各国の教科書に見るソ連対日参戦


 第2次大戦末期、ソ連は日本に対して宣戦布告し、おもに中国東北部(満州)に駐留していた関東軍を攻略、中国東北部を解放した。この時の状況を関係各国の子供たちはどのように学習しているのか、中学校・高等学校の教科書を比較する。(太字は特に重要な記述です。) 

  



モンゴルの歴史教科書


第十三章 革命の民主主義的段階における課題の実現(1932〜40年)

第五節 国際情勢の先鋭化とハルハ河会戦

(省略)

第二次世界大戦始まる
 ファシスト=ドイツ・イタリア・日本の帝国主義者などの侵略的な爪によって、ヨーロッパやアジアのかなりの国々がその支配下に入り、血による秩序が確立した。
ドイツのファシストたちは、世界支配の計画をさらに進めるために、一九三九年九月一日にポーランドに侵攻した。このように、主要な資本主義諸国が戦争に参加し、多くの国をまきこんで第二次世界大戦が始まった。
 
ハルハ河会戦始まる
 帝国主義日本は、わが国の国境を連続して侵犯し、一九三九年の五月十一日には、ハルハ河流域で大規模な攻撃を行った。この困難な時期に、モンゴル・ソビエト軍は反撃に出て、日本軍を国境まで退却させた。この戦闘で、日本軍は大きな損害を受けたが、つぎなる戦闘に備えて、モンゴル・ソビエト軍の三倍にあたる戦力を増強した。日本軍は、力の優位性を背景に、七月三日の夜、ハルハ河流域の森林地帯の近くまで進軍し、河を渡って戦闘も行い、翌日には、バヤンツァガーン山を占領し、わが軍を包囲粉砕しようと威嚇した。敵のこの意図を知ったモンゴル・ソビエトの兵士たちは、敵の周囲三方から反撃した。この戦闘においては、L・ダンダルの指揮した騎馬隊、ソビエト軍の一・M・レーミゾフ少佐の指揮した射撃隊、M・P・ヤーコブレフの指揮した戦車隊などの連合部隊が卓越した戦いぶりをみせ、優れた功績を築きあげた。七月四日の夜にわが軍は進撃し、五日の昼、バヤンツァガーン山を解放した。

決戦・大いなる勝利
日本軍は非常に大きな損害をこうむったが、八月にはハルハ河流域にかなり大規模な軍隊と武器を集結させて、モンゴル・ソビエト軍にむけて再進撃する準備をした。
モンゴル・ソビエト軍も指令を出し、後方から第五二・第九二射撃部隊、第一五二射撃部隊のうちの数分隊、第六戦車部隊などを率いてきたので、戦力は敵を上まわるようになった。そして、一九三九年の八月二〇日朝、奇襲攻撃をかけた。このようにして、わが祖国の東部国境地帯でモンゴル・ソビエト軍は、五一〇機あまりの飛行機、約六〇〇門の大砲などの圧倒的な兵力で、幅六〇-八○キロ、奥行二〇-三〇キロの戦線を形成し、共同で大進撃を開始し、敵戦力を撃破した。ハルハ河会戦では、わが国の兵士のなかから勇敢なスパイ機関銃兵ツェンディーン・オルズボイ、ロドンギーン・ダンダル、機関銃兵D・サムダン、政治指導員L・ゲレクバータル、国境守備兵P・チョグドン、S・トゥムルバータルなど十人以上の兵士がモンゴル人民共和国英雄の称号で表彰され、兵団司令長官G・K・ジューコフ、ソビエト軍戦車部隊指揮官M・P・ヤーコブレフ、1・M・レーミゾフ少佐、優秀な飛行士G・P・クラーブチェンコ、S・1・グリツェヴェツ、そしてのちに将軍となったI・I・フェジューニスキなど七三人がソ連邦英雄となり、何千人もの人がソ連政府最高位勲章・メダルで表彰された。
ハルハ河会戦では、日本軍は五万五〇〇〇人が負傷し、六六〇機の飛行機を失い、大量の武器や物質を戦利品として没収された。日本の侵略者たちのもくろんだ戦争を、共同作戦で終結させたことは、モンゴルとソビエトの人民のあいだのゆるぎなく強い友情をさらに強固なものにし、敵に非常に大きな打撃を与え、わが国の独立を守り、そして確固たる国の存在を示した。


第十四章 第二次世界大戦期のモンゴル(一九四〇-四五年)

