各国の教科書に見るソ連対日参戦


 第2次大戦末期、ソ連は日本に対して宣戦布告し、おもに中国東北部(満州)に駐留していた関東軍を攻略、中国東北部を解放した。この時の状況を関係各国の子供たちはどのように学習しているのか、中学校・高等学校の教科書を比較する。(太字は特に重要な記述です。) 

  



香港(返還前)の歴史教科書


太平洋におけるアメリカ軍の攻勢・一九四二〜四五年
 太平洋戦争勃発当初、日本の征服は迅速かつ大規模であった。しかし、日本の物質的生産能力は、アメリカと比べるとかなり劣っていた。日本は水兵やパイロットの勇気や手腕を重視していた。日本は、海軍が石油や弾薬の備えを使いきってしまう以前に、アメリカに対して太平洋での決定的勝利を勝ちとり、自国に有利なかたちで講和への交渉をとりつけようと計画していた。そうであればこそ、日本は、アメリカ太平洋全艦隊の賦滅にやっきになっていたのである。
 一九四二年六月、日本海軍は残存するアメリカ艦隊を全滅させるためにミッドウェー島に進路をむけた。その戦闘は航空母艦で行われた。日本軍には効果的なレーダー装置がなかったので、形勢は非常に不利であった。アメリカ軍パイロットは奇襲攻撃をして、四隻の日本の最高の航空母艦を爆沈させ、何百機もの飛行機をうち落とし、多数の優秀なパイロットを死亡させた。日本海軍は前進能力を失ってしまった。日本の空母艦隊が再編されたころには、アメリカ海軍には、すでに強力な艦隊ができあがっていた。
 一九四四年、アメリカ軍は、日本本土爆撃に必要な空軍基地を確保するため、太平洋にある日本軍が進駐していた島々へ二度にわたって大攻撃を行った。この奪回戦は、日本軍が最後のひとりになるまで戦うことが多かったので、両国に多数の犠牲者がでた。アメリカ軍が次々と島を奪回するにしたがい、日本本土はアメリカ軍戦闘機の爆撃可能な範囲に入ってきた。アメリカ軍が日本の都市に組織的な爆撃を行い始めたとき、日本の敗北はもはや避けられなかった。しかしヒトラーのような日本の軍国主義者たちは、降伏しようとはしなかった。連合国軍の前進を遅らせる最後の手段として、十代の少年たちに捨て身の攻撃でアメリカ戦艦に体当りさせるための飛行訓練が行われた。
 日本軍が最後のひとりまで戦うだろう、ということは明らかであった。アメリカは、もし日本本土上陸を始めたならば、幾万もの死傷者を出すだろうと予測した。そのためアメリカは、この時まで日本と不可侵条約を結んでいたソ連に、ドイツ敗北後には日本に参戦するよう了解を求めた。しかし、結局、連合国のうち一カ国も日本本土に上陸することはなかった。


原子爆弾投下と日本降伏・一九四五年八月
 原子爆弾の実験が成功したことが判明したとき、アメリカは、もし日本が無条件降伏をのまないのならば、秘 密兵器を使用するだろうと、日本に警告した。しかし日本は、条件つきでしか降伏しようとはしなかった。一九四五年八月六日、アメリカは、工業地帯であり軍港でもある広島に最初の原爆を投下した。たった一個の爆弾が瞬時にして六万の人を殺し、一〇万の人を傷つけた。数多くの人が十年、二〇年、さらに三〇年へて放射能の影響で死亡した。二日後の八月八日、ソ連が日本に宣戦布告し、満州に入ってきた。翌日すなわち一九四五年八月九日、アメリカは二つ目の原子爆弾を、やはり重要な軍港である長崎に投下した。都市は壊滅し、住民が多数殺された。日本の天皇はみずから決断し、連合国に降伏した。第二次世界大戦は終結した。





引用文献

アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東アジア編 越田稜編・著(1990/2) 梨の木舎


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