2006年6月、ロシア・サハリン州政府は、小冊子「露日関係におけるクリル列島」(ロシア語版)を100部発行し、日本と関係が有る企業や民間団体に配布した。2007年6月、増補改訂版をロシア語で500部発行した。同時に、日本語版200部も発行した(表紙込み23ページ)。
 以下は、2007年6月に発行された日本語版の全文。(改行位置は変更している。また、原文では、行頭の1文字空白は無いが、読みやすいように、行頭に空白一文字を挿入した。改ページに、水平線を入れた。ただし、前頁と内容が続いている場合は、水平線を入れていない。)


 図1〜5、図7、『日本が主張するロシア領のクリル諸島の島々』の図は冊子と類似の図を新たに書いたものである。色は冊子のものとは異なる。
 日本領土拡張 1855年−1942年は類似の図を新たに書いたものであり、色・年代区切り等、冊子のものと異なる。

 『下田条約、1855年』の写真は、冊子のものと若干異なる。
 『アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソヴィエト人民委員会議長スターリンがヤルタ会談にて、1945年2月』の写真は、冊子のものと異なる。
 『ポツダム会談での米・英・ソの3首脳=左チャーチル・中央トルーマン・右スターリン、1945年』の写真は、冊子のものと異なる。
 『日本降伏文書調印、1945年、9月2日』の写真は、冊子のものと異なる。
 『日本降伏文書』は、冊子では、降伏文書英文本文も掲載されている。

 冊子には、誤字が多いが、明らかな誤字であっても、基本的にそのままとした。





サハリン州 国際・対外経済・地域間
関係委員会





露日関係におけるクリル列島

事実、出来事、コメント



ユジノサハリンスク市
2007年





ブリタ二カ百科事典によるとロシアのクリル列島、(日本語:千島列島)は、ロシア極東に
おけるサハリン州にある列島。カムチャツカ半島『ロシア』の南から北海道の東北部の間
に750マイル(1200km)に連なる列島。クリル列島がオホツク海と太平洋との間
の境をなしている。56島、全面積は6000平方マイル(15600km2)。



 クリル全島は南の島々をふくめてエカチェリーナ2世の時代にロシア帝国の領土であった。

 それを裏付ける地図があります。『17郡に分けられている4州からなるイルクーツク総督府の管区の地図』は否定できない証拠品です。


地図省略


『イルクーツク総督府の管区の地図』、1786年



 其の地図にクリル諸島は、エトルプ(択捉)、クナシル(国後)、チコタ(色丹)をふくめてカムチャツカと同じ色で示されています。当時クリル諸島は行政的にイルクーツク総督府の管区のオホツク州、カムチャツカ郡の一部でした。

 イルクーツク総督府の管区の地図は当時、主要公式地図作成出版物であった、エカチェリーナ2世の治世中の『1796年に聖ピョートルーの都市で刊行された52葉の地図からなるロシア帝国の地図集」の一部でした。



 1855年2月7日において、ロシアと日本が両国の歴史に初の両国間の日露通好条約(下田条約)を結んだ。


下田条約、1855年


 下田条約を締結することにあたってクリル諸島の領有権に関する問題が取り上げられた。ロシプチャーチン大使はクリル諸島およびサハリン島はロシアの領土であることを指摘したが日本政府の代表がクリル諸島またはサハリン島は日本固有の領土であることを主張した。

 結果双方が領土確定を合意した。其の領土確定によるとクリル諸島の境は択捉島とウルップ島との間にあった。


図1.下田条約による露日の境界線、1855年


 下田条約の第二条下記を規定した
 『今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との問に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし』。



 1875年のペテルブールグ条約(樺太千鳥交換条約)によって両国はロシアが全サハリン島の権利を受げて日本が残りのクリル群島の権利を受ける合意をした。

 ペテルブールグ条約に従いロシアと日本との間の境界線は『ラベルーズ海峡ヲ以テ両国ノ境界とし「ラパツカ」岬ト「シュムシニ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス』。
 1875年の条約は事実上1855年の条約の領有権に関する条を破棄した。

図2.ペテルブールグ条約によるロシアと日本との間のの境界線、1875年



 日露通商航海条約(1895年)の特定条の規定により1855年の条約は完全に無効にされた。


 1904年に日本は宣戦布告なし旅順に基地をしたロシア艦隊に攻撃をした。
 1905年には日本軍がサハリンを占領して、北部クリルのシュムシュ島を拠点にしてカムチャツカに上陸した。
 ポーツマス講和条約1905年9月5日によってロシアはサハリン南部と隣接の小島の主権を日本へ譲った。

