「千島」概念の変遷
江戸時代以前の日本の認識 日本の北方は「蝦夷」であり、蝦夷にはたくさんの島があるという意味で、「千島」「蝦夷ヶ千島」と呼んでいた。 「蝦夷」とは、華夷思想に基づく異民族の呼称。 |
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18世紀前半のヨーロッパの認識 マトマエ島(北海道)を含めて、「クリル」と呼んでいた。 |
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19世紀、始め頃 カムチャツカから北海道の間にある島々をヨーロッパでは「クリル」と呼んでいた。 日本では、「クリル」と「千島」は同じものとしていた。 ハボマイ、シコタンが千島に入るか否かは定かでない。そのような厳密な呼び名ではなかった。 江戸時代、北海道は「和人地」「蝦夷地」に分けられていた。最初、和人地は松前城下周辺の狭い地域だったが、徐々に範囲を拡大し、1800年代になると、西海岸は「熊石」以南、東海岸は「野田追」以南と、渡島半島全域にまで拡大した。 和人地は、松前藩の完全支配下にあったが、蝦夷地は松前藩の充分な支配下にあったわけではなく、独自にロシアとの交易を行っていた地域もある。 |
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1855年、下田条約(日露修好条約)の結果、エトロフ島とウルップ島の間に、日露の国境が引かれた。すなわち、エトロフ島は日本の領土、ウルップ島と北にあるその他のクリル諸島はすべてロシアの領土となった。 樺太は、日露の国境が定められず、日露混住の地であった。 明治2年8月15日、蝦夷地は北海道と称されるようになった。北海道は11カ国に分割した。クナシリ島と択捉島は千島国とし、次の五郡が置かれた。国後・択捉・振別・紗那・蕊取。 <参考> 北海道庁HPの解説に、以下の記述がある。 ○いつから「北海道」という名称(めいしょう)になったのですか? 明治(めいじ)2年(1869)です。8月15日の太政官布告(だじょうかんふこく)で、「蝦夷地(えぞち)自今(いまより)北海道ト被稱(しょうされ)十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出(おおせいだされ)候(そうろう)事」と周知されました。 この布告の出される以前は、「蝦夷(えぞ)が島」「蝦夷地(えぞち)」などと呼(よ)ばれていました。「蝦夷」とは、華夷思想( かいしそう)に基づく異(い)民族の呼称(こしょう)です。したがって、「蝦夷地」とは「異民族の住む地」ということになります。 日本には、北の境の概念(がいねん)が希薄(きはく)だったのですが、江戸(えど)時代後期以降(いこう)、ロシアの進出に伴(ともな)って意識せざるをえなくなりました。いつまでも「蝦夷地」ではいけないので、新名称をつけるべきであるという意見は、江戸時代末期から多かったようです。しかし、それが実現したのは明治になってからのことでした。これにより、北海道が日本の版図(はんと)であることが、内外に宣言されたのです。 |
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1875年(明治八年)、サンクトペテルブルグ条約(千島樺太交換条約)の結果、樺太はロシア領となった。かわりに、クリル諸島のうちロシア領のグループだった島々は日本領となり、その結果、全クリル島は日本領、となった。 サンクトペテルブルグ条約は批准は8月22日、11月10日布告。 この条約により、1855年の下田条約の国境条項は失効した。 ウルップ以北が日本領となった直後は、その地に、日本の行政上の区分たる名称は付けられていないので「クリル諸島」と呼んでいた。左の地図は、半年ほど使われた過渡期の呼称を示している。 |
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1876年(明治9年)1月14日、シュムシュ島からウルップ島までを千島国に編入、得撫(ウルップ)・新知(シムシル)・占守(シムシユ)の三郡を置いた。 (布告第弐号)) (色丹島・ハボマイ群島は根室国)。 |
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1885年(明治18年)1月6日、色丹島を「千島」に編入した。 (明治18年布告第壱号) 根室県下根室国花咲郡ノ内「シコタン」島自今千島国へ編入色丹(シコタン)郡ト称す ()はルビ |
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1905年、ポーツマス条約により、南樺太は日本領となった。この条約により、サンクトペテルブルグ条約の樺太北海道間の国境条項は失効した。 千島に変更はない。 |
