各国の教科書に見るソ連対日参戦


 第2次大戦末期、ソ連は日本に対して宣戦布告し、おもに中国東北部(満州)に駐留していた関東軍を攻略、中国東北部を解放した。この時の状況を関係各国の子供たちはどのように学習しているのか、中学校・高等学校の教科書を比較する。(太字は特に重要な記述です。) 

  


ロシア沿海州の歴史教科書

日本との戦争


太平洋戦争の開始



 1941年末までに、日本は太平洋での作戦行動の準備を完了した。その年の12月7日、日本の航空隊の不意の攻撃が、ハワイ諸島のアメリカの主要な海軍基地真珠湾に襲いかかった。アメリカ太平洋艦隊の艦艇19隻すべてが大損傷を受けた。錨地に仮停泊中の8隻の主力艦のうち、無事に残ったものは1隻もなかった。とりわけ巡洋艦3隻と空母1隻が大きな損傷を受けた。飛行場では188機iの航空機iが破壊された(日本の損失は、航空機29機、潜水艦6隻であった)。約2500人のアメリカ軍人と数十人の民間住民が死亡した。
 第二次世界大戦は、太平洋の戦場に広がった。1942年5月までに、日本軍部隊は香港、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ビルマ、タイを占領し、インドとオーストラリアに迫った。日本の侵略は、ファシスト・ブロック諸国の"新世界秩序"樹立計画の構成部分であった。


ソ連の対日参戦

 ソ連軍とその同盟諸国とによるヒトラー・ドイツの粉砕は、アジアと太平洋における、日本軍部の目論見の完全な破綻を意味していた。1945年4月には、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、夏までにフィリピン、インドネシア、インドシナの一部が解放された。
 すでに1945年4月には、ソ連は日本との中立条約の廃棄を通告しており、同盟国の責務とポツダム会談の決定を履行しつつ、8月8日、自国を日本と戦争状態にあると宣言した。
 1945年8月9日夜、三方面軍の部隊による戦闘行動が始まった。ザバイカル・満州戦線では、R・Ya・マリノフスキー(R.Ya.Malinovskij)元帥指揮下のザバイカル方面軍部隊が進撃し、プリアムーリエ戦線では、M・A・プルカエフ(M.A.Purkaev)上級大将指揮下の第二極東方面軍部隊が、そしてプリモーリエ戦線では、K・A・メレツコフ(K.A.Meretskov)元帥指揮下の第一極東方面軍部隊がそれぞれ攻勢に出た。第一極東方面軍部隊は、グベロヴォ、レソザヴォーツク、ハンカ湖、ラズドーリノエ、バラバシなどのプリモーリエの領域から直接進撃していった。沿海地方の領域には、第9航空軍と第10機甲部隊も基地を構えていた。
 陸軍の作戦行動は、I・S・ユマシェフ(I.S.hmashev)提督指揮下の太平洋艦隊とN・V・アントーノブ(N.VAntonov)海軍少将指揮下のアムール艦隊の艦艇に援護された。
 極東における作戦行動の全体の指揮は、ソ連邦元帥A・M・ワシレフスキー(A.M.Vasilevskij)が執っていた。
 陸軍の主要な戦略課題は、関東軍の分断と殲滅にあったため、三方面軍のすべてによる同時攻撃が行われた。


戦闘行動の経過

 すさまじい攻撃が関東軍に集中し、敵軍は破局に瀕した。それとちょうど時を同じくして、太平洋艦隊が、雄基、羅津、清津、魚大津、元山の朝鮮の諸港への上陸作戦を開始した。8月10日、日本政府は、ポツダム宣言の受諾と降伏への同意について、同盟列強に通知し、関東軍は秘密文書の破棄命令を受け取ったが、軍事的抵抗の中止命令は来なかった。流血の戦いが続いた。
 とりわけ、重要な工業中心地で交通の要衝にある牡丹江をめぐっては、執拗な戦いが繰り広げられた。この町を防衛していた日本の第五軍の激しい抵抗を排除し、これを撃滅したソ連軍は、8月16甘に町を支配下に置いた。この戦闘による第五軍の損失は4万人(その構成員の3分の2)に達した。
 関東軍の降伏を早めるために、奉天(現在の瀋陽)、長春、吉林の北東中国の大都市には、同時に空挺部隊が投入された。8月20日にはアムール艦隊の艦艇が、ハルビンで陸戦隊を上陸させ、それから2日後には、ボルト・アルトゥールとダーリニイで空挺部隊を降下させた。さらに8月24日には、第一極東方面軍の空挺部隊が平壌の町を占領した。
 9月の初めまでに、ソ連軍は北東中国と北朝鮮の解放を達成した。
 露日戦争後に失われた南サハリンの、ソ連邦への返還と、クリル列島の引き渡しは、同盟国がソ連の対日参戦の条件を取り決めたヤルタ会談(1945年)の決定によって規定されていた。
 8月11日、南サハリン解放のための攻撃と上陸作戦が開始された。結局、敵軍の大きな集結が粉砕され、司令部と統治機関共々、1万8000人以上の将兵が捕虜となった。
 クリル列島には、敵軍のかなりの兵力(8万人以上)が集結させられていて、とりわけ占守島の守備隊は強化されていた。6日間の戦闘の後、8月23日、島は完全にソ連軍によって占領された。1945年9月までに、クリル作戦は完遂された。
M・ヤンコ(MikhailYanko)、M・ツカーノヴァ(MariyaTsukanova)、Ya・バリャーエフ(YakovBalyaev)、M・クルゥイギン(Mikha1Krygin)、P・イリイチェフ(pyotrIhchev)、ニコライ・ヴィルコフ(Nik・lajV且kov)、その他多くの太平洋艦隊乗組員戦士たちは、日本との戦闘において名声を挙げた。


日本の降伏

関東軍と島々の集結軍の撃滅は、日本の降伏を早めた。1945年9月2日、日本の降伏文書が調印された。ソ連邦を代表してK・N・ヂェレヴャンコ(K.N.Derevyanko)中将が降伏文書に調印した。
日本の降伏によって、第二次世界大戦は終結した。1946年5月3日、東京で国際裁判所会議(極東国際軍事裁判)が始まった。2年半後には、アジアと太平洋において戦争を開始した日本人戦犯に、厳しい判決が下された。


引用文献

ロシア沿海地方の歴史 ロシア沿海地方高校歴史教科書 世界の教科書シリーズ
  ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古・民族学研究所/編 村上昌敬/訳    
  明石書店 2003.6


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