各国の教科書に見るソ連対日参戦


 第2次大戦末期、ソ連は日本に対して宣戦布告し、おもに中国東北部(満州)に駐留していた関東軍を攻略、中国東北部を解放した。この時の状況を関係各国の子供たちはどのように学習しているのか、中学校・高等学校の教科書を比較する。

  


イギリスの歴史教科書


(イギリスの高校生用教科書です)


 一九四五年七月、トルーマンがポツダム会議に参加していたとき、彼は、アメリカが日本に対して首尾よく原子爆弾を使用できるであろうと考えていた。トルーマンは、イギリスと中国、そして日本と戦っている他の主な国の指導者たちの意見を仰いだのち、日本政府に対して共同で最後通牒を突きつけた。

 日本国の主権は、彼らの島々に局限せらるべし。日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたるのち、各自の家庭に復帰し……。われらは、日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざる。
 日本国国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立せらるるにおいては、連合国の占領軍は、ただちに日本国より撤収せらるべし。
 われらは、日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言することをし、同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす。

 最後通牒の最後の文章にある「迅速かつ完全なる壊滅」という言葉が、実際になにを意味しているのかは暖昧である。日本政府はこの最後通牒を拒否した。そしてそのあとすぐに大変な惨事が日本に起きることになった。一九四五年八月六日、アメリカの航空機が広島に原子爆弾を投下し、町を完膚なきまでに破壊し、何万人という死者を出した。八月七日、ソ連は日本に宣戦を布告した。これによってソ連は、スターリンのヤルタ会談での約束を果たした。八月九日、長崎に二つ目の原子爆弾が投Fされた。その影響は三日前の広島に匹敵するものだった。日本の抵抗ももはやここまでで、これから数日後、日本政府は降伏を発表した。


 広島と長崎での恐怖のできごとののち、アメリカが原子爆弾を使ったことがどこまで正当化できるか、について議論が続けられた。当時、アメリカとイギリスでは、少なくとも日本との戦争を終えるには原子爆弾しかなかった、という歓迎の見方が大勢を占めた。ただし、原爆の威力の全容がしだいに明らかになるにつれ、彼らも結果に満足したとはいえ、そこには恐怖感も混じった複雑なものもあった。日本との戦争が続いた場合に出たであろう連合国の多くの死者を原爆が救った、という指摘もなされた。一方、アメリカ政府が放射能降下物がもつ影響を完全には理解していなかったことも事実だった。しかし、あれほどまでに徹底的な破壊が必要であったのか、やはり疑いの余地がある。事前に決定していたソ連の参戦によって、太平洋戦争の終結は速まったと思われる。さらに、二つの人口密集都市を壊滅させる必要は実際なかった。



引用文献

ヨーロッパの教科書に書かれた日本の戦争  越田稜編・著(1995/10) 梨の木舎


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