北方四島にはロシア人が居住している。日本の領土要求は、彼らにとっては、安住の地からの追い出しに他ならない。このため、千島列島を含むサハリン州では、日本の領土要求に対する反発が強い。

 国後島ユジノクリリスク(旧:古釜布)郷土史博物館に、日本語のパンフレット「クリル列島はロシアの領土」が置かれている。ロシア中央で作られたものではなく、現地で作られたものであると思われる。このパンフレットは、日本語が余り得意でない人が書いたようで、日本語の文章として誤りが多い。以下は、パンフレットの内容を損なわない範囲で、文章を変更したものである。



パンフレットの表紙     パンフレットの裏表紙
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 クリル列島は火山島で、オホーツク海と太平洋の境界をなし、カムチャツカ半島(ロシア連邦)の南にあるロパトカ岬と北海道(日本)の根室湾の間に位置する。クリル列島は2つの列島からなる。一つは大クリル列島と言い、長さは1200キロ、もう一つを小クリル列島と言い、長さは120キロである。大クリル列島の大きな島は、シムシュ島、パラムシル島、オネコタン島、シムシル島、ウルップ島、エトロフ島、クナシリ島である。大クリル列島には、総計54の島と岩がある。小クリル列島は大クリル列島と平行しており、長さは120キロである。小クリル列島と大クリル列島の間には、南クリル海峡がある。小クリル列島の中で大きな島は、シコタン島、ゼリョヌイ島、ユリ島、タンフィレア島、ポロンスコロ島である。クリル列島の全面積は15600キロである。
 行政区域としては、クリル列島は、ロシア連邦サハリン州に属している。

 過去、しばらくのあいだ、クリル列島は日本の領土だったことがある。1855年の下田条約で北海道からウルップ島の手前までが日本領となり、1875年のサンクトペテルブルク条約で、ウルップ島からカムチャツカ半島の手前までが日本領となった。ところが、1904年、日本軍は宣戦布告無しにロシア海軍を奇襲攻撃し、日露戦争が勃発、条約は失効した(1)
 その後、1905年から1945年まで、日本のクリル列島所有の根拠は、日本の実効支配だった。ロシアと日本のその地域の国境は条約によるものではなく、歴史的にできた国境だった。(カムチャツカ半島とシムシル島の間が日ロの国境)。

 日本は、19世紀末から、アジアを侵略、その後オセアニアを侵略し、領土拡張政策を行った。第二次世界大戦(1935-1945年)では、日本はナチスのドイツ、ファシズムのイタリアと同盟関係にあった。クリル列島は軍事基地になり、ソ連と同盟国だった米国への攻撃に利用され、また、ソビエト沿海州への輸送の妨害に利用された。列島には6万人〜7万人の軍人が駐留していたが、これは一般人の人口、1万6千人〜1万7千人の3倍〜5倍にのぼった。軍事基地の建設のため、朝鮮人を強制連行し、奴隷労働に使役した。(1905年〜1910年に朝鮮は日本の植民地になった(2)。)朝鮮人奴隷労働者の多くは死亡した(3)
 クリル列島の地理的位置のため、列島は米国攻撃の基地になった。1941年11月26日、エトロフ島単冠湾(現在カサトカ湾)から、ハワイ方面に向けて、日本艦隊が出航した。1941年12月7日、日本艦隊から飛び立った戦闘機は真珠湾の米国太平洋艦隊を破壊した。また、1942年夏には、アッツ島とキスカ島を侵略するために、パラムシル島を利用した。その結果、アラスカと米本国の交通に脅威となった。
 日本は、米国・ソ連に対して侵略戦争を予定しながらも、二つの国と戦争することは無理であることが分かっていた。このため、1941年3月13日、日本はソ連と5年間の中立条約を結んだ。中立条約交渉の中で、クリル列島は対立点になった。ソ連は南サハリンとクリル列島の返還を要求した。日本は、石油が取れる北サハリンの占有を目論んだ。
 ソ連との中立条約にもかかわらず、日本にとっては、ドイツとの同盟が重要だった。1941年5月、日本国外務大臣松岡はドイツ外務大臣リッペンドロップに対して「ドイツとソ連の間で紛争があったら…日本はドイツと同盟して、ソ連を攻撃する、中立条約は関係なし」と声明した。1941年7月2日、日本は天皇臨席の御前会議で、ドイツ軍のソ連侵略が有利に進展したら、日本も参戦することを決定した(4)

