向けずにすむようになったが、今だに女に対し
て向き合うのは怖いのかもしれない。
景の逡巡を感じ取ったか、多岐美は一瞬、彼を振り返った。だが、すぐに絡みあいか
けた視線を外してしまう。これだ、と景は思う。視線を反らしたのは彼女だ。だが、い
つも逃げているのは景自身だ。人に自分を見せるのを恐れている。自分をひた隠しにし
て、鎧の中に隠れている。だから人は、そんな彼から目を反らすのだ。
息苦しい沈黙が漂う。今まで、景はそんなものには慣れているつもりだった。だがそ
れも違う。そんなふりをしているだけだ。
静かな中で、どれだけの時が流れただろう。ふと景が時計を見ると、すでに閉じ込め
られてから、三十分程が経過していた。
不意に、部屋の中を震動が襲った。手首の脈拍にも似た規則正しい運動音が、保健室
を揺らす。多岐美は弾かれたように立ち上がり、部屋の外へ飛び出す。一瞬遅れて景も
立ち上がり、彼女の後を追って外へ出る。
 彼女の背が、まず目に入った。そしてその向こうには、照明の落とされた黒々とした
空間が、その口を広げていた。
続きへ。