写真省略

ポーツマス講和条約のタイトルページ、1905年


 ポーツマス講和条約に1895年の条約が効力を戦争によって失ったと規定されていた。ポーツマス講和条約に従い、ロシアは日本に北緯50度以南の樺太南部を譲与した。

 1875年のペテルブールグ条約の条件変更を目的をもって締結したポーツマス条約にはクリル諸島の帰属が正式に確定されなかった。事実上クリル諸島は1945年8月まで日本の主権下にあった。

図3.ポーツマス講和条約による露日の境界線、1905年


 1920−1925年の間日本はサハリン北部を占領した結果1925年までサハリン全島は日本の管轄下にあった。



図4.1920年−1925年間に日本行政、軍政管轄化にあった領土


 1925年1月20日つけのソ日関係の基本的法則に関する条約締結によって露日関係がある程度正常化された。ソ連と日本との間に外交、領事関係が設定された。日本軍はサハリン北部から撤去された。その代わりに日本はサハリン北部に石油、石炭のコンセッション(利権)を与えられた。同時にポーツマス条約の効力が確認された。
 基本的法則に関する条約締結調印時にソ連の代表が下記のような声明をおこなった。ソ連政府はポーツマス条約を承認しながら帝国ロシア政府がポーツマス条約を締結したことに対する政治上責任を分け合う意味ではありません。



図5.1925年−1945年に日本行政管轄化にあった領土



 ソ連政府は日本に占領された南サハリンとクリル諸島はロシアに返還されないとならない立場でした。
 それに関連して1940年11月18日モーロトフ外務人民委員はタテカワ在ソ連日本大使の会談のとき日本がソ連は前に失った領土、サハリン南部とクリル諸島を返還すべきだとの表明をした。

 1941年12月7日に日本は太平洋に戦争を開始した。
 パールハーバーへの攻撃の前日本帝国艦隊の集結の場所として択捉島が選ばれた。



日本の領土拡張 1855年−1942年


 1945年2月11日にソ連、米国、英国の首脳会談がヤルタでおこなわれヤルタ協定が締結されました。その協定によるとソ連がドイツ降伏後日本とすでに交戦中であった連合国側にたって対日参戦に承認した。
 ソ連の対日参戦は日本の侵略行為を止める必要性があった。
 その侵略行為は1941年に結ばれた中立条約にもかかわらずソ違に対する侵略行為もおこなわれた。


アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソヴィエト人民委員会議長スターリンがヤルタ会談にて、1945年2月


 ソ連の対日参戦の条件としては下記がのべられた
−樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、ソヴィエト連邦に返還する。
−クリル列島は、ソヴィエト連邦に引き渡す

 三大国の首班はソビエト連邦の要求が日本国の敗北後において確実に満足させることに合意をした。
 その多国間の合意書に従いソ連は1945年4月5日付け覚書に1941年つけのソ日中立条約を廃棄した。ソ連政府は公然と正式に(1945年4月6日づけのイズベスチヤ新聞)中立条約締結爾来事態が『根本的に変化した。ドイツがソ連に侵攻してドイツの同盟国である日本はドイツへ対ソ戦争に援助を行っている。それだけではなく、日本はソ連の同盟国である米国と英国と戦争を行っている。』

 1945年7月26日に中華民国、米国、英国は日本国に降伏勧告の宣言いわゆるポツダム宣言を発した。



ポツダム会談での米・英・ソの3首脳=左チャーチル・中央トルーマン・右スターリン、1945年



 ポツダム宣言の条件の1つはカイロ宣言の条項の履行、すなわち『本州、北海道、九州、四国および連合国が決定する諸小島への日本の主権の制限』であった。
 カイロ宣言の目的としては下記の通りでした。『日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される』。

 1945年8月9日に満州戦略攻勢作戦またはサハリン南部攻勢作戦が開始された。
 1945年8月14日にソ連軍がクリル列島に上陸した。

 8月15日に昭和天皇の終戦詔書放送にもかかわらずサハリン、クリルにいた日本軍が戦闘を続けた。

 特に激しい戦闘はソ違軍が1945年8月18日ににシュムシュ島に上陸した時におこなわれた。上陸したソ連軍に対して日本軍が戦車攻撃をおこなった。ソ連量は対戦車ライフル銃、流弾を使用して日本軍の戦車18輌を撃破した。8月19日にシュムシュ島の日本軍の部隊が武器を捨てた。8月25日にソ連軍が戦ってサハリン南部を攻略した。