 しかし、ドイツ軍はソ連に敗戦し、ヨーロッパでは英国・米国軍が参戦した。英国と米国は、ソ連が対日参戦することを望んだため、ソ連は連合国に協力した。
 1945年2月11日、米国、ソ連、英国はクリミヤでヤルタ協定を締結した。協定によって、ドイツ降伏後、連合国と共に日本と戦争する責任が、ソ連に課せられた。協定では、参戦の見返りに、南サハリンとクリル列島をソ連領とすることが決められた。
 1945年4月5日、ソ連は日ソ中立条約を破棄した(5)。その理由として、国際情勢が全く変わったこと、すなわち、日本はドイツに軍事援助したこと、ソ連と同盟関係の米国と戦争中であることがあげられた。1945年7月26日、連合国(米・英・中)は日本に最後通牒を発した。これを、ポツダム宣言という。ポツダム宣言により、日本の領土は、本州・北海道・九州・四国および連合国が指定する諸小島に限定された。日本は最後通牒を拒否した。
 ソ連は、1945年2月11日のヤルタ協定にもとづく、連合国との約束を守って、8月8日ポツダム宣言に参加し、8月9日、日本に対して宣戦布告した。
 1945年8月18日、米国大統領トルーマンは、スターリン大元帥に宛てた電報の中で、ソ連に降伏する地域に全クリル列島を含めることに賛成した。
 日本は、1945年8月15日にポツダム宣言受諾声明をしたにもかかわらず、サハリン・北クリルの日本軍は、8月22日までソ連軍に抵抗した(6)。このため、数千人のソ連軍人が戦死した。
 1945年9月2日、日本は降伏文書に調印した。ポツダム宣言の条項(第一項)に従って、天皇と政府は連合国総司令官に服従した(降伏文書第8項)。1945年9月6日、英国・米国外相声明により、ヤルタ協定に従い、クリル列島はソ連領に含めることが明らかにされた(a)
 1946年1月29日、連合国最高司令官マッカーサー覚書第677号により、日本政府は、日本以外の地域における国家権力または行政権の行使や、その試みを中止することを、命ぜられた。その地域には、クリル(千島)、歯舞群島(即ち小クリル列島)(水晶(タンフィレア)、勇留(ユリイ)、秋勇留(アヌチナ)、志発(ゼリョヌイ)、多楽(ポロンスコゴ))、色丹(シコタン)が含まれている。これは、連合国が、日本の領土から、これらの島々及びサハリンを除外したことを意味している(7)。さらに、このことは、覚書の添付図からも明らかである。それ以降、クリル列島はソ連領になった(8)
 ヤルタ協定、ポツダム宣言、上記覚書に基いて、ソ連最高会議は1946年2月2日の法令で、南サハリンとクリル列島を、ユジノサハリンスク州(州都トヨハラ市)とし、ロシア連邦ハバロフスク地方に編入した。1947年1月2日、サハリン州(州都アレクサンドロフスク・サハリンスク市)に編入された。
 マッカーサー総司令官の指示(1946年3月16日、1946年5月7日、1946年9月10日、1949年3月9日)によって、日本人は、南サハリンとクリル列島から送還された。

 冷戦のとき、連合国は2つの陣営に分離した(一方は米国・英国・台湾、もう一方はソ連・中国)。1951年、米国は日本とサンフランシスコ条約を締結した。この条約にソ連は参加していない。サンフランシスコ条約第二条で、日本は、南サハリン(隣接諸島を含む)および全クリル列島を放棄した。また第八条によって、第二次世界大戦に日本と戦った連合国が、戦争状態を終了するために締結したすべての条約の完全な効力を承認した。すなわち、ヤルタ協定が含まれている。また、その後、ソ連の賛成で日本は国連に加盟し国連憲章に調印したが、国連憲章第107条では、第二次大戦で連合国が取った敵国に対する全行為を認めている。
 サンフランシスコ条約を批准したとき国会で、日本政府の代表委員である西村氏は、条約にいうクリル列島には北クリルと南クリルの両方を含むと説明している(9)。この説明は、それ以前及び当時の日本地図や諸外国の地図の記載と全く同じである。
 その後、サンフランシスコ条約を避けるため、日本の宣伝ではクリルに小クリル列島は含まないとされ、さらに、クリルの一番大きな島であるクナシリ・エトロフはクリル列島に含まないとされるようになった。
 そして、日本国内では、国際的な名称を避け「北方領土」の用語が利用されるようになった。世界やロシアの地図では、これらの島々はクリル列島に含まれている。