第四節 軍国主義日本打倒の戦争への積極的な参加

 ファシスト・ドイツがソ連に侵攻した最初の日から、日本の軍国主義者たちは、ソ連とのあいだに結んだ中立条約の違反を始めた。日本は、ソ独戦の過程において日本に有利な戦況になったさい、ソ連に侵攻する準備をしていた。日本軍は、ソ連およびモンゴルとの国境線上に強力な軍事力を集結させた。関東軍の兵力は、一九四二年には一一○万人に達し、全日本軍の三五パーセントを占めた。一九四一年から日本は、中国東北地方に防衛施設をきずき、細菌戦の準備を行い、そして多種の伝染病の病原菌を貯蔵した。
 日本は、ソ日中立条約のモンゴルに関する条項にも違反をしていた。日本は、満州に軍の大部分を集結させると、モンゴル国境方面に軍を配置し、中国・内モンゴルのハローン・アラシャーンや張家口付近に軍の防衛施設を建設し、戦争に必要な鉄道、道路、飛行場をつくった。またわが国への侵攻計画を進めるためにスパイを送って情報を収集し、国境紛争を生じさせていた。
 このような情況のなかで、国防力の全面的強化が急がれていた。一九四〇年から四五年にかけて、国防予算が増大し、国家予算の五〇パーセント以上を占めるようになった。兵力数を三〜四倍増加し、モンゴル人民革命軍を、近代兵器の技術や専門的知識のある経験豊かな戦力で強化した。さらに、軍組織を良質にし、軍内部の党・政府活動を向上させるなどの面においても、さまざまな方策がとられた。人民軍参謀本部は、装甲戦車部門、大砲指揮部門、空軍指揮部門、軍医療指揮部門、そして家畜医療指揮部門などの、専門的軍事活動を指揮する部門を特別に編成した。
 困難な状況にありながらも、ソ連はわが国の独立を守るために多大な援助を行い、モンゴル側の希望で特別な軍隊をわが国の領土内に駐留させ、日本の侵攻からモンゴルを守っていた。ソ連は多くの経験豊かな学生をモンゴルに送りこみ、人民革命軍の戦闘装備を向上させるための援助を行っていた。その結果、モンゴルの国防力は強化され、わが人民軍は、近代的な自動小銃、臼砲、大砲、そして飛行機などの新しい技術を装備することができた。
 一九四二年には、「人民義勇騎馬隊」が創設された、十人部隊、百人部隊、千人部隊、一万人部隊から組織されたこの騎馬隊は、労働者人民の支持を受け、何万人もの規模の広範な組織となった。戦時の重要な時期には、全人民・軍隊のための食料品、物資の貯蔵も行われた。
 一九四四年から四五年にかけて、ソビエト赤軍はソ連領土をファシスト侵略者から全面的に解放しただけでなく、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、チェコスロバキア、そしてオーストリアを解放し、さらにドイツ領内に侵攻してヒトラーの侵略者たちを粉砕し始めた。
 一九四五年の五月八日、ファシスト・ドイツが降伏文書に署名し、九日にはその戦勝の祝典が催された。ソ連・ソビエト赤軍が戦争において名誉ある行為をなし、そして決定的勝利を得たことにより、ヨーロッパでは戦争が終結し、平和が確立した。ファシスト・ドイツを粉砕したことは、第二次世界大戦を終わらせるための戦闘の決定的勝利となったのである。
 ヨーロッパで戦争が終わったとき、東方では日本が連合国との戦争を続行していて、無条件降伏の要求を固く拒んでいた。日本軍国主義勢力を粉砕しないかぎり、第二次大戦は終わらなかった。この時期、ソ連、アメリカ、イギリスの三大国により一九四五年に行われたヤルタ、ポツダムの両会談において採択された協定にしたがって、一九四五年八月九日にソ連は日本に宣戦布告した。
 モンゴル人民共和国小ホラル幹部会構成員と閣僚会議は、一九四五年八月十日、モンゴルが日本に宣戦布告したとの声明を発表した。

 モンゴルは、日本に宣戦布告すると、自国の安全を確保し、独立をさらに強固なものにした。かつ、日本と交戦状態に入ったソ連とは相互援助議定書を結んでいるので、その任務を実行するために日本軍国主義を粉砕し、日本の独裁支配から他国の人民を解放し、そして極東において平和を確立するというソ連の崇高な諸行動を援助することに務めた。
 対日戦において、モンゴル人民革命軍は、Kh・チョイバルサン元帥の指揮のもと、R・Ya・マリノフスキー元帥の指揮するザバイカル戦線軍とともに、中国・内モンゴルのドロンノールと熱河(承徳)、張家口の二方面に進軍した。戦争が始まって一週間のうちに、モンゴル軍は四五〇キロ進軍し、ドロンノールなど多くの町や村落を解放した。張北市を解放した数部隊は、張家口の日本軍防衛施設を、八月十九日から二一日にかけ、激しい戦闘のすえに占領した。
 内モンゴル、バルガ地方、そして中国の解放された地域の人民は、ソビエト・モンゴル軍を熱く歓迎し、喜びと感謝の意を表わしていた。対日戦において非常に勇敢に戦ったわが軍の兵士の中から、張家口の戦闘でのL・アヨーシ、D・ダンザンワンチク、S・ダンピルなどのモンゴル人民共和国英雄が輩出した。L・アヨーシは、戦場で十一回も負傷したにもかかわらず、敵と勇敢に戦って名誉ある任務を遂行し、祖国のために熱き命をおとした。
 対日戦においては、モンゴルの八万の兵士が参戦し、凹凸の激しい地帯を九〇〇キロ以上進軍し、士官や兵士が二〇〇〇名以上戦死し、さらに約二億五〇〇万トゥグリクにあたる物資の損害をうけつつ、勝利をきずきあげた。
 一九四五年の九月二日に、日本は降伏文書に署名した。モンゴル人民共和国小ホラルの幹部会構成員たちの決定にしたがって、九月三日を対日本軍国主義戦勝記念日とし、祝賀が催された。
 日本軍国主義を粉砕するさい、ソ連はその中心的役割を果たした。ソ連が、日本軍の主要な戦力であった関東軍を撃破したことは、日本の侵略者を粉砕する決定的勝利であった。日本軍国主義を撃破したことによって、第二次世界大戦は終結し、平和が確立した。
 数十年にわたってわが国の独立を脅かし、モンゴル人民共和国の発展の大きな障害になっていた日本帝国主義を粉砕したことによって、モンゴルの独立を強固なものにし、安全を保障し、そして平時の社会主義建設を推進するための平和な時代の幕が開かれた。




引用文献

アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東アジア編 越田稜編・著(1990/2) 梨の木舎


各国の教科書に見る対日参戦タイトルページへ  千島列島のロシア領有のページへ 

詳しい北方領土問題の話の先頭ページへ       北方領土問題の先頭ページへ