写真省略

シュムシュ島に撃破された日本軍の戦車



 1945年9月2日に日本は降伏文書に無条件で調印してポツダム宣言を受諾したから、したがってポツダム宣言に言及されたカイロ宣言も受諾している。


日本降伏文書調印、1945年、9月2日




日本降伏文書

 1945年6月26日にサンフランシスコの国連総会で国連憲章が採択された。ソ連がその憲章を1945年7月に批准した。日本は国連加盟の時その憲章を採択した。国連憲章第107条に連合国が敵国に対してとったいかなる行動でも正当化されている。(本件は日本の北部の境界線をソ連に有利に変更された事に関連ある)。

第107条の内容は下記
『この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない』。


 1945年9月3日にソ連閣僚会議議長スターリンはサハリン南部とクリル諸島は今からソ運に帰属するとの表明をした。

 1945年9月4日に連合軍総司令官マッカーサーは第2命令を出した。その命令によって小クリル列島(日本語:色丹、歯舞)を含むクリル諸島は米国第8陸軍が日本軍の降伏を受理する領域から排除された。

 日本政府へ1946年1月29日付け連合軍総司令官マッカーサーの第667号覚書には日本の領土は4主要島嶼とその隣接の約1000小島嶼からなることが規定されていた。この覚書によるとクリル(千島)諸島、あきゆり島、ゆり島、しぼつ島、たらく島を含む歯舞島、しこたん島が日本の領土から除かれた。これが地図でも規定されていた。



図6.連合軍最高司令部第667訓令による日本の領土



 1946年2月2日付けの最高会議幹部会令で、サハリン南部とクリル諸島を当時のロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国のハバロフスク地方のユジノーサハリン州に編入して1947年1月2日付けの最高会議幹部会令でロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国のサハリン州に編入した。

こうしてソ連と日本との間の国境線がラーベルズ海峡、クナシリ海峡、ソビエト海峡で設定された。



図7.第二次世界大戦後の露日の国境線



 1946-1948年にA級戦犯が裁かれた東京裁判(極東軍事法廷)では日本政治の需要要素であったソ連に対する侵略行為の問題が詳細に検討された。

 1951年のサン・フランシスコ平和条約の第2条によって、日本がクリル諸島及び南樺太に対する権利、権原及び請求権を放棄した。

 同条約の第8条によって日本国は、連合国が現に締結し又は今後締結するすべての条約及び連合国がはこれに関連して行う他の取極の完全な効力を承認した。(注1)

 1956年10月19日にの日ソ共同宣言が署名されました。同宣言は両国間の戦争状態を終結させ、平和的・親善的関係を回復させた。それに外交・領事関係も回復させた。ソ連は日本への賠償金請求権を放棄した。同宣言が両国の議会に批准されていて批准書は国連に寄託された。

 同宣言第9粂にしたがって、日ソ両国が正常な外交関係の回復後、平和条約締結交渉を継続することを双方が同意した。

 1956年の宣言において今日本が訴える中クリル、南クリルの島々を含めて全クリル諸島に対するソ連の主権が確認された。

 同時にソヴィエト社会主義共和国連邦は、『日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする』とに事項に同意した。

 同宣言のすべての事項は特定な条件を満たさない限り事実上意向覚書に過ぎないと言う立場をとったソ連邦政府が1960年1月27日にソ連邦は歯舞群島及び色丹島の引き渡しは、日本領土からの全外国軍隊の撤退およびソ連と日本との間の平和条約の締結という条件が満たされる場合可能できるとの日本政府に対する覚書に声明をした。

(注1)
日本がクリル諸島に対する権利を放棄してもクリル諸島に属しないから小クリル列島(日本語:歯舞)を放棄していない主張は事実ではない。日本地理百科事典(1930)の10巻、日本地理地図帳(1936)、海軍省水路部に1937年3月に発行されたサハリン南部および千島諸島の航路図にある地図には歯舞群島またはシコタン島は千島諸島の一部として示されています。


日本が主張するロシア領のクリル諸島の島々
イトルプ
クナシル
小クリル列島
シコタン、アヌーチナ、タンフィーリエフ、ヂョーミナ、ユーリ、
ゼリョーヌイ、パローンスキー、リーシ、シスキ等