 1956年10月9日、ソ連と日本は共同宣言で戦争状態を中止し(第一条)、外交関係が回復した(第二条)。さらに、第三条では、経済的、政治的、思想的のいかなる理由であるとを問わず、内政に干渉しないことを、相互に約束した。第六条で、ソ連、日本、双方とも、戦争の結果に対する請求を放棄した。この中には、明らかに領土の請求も入っている。
 このとき、ソ連は、平和条約締結後、小クリル列島を日本に引き渡す意向を表明した(10)

 しかし、その後の国際情勢は、ソ連と日本の平和条約締結に障害となった。日本は米国との軍事同盟を強化したため、小クリル列島にも軍事基地を置く可能性が生じた。1960年、日本は、小クリル列島以外のソ連の領土にも、領土要求を表明した。その後、国際的に、200カイリ経済水域が設定され、島の周辺も経済水域となった。共同宣言締結当時の理念は、現実性を失った。ロシアと日本の国境は歴史的に出来あがった。
 1947年からクリル列島を含めて、ソ連憲法では、サハリン州はロシアの領土とされている。1993年のロシア新憲法によって、サハリン州はロシア連邦の完全な権利を有した主体であることが認められている。ロシア連邦は国境と領土の不可侵を保障している(第4条3項)。

 上記の事実に基いて、ロシア政府とロシア国民は表明する。

 クリル列島に対する日本の要求は、かつて日本に破滅をもたらした、侵略主義復活の道である。このような政治は、ロシアと日本両国民の友情関係に反する行為である。

 クリル列島はロシア連邦サハリン州の不可分な領土である。
   




注)

(1) 戦争勃発により、相互不可侵や相互友好関係を定めた条約が失効することは当然であるが、国境線の定めが失効するのか否かは、意見が分かれるところである。ソ連・ロシアでは、日露戦争により、これまでの国境条項は失効したとの意見が多い。日本では、新たな条約に定めがない限りは、これまでの条約が有効との見解が多い。
 国境条項が失効したとの解釈に立てば、日露戦争後に日本が千島を領有していたのは、歴史的経緯・実効支配であるとの解釈になる。一方、国境条項が失効していないとの解釈に立てば、日露戦争後に日本が千島を領有していた根拠は、1875年のサンクトペテルブルク条約になる。

(2) 日露戦争は、もともと、朝鮮半島・満州の利権争いである。日露戦争後、ロシアの影響がなくなると、日本は朝鮮を植民地とした。

(3) 戦時中、千島での朝鮮人使役は軍事機密だったため、実体はほとんど知られていない。日本政府の公式説明は『資料が無いため不明』とされている。
 北千島の幌筵島で奴隷労働に従事させられた朝鮮人の生き残りの証言によれば、働けなくなった朝鮮人は生き埋めにされ殺害された。また、国後島では、死亡・自殺者続出の中、反乱をおこし、懲役の後、戦後釈放された朝鮮人も存在した。
 パンフレットでは「奴隷労働」となっているが、日本では「タコ部屋」と呼ばれる。このような労働は、戦後GHQにより禁止された。

