日露関係ゆかりの地

北海道 根室市


根室は日露交渉の歴史的な場所です


シパンベルグ上陸(1739年)



 アメリカ北西部を探検したベーリング隊の別働隊だったシパンベルグは、1738年、千島列島を探検、ウルップ島沖に到達した。さらに翌1739年には再び千島列島を南下、仙台および千葉県沖に到達し、日本人と交流した。帰路、7月には、色丹島と思われるに上陸、さらに北海道にも上陸した。上陸場所は不明であるが、野付半島と思われる。

 写真は野付半島の先端付近にある灯台。これより先は一般車両乗り入れ禁止。


 



シャパーリン来航( 1778年)



 1778年、国後島の首長ツキノエの案内で、ロシア人シェパーリンは根室半島ノッカマップ・アッケシに来航、更に翌年も来航し、通商を求めて松前藩と交渉した。松前藩は「国策により通商はできない、長崎に行ってくれ」と回答し、通商交渉は失敗した。

 写真はノッカマップ川河口付近。

こちらの写真は、ノッカマップ灯台付近。


ラックスマン来航(1792年)




ラクスマン入港を記念するモニュメント


1792年ラクスマンが根室港に入港し、弁天島にしばらく滞在した。
根室市庁舎の隣にある公園には、ラクスマン入港を記念する大きなモニュメントがある。
モニュメントの脇には、説明の石板があり、次のように刻まれている。

歴 史 の 然
池田 良二 制作
1792年10月20日ロシアから最初の遣日使節アダム・ラクスマン一行が、漂流民大黒屋光太夫ほか2名の送還と、
我が国との通商を求め、帆船エカテリーナ2世号で根室に入港した。
日本国とロシア国との通交・通商交渉は、実にこのアダム・ラクスマンの根室来航から始まった。
この歴史的事実を誇りとし、未来へ永く伝えるため、記念碑「歴史の然」をここに建立する。
1994年10月20日 根室市長



弁天島


高田屋嘉兵衛像


  根室市金比羅神社に立つ高田屋嘉兵衛の像。

 高田屋嘉兵衛は1799年にエトロフ島航路を開き、これが、日本のエトロフ島支配に繋がった。クナシリ島とエトロフ島の間は海流が速いため、日本の船で渡ることは相当な危険を伴ったが、高田屋嘉兵衛は大きく迂回することで、日本の船でも、安全にクナシリからエトロフに渡ることに成功した。

 なお、ロシアの大きな船だと、それほど困難なく航海できたし、アイヌも小さな船で、行き来していた。江戸時代、幕府の鎖国政策のため、外洋に漕ぎ出す十分な性能の船の建造が禁止されていたので、日本の船ではクナシリ島とエトロフ島を直線的に渡ることは困難だった。
 

 ゴローニン事件
 1811年、千島列島を測量していたロシア船ディアナ号艦長ゴローニンを、幕府は偽計により逮捕し、監禁した。翌年、ディアナ号副艦長のリコルドは日本人漂流民を使者として再び来日し、ゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、日本側はゴローニンらを処刑したと偽り拒絶した。
 このため、リコルドは高田屋嘉兵衛を国後島沖で拿捕、ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行した。1813年、帰国した嘉兵衛は、ロシア側に侵略の意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力した。






上武佐ハリストス正教会

 千島列島に進出したロシアは正教を布教し、千島の内国化を図った。エトロフ島を最初に探検した最上徳内は、既に、エトロフ島にはロシア正教を信仰するアイヌが多数いることを確認している。その後、エトロフ島を訪れた近藤重蔵はアイヌから十字架などを取り上げ、正教の信仰を厳しく禁じた。
 ウルップ島以北の千島には日本の勢力はおよんでいなかったので、正教を信仰するものが多数存在していた。樺太千島交換条約で全千島が日本の領土になると、正教信者の多くはロシアに移住したが、占守島に居住し正教を信仰してた千島アイヌ100人ばかりの者は、占守島を去りがたく、日本国籍を取得して、これまで通り居住を続けることとなった。
 しかし、日本政府は、彼等がロシアに通謀することを恐れ、シコタン島に強制移住させた。占守島に移住させられたアイヌ達は、慣れない土地で、次々に死亡したが、彼等の心のよりどころは、ロシア正教への信仰で、当時、根室正教会の小松神父、桜井神父らが巡回・伝道した。その後、根室正教会は衰退し、上武佐正教会が根室正教会を吸収する形となり、千島と深い関係を持った。




納沙布岬に立つ『魯西亜船エカテリーナ號到来の地』碑



貝殻島の昆布

 北方領土・歯舞群島の貝殻島産昆布は、ロシアに協力金を支払いロシアの許可を得た上で、根室の漁船が漁を行う。




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