 1973年10月10日にソ日共同声明が署名されて同声明に双方は、両国間で平和条約の締結交渉を継続することに合意した。

 露日関係の新しい段階は1990年代に始まった。
 エム・二ス・ゴルバチョフ・ソヴィエト社会主義共和国連邦大統領の1991年4月の訪日の結果としては、1991年4月18日付けのソ日共同声明署名でした。ソ違側は、日本国民とクナシル島、イトルプ島、シコタン島、小クリル列島の住民との間の交流の拡大、日本国民によるこれらの諸島訪問の簡素化された無査証の枠組みの設定、この地域における共同の互恵的経済活動の開始及ぴこれらの諸島に配備されたソ連の軍事力の削減に関する措置を近い将来とる旨提案を行った。同声明においては領土問題に関する双方の立場に食い違いがあることが正式に認められた。

写真省略

ゴルバチョフ・ソ連大統領と日本の明仁天皇陛下、1991年



 同声明に小クリル列島、色丹島の帰属だけでなく国後島および択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しなければならないことも述べられた。


 1992年に色丹島、国後島および択捉島に居住するロシア市民のビザーなし日本への訪問、日本国民のその島へのビザーなし相互訪問が始まった。

写真省略

第一回目のビザーなしロシア訪問団日は北海道に到着、1992年4月22日



 1993年にエリツィン大統領が公式日本訪問の際東京宣言が署名された。
 この東京宣言において日本が要求しているクリル列島がの中に国後、択捉も含まれた。それが1955年の共同宣言と1973年の共同声明と異なり同等の意義がある右の文章には国後、択捉について述べられていない。

写真省略

エリツィン大統領と細川総理大臣が東京宣言の署名
(1993年)




 1998年11月13日に、エリツィン大統領小渕総理は「日本国とロシア連邦の間の創造的パートナーシップ構築に関するモスクワ宣言」に署名した。

 2000年までに平和条約の締結に関する交渉を加速するよう決意を確認したとともに、択捉島、国後島、色丹島及び小クリル群島をめぐる協力の重要が強調されて旧島民及びその家族による右の島島へ訪問の最大限に簡素化実施いわゆる自由訪問の実施について合意も達せられた。
 2000年9月3日−5日間、プーチン大統領が初の日本公式訪問をした。
 森総理との首脳会談を行い、日本の政治界、実務界の有力のある多くの代表とも会談をした。会談の主要方向性はシベリア、極東のエネルギー資源の開発をめぐる露日の協力でした。
 2001年3月25日にイルクーツクにおいてプーチン大統領と森総理との日露首脳会談がおこなわれ、イルクーツク声明に署名。その中に日露両国が今後の平和条約交渉を継続することにあたって平和条約交渉の基本的な法的文書であると認められた1956年の日ソ共同宣言を含む以前に採択された文書に基づくことについて声明が出された。

 2003年1月10日に、モスクワにおいてプーチン大統領と小泉総理との首脳会談が行われ、平和条約締結に関する交渉の中間結果が総括されて、「日露行動計画」が採択された。「日露行動計画」には「両国民の総合理撃を深めることに択捉、国後、シコタン、ハボマイ(文書の表現)の住民と日本国民とのいわゆる自由訪問であるビザーなし相互訪問などの接触が大きく貢献した」ことが指摘された。
 2005年11月22日−25日間、プーチン大統領が日本公式訪問をした。小泉総理大臣との首脳会談が行われた。政治上の問題として平和条約に関する問題とそれに関連ある南クリル諸島の帰属の問題が取り上げられた。
 会談後の記者会見において両国の首脳にその問題に関する協議を継続する旨述べられた。プーチン大統領はモスクワがその問題解決にむけて解決策を見出す用意があると指摘した。

写真省略

プーチン大統領と小泉総理大臣との会談 東京(2005年11月21日)
ロシア大統領報道部の写真


 その訪問はモスクワと東京との間のいくらか摩擦があるにしてもそれが両国間の関係促進にとって克服しがたい阻害にならないことを明らかにした。

 2006年11月18日にはハノイ(ベトナム)においてプーチンロシア大統領と阿部日本総理大臣との会談が行われた。会談の際プーチン大統領は殊に表明したことは下記「両国間の政治関係の状態の評価は一致した。

 両国関係は高いレベルに達したし、われわれは両国間関係、国際問題議事日程について絶えずコンタクトを取っている。平和条約を締結する問題についても、対話を継続しつつ、双方に受入可能な解決策を見出すため、更に精力的に協力していく」。


写真省略

プーチン大統領と阿部総理大臣との会談 東京(2006年11月18日)
ロシア大統領報道部の写真



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