各国の教科書に見るソ連対日参戦


 第2次大戦末期、ソ連は日本に対して宣戦布告し、おもに中国東北部(満州)に駐留していた関東軍を攻略、中国東北部を解放した。この時の状況を関係各国の子供たちはどのように学習しているのか、中学校・高等学校の教科書を比較する。(太字は特に重要な記述です。) 

  



台湾の歴史教科書



第二節 中国と連合国との共同作戦

中国、同盟国の一員となる
 民国三〇年四月、ソ連は日本と中立協定を締結し、日本の南進を促した、六月、ドイツとソ連が戦争を開始し、日本は後顧の憂いなく、ベトナム南部に進駐した。
 太平洋の情勢が緊張し、アメリカは中国に対する援助を増強した。八月、シュノーがアメリカ志願空軍隊(飛虎隊ともいう)を組織し、中国に助力するため中国にきた。アメリカの軍事代表も十月重慶に到着した。日本はアメリカの中国援助を阻止するため、アメリカと交渉したが、決裂した。十二月八日、日本海軍はハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を襲撃した。これによって太平洋戦争が勃発した。
 太平洋戦争の勃発後、わが国は十二月九日、正式に日本に宣戦布告した。同時にドイツ、イタリアに対しても宣戦布告。侵略国家と反侵略国家との境界がはっきりした。前者を枢軸国といい、後者を連合国といい、中国、アメリカ、イギリス、ソ連の四ヵ国を主要国にしていた。ただソ連は日本の敗戦の六日前になってやっと日本に宣戦したのであった。
 三一年一月二日、蒋委員長は連合国の推挙を受け、連合国中国戦線(ベトナム、タイを含む)最高総帥の地位につき、同戦区の連合国の共同作戦を指揮した。中国の単独の対日戦から連合国との共同作戦へと移ったのである。

日本軍の中国戦線での惨敗
 太平洋戦争勃発後、グアム島、香港、フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、ビルマなどが数カ月の間に日本軍によって陥落させられた。英米軍は敗退投降した。
 中国戦線はひき続き日本と戦争をし、さらにビルマに援軍を派遣してイギリス軍チャンシャーの包囲を解いた。民国三一年一月、日本は長沙に進攻したが、六〇〇〇人あまりの死傷者を出し、包囲網をかいくぐって逃走した、英米ニカ国の世論はこれを称賛し、中国がここ五年間日本と単独で戦ってきた苦しみと勇敢さを理解した。

日本の降伏と抗戦の終結
 ドイツ、イタリア、日本の枢軸国で、まずイタリアが西暦一九四三年一民国三二年)九月、降伏した、その次はドイツが一九四五年五月降伏し、日本は孤立無援の状態に陥っていた。七月、中国、アメリカ、イギリスの三カ国がポツダム宣言を発表し、日本に無条件降伏を勧告した。しかし日本は依然持ちこたえていた。八月六日、九日にアメリカの原子爆弾が広島、長崎にあいついで投下され、十四日日本は正式に降伏した。
 日本の降伏の日、蒋主席は声明を発表し、「旧悪は思わず」「人に善をなす」と述べ、日本軍閥のみを敵とし、日本人民を敵とせず、報復を図らないことを述べた。(以下省略)




引用文献

アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東アジア編 越田稜編・著(1990/2) 梨の木舎


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