 エトロフ島・単冠湾での朝鮮人強制労働について、『わが夕張 わがエトロフ 佐々木譲/著 北海道新聞社(2008.9.5) P38』に以下の記述がある。

 カシュプルク氏が岩山を指し示しながら、説明してくれる。
「戦争の末期、日本軍はここに地下要塞を建設しました。建設には、捕虜となった中国人、朝鮮人、米国人、フランス人など、一万二千人が使われました。終戦となると、日本軍は労務者のうち九千人を閉じこめて要塞を爆破、三千人を船に乗せて沖合に運び、船を爆破して沈めました。ソ連軍は、この島で捕虜にした日本軍人から、その事実を聞き出しました」
 にわかには信じられない話だった。わたしは前述した小説(『エトロフ発緊急電』)を書くとき、単冠湾に住んでいた島民の何人もから、戦争中の思い出話を聞いている。その中には、地下要塞建設の話はなかった。その「一万二千人の捕虜の虐殺」の話も初耳だった。
 朝鮮人捕虜と説明された人々が、捕虜ではなく強制徴用された朝鮮人のことだとしても、中国人捕虜をこの島まで移動させるようなことが、戦争末期にあったかどうか。
「ここは、戦後これまで日本人がやってきたことはなかった場所です」と、カシュプルク氏は言う。「工事中も、一般の住民にはまったく秘密にされていました」
 カシュプルク氏によると、日本軍の取り調べの記録は、モスクワ郊外の赤軍公文書館に残されているそうだ。戦後すぐには、米軍関係者がこの湾を訪れ、米軍捕虜虐待の事実を調査している。ソ連軍側の記録は、このとき米軍側に手渡されているというから、あるいはこれはごく簡単に確
認がとれることなのかもしれない。単にわたしが不勉強であっただけか。

※(注〉カシュプルク氏から聞いたこの件について、私はそれが事実であったかどうか、未だ確認していない。ソ側が当時、単冠湾について外国人プレスにどのように説明していたか・その記録としてこの記述をここに残す。
  『わが夕張 わがエトロフ』 佐々木譲/著 北海道新聞社(2008.9.5) P38


(4) 御前会議では、情勢が有利に進展したならばソ連を攻撃することを決定した。日本軍は、さらに、関東軍特殊大演習を行い、ソ連侵攻の予行演習も行った。

(5) 中立条約を破棄することを通告したのであって、実際には、この後1年間はなおも有効であったとの解釈がある。条約の条文上は、さらに1年有効との解釈が正当であるが、実際問題としては、破棄通告時点で効力を失っていた。

(6) ポツダム宣言第13条には、日本軍の無条件降伏が義務付けられているが、北千島占守島・幌筵島守備軍(第91師団)は降伏を拒絶して徹底抗戦した。靖国神社の展示では、日本軍の戦闘を絶賛している。

(7) 日本政府は、この覚書に対して、占領中の施政・統治の命令であり、領有権の移転を意味していないと説明している。法的には、このときから、日本の国家権力・施政権は千島に及んでいない。

(8) マッカーサー覚書によって、千島や南樺太がソ連の領土になったのか否かについては日本でも諸説ある。日本はマッカーサーの覚書によって、千島の国家的権力、施政権を失った。このため、千島には新たな国家的権力・施政が発生する。覚書には新たな権力について触れられていないので、現実問題としてソ連の権力になったとの解釈がある。しかし、マッカーサーの覚書は占領下の施政を定めたものなので、平和条約を締結し戦争が終結すると、占領下の施政命令は失効し、平和条約の規定に従うものである。ところが、日ソ間では、平和条約を締結すること無しに戦争状態を終結させた。
 日本政府は、サンフランシスコ条約で、南樺太・千島の領有を放棄したので、放棄した領土がどの国に属するのかについて発言する権利は無いと説明している。実際には、南樺太のユジノサハリンスクには日本総領事館が置かれ、放棄した地域がロシアであることを、事実上、承認している。日本総領事館が置かれたとき、鈴木宗男沖縄開発庁長官(当時)は、そこがロシアの領土であることを前提に、ユジノサハリンスクを訪問した。南樺太はロシアの領土であることを、日本政府が認めたことを示す目的での訪問だったと、本人が語っている。

(9) 平和条約国会で、西村熊雄条約局長は、日本国が放棄した千島列島には、南千島である国後島・択捉島を含まれると説明した。ただし、歯舞・色丹は放棄した千島に含まれないと説明している。

(10) 日ソ共同宣言では、歯舞・色丹を日本に引き渡す理由として、「日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して」と書かれている。このため、政治情勢の変化によって、日本へ引き渡す理由がなくなったと説明されたことがある。


(a) パンフレットの意味が良く分らないのですが、『降伏後ニ於ケル米国ノ初期対日方針』のことだと思います。
 『日本国ノ主権ハ本州,北海道,九州,四国竝ニ「カイロ」宣言及米国ガ既ニ参加シ又ハ将来参加スルコトアルベキ他ノ協定ニ依リ決定セラルベキ周辺ノ諸小島ニ限ラルベシ 』となっており、日本の領土はヤルタ協定に従うことが定められています。


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