不定期連載映画エッセイ

『小野町子の美的体験』


第一回 『愛に囚われて』

 去年の夏から年末にかけて、私は歯医者に通っていた。もちろん虫歯の治療のためである。
 歯医者に行くのはほぼ十年ぶりだった。下の両側の奥歯に穴があいている事には小学校六年生の時から気が付いていたのだが、面倒なのでずっと見てみぬ振りをしていた。表面上は特に変化もなく、痛みもなかったので、約八年間が何ごともなく過ぎていった。
 ところが去年の春になって、ついに痛みを感じるようになった。見た目は相変わらず小さな穴があいているだけなのだが、歯茎の付近を鋭いもので突くと、背筋が寒くなるような妙な感覚があった。ほんの小さな穴の中で、実は凄まじい虫歯が進行しているのではないかと不安になった。
 すぐに歯医者に行けば良かったかもしれないが、大学に入学したばかりでそんな余裕はなかった。時間の余裕は有ったのだが、心の余裕が無かったのだ。大体私はいらぬ事にばかり緊張するたちで、ほんの電話一本かけるのにも心の余裕が必要な人間なのだ。ましてや歯医者である。一体どんな診断が下され、どのような治療を、どのくらいの期間受ける事になるのか。そんな事を綿密に想像してみるだけで、どんどん緊張してしまう。
 結局私は解決を先延ばしにして、夏休みになってしまった。春から夏にかけては特に症状が進行する事はなかった。虫歯の見た目はその後も変化無く、ほんの一ミリ程度の穴があいているだけだった。しかし神経を撫で上げられるような薄ら寒い痛みが消える事は無かった。触らなければ痛くは無いのだが、つい、まだ痛いかどうか確認したくなって、数日置きに爪の先でつついていた。
 大学が休みになってからは心の余裕は十分だったのだが、私はまだ何かためらいを感じていた。しかしこれ以上放置していても、状況に進展はあり得ないと思い、とっくの昔に期限が切れている診察券を握りしめて、近所の歯医者に予約もなしで出撃した。
 久々に相見える事になったその歯医者は、十年前と同じようにゴルフ焼けしており、青白い白衣がよく映えていた。
 診察の結果、下の両奥歯だけでなく他の歯にも軽い虫歯がある事が分かり、私の数カ月間の通院が始まった。この間に、私は美的としか言い様がない体験をした。
 私は以前、ある一本の映画を見た事があった。「愛に囚われて」という邦題の映画である。主演の男優が好きだったので、レンタルビデオを借りてきて見たのだ。その映画はある歯科医と囚人の恋物語だった。囚人の歯を治療するために女性歯科医が刑務所に通う事になり、そこで二人は恋に落ちるのである。
 その映画の中では、刑務所に立派な診療室が設けられていて、看守に監視されながら囚人達が順番に治療を受ける。もちろん男ばかりの刑務所なので、女性歯科医は囚人達から淫らな視線を向けられる。そんな囚人達の中の一人と恋に落ちてしまうわけである。
 そしてこの映画の中に、後に私にとって大問題となるシーンがあったのだ。
 診察が始まり、女性歯科医は順番に囚人達の歯を治療していった。後に恋に落ちる事になる囚人の順番が回ってきた。彼は他の囚人のように歯科医をあからさまにからかう事はしなかった。しかし、診察するために彼の口の中に入れた指を彼女が抜こうとした時、彼はその指を噛んで、にやりと笑って流し目を送ったのである。
 私は歯医者に通っていた数カ月の間、診療台の上でこのシーンを幾度と無く思い出し、その度に煩悶することになった。
 私が治療を受けていた歯医者は男性なので、麻酔の注射や削るためのドリル等の危険な道具を使っている間は特に何の衝動も起こらなかった。しかし虫歯の部分を綺麗に削り終えて、詰め物をするための型をとる段になって、ある衝動に駆られるはめになった。
 歯科医は男性だが、その他の雑用をする助手はみな女性だった。歯型はその助手の女性達がとってくれる。歯型をとる際は、桃色の無気味なパテを歯にがっちりと押し付け、そのまま数分間待つ。その間ずれないように助手の女性が私の口に指を入れたままパテを支えていてくれるのである。
 そして私は口の中に指を入れられている時、それを噛みたくて仕方がなくなってしまったのだ。型をとられている間、あのシーンの記憶が何度も脳裏に蘇る。そしてその度に噛みたいという衝動をこらえる。こらえていると今度は笑いの発作に襲われる。噛むのもあぶないが、型をとられながら一人でにやにやするのも同じくらいにあぶない。そんな事をしてしまったら、もう二度とこの歯医者には来られなくなる。
 私は診療台の上で激しい葛藤を繰り返した。この葛藤は計五本の歯を治療し終わるまで続いた。ほぼ二週間に一度の戦いであった。
 見た当初はそれほど印象深い映画ではなかったのだが、この体験のおかげで、「愛に囚われて」は忘れがたい作品になった。
 今では私の口の中には虫歯など一本もなく、奥の方で銀色の詰め物が光っている。葛藤している間は苦しかったが、今あの時の事を思い出すと何だか心の中が明るくなる。もう一度あの気持ちを味わいたいような気がしてくる。
 また何時か虫歯ができたら、今度はためらわずに歯医者に行けるだろう。


所長注:『愛に囚われて』 (原題『Captives』) 1996年イギリス映画
    監督 アンジェラ・ポープ
    主演 ティム・ロス ジュリア・オーモンド


地下劇場に戻る。