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1945年8月9日、ソ連対日参戦。8月11日には当時日本領だった南サハリンに侵攻、18日には千島列島に侵攻開始。ソ連が北方4島を占領するのは、8月28日から9月3日です。(9月5日とする説もあります。) |
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1946年1月29日、GHQは日本の行政区域を定める指令(SCAPIN-677)を出す。この指令により、日本は、ハボマイ・色丹を含む全千島の行政権を失う。 左の図は、GHQ指令の中に現れている島の名前 |
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1951年、サンフランシスコ条約により、日本は南樺太・千島列島の領有権を放棄する。 アメリカ代表は演説の中で、「"Kurile Islands"という地理的名称がハボマイ諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。ハボマイを含まないというのが合衆国の見解であります」との発言をしている。 ソ連代表グロムイコは「樺太南部、並びに現在ソ連の主権かにある千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地のないところ」であるとの発言をしている。 (このとき千島の範囲に変更が加えられたわけではない。米国政府の認識を説明するために、ハボマイをソ連領とは異なった色をつけて書きました。) |
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1951年、サンフランシスコ条約受諾演説で、吉田茂全権は国後・択捉を千島、歯舞・色丹を北海道と発言している。 『千島南部の二島、択捉、国後両島(英訳ではEtoroff and Kunashiri of the South Kuriles)』『北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島(英訳ではislands of Habomai and Shikotan, constituting part of Hokkaido)』 また、『千島列島及び樺太南部は、一方的にソ連領に収容』『色丹島及び歯舞諸島も、ソ連軍に占領されたまま』と、異なった表現をした。 図の中の名称は、吉田茂全権が演説の中で使った用語を示している。 1951年10月、衆議院で、西村熊雄外務省条約局長は、放棄した千島列島に南千島(国後・択捉島)も含まれるとの答弁。同じ答弁の中で、歯舞群島・色丹島は北海道の一部であり千島に含まれないとの趣旨の発言。 (このとき領有権や千島の範囲に変更が加えられたわけではないが、日本政府の認識を説明するために、ハボマイ・シコタンをソ連領とは異なった色をつけて書きました。) |
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1956年2月11日、衆議院外務委員会で、森下國雄外務政務次官は、クナシリ・エトロフはサンフランシスコ条約で日本が放棄した千島に含まれないと答弁。 (このとき領有権や千島の範囲に変更が加えられたわけではないが、日本政府の認識を説明するために、ハボマイ・シコタン・クナシリ・エトロフをソ連領とは異なった色をつけて書きました。) 日本政府の四島返還要求はいつから起こったのだろうか。 1955年12月7日衆議院予算委員会で鳩山首相は「今日もどれだけの島をとらなければいけないということは、私は知らないのですが、とにかく外務省において適当にやっておる」と答弁している。2日後、12月9日の衆議院予算委員会で、中川(融)政府委員は「日露間の協定に基くクーリール・アイランズには南千島は入っていない」と答弁。更に翌日、12月10日、重光外相は「ソ連に対しては、日本の固有の領土、いまだかつて問題に従来なったことのない領土については、国交回復の際にこれは返してもらいたい、こういうことは日本の主張としては私は正しい主張じゃないか、こう思います」と答弁。 以上のことから、1955年12月7日は四島返還論は政府内で決まっていない、12月9日は、ほぼ間違いなく四島返還論になっている、12月10日には明白に四島返還論になっている事が分る。(ただし、外交は交渉ごとなので、外務大臣重光葵がこの段階で四島返還要求に固執していたとは考えられない。) |
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1961年10月3日、衆議院予算委員会において池田総理大臣は、ウルップ以北が千島であり、南千島などは存在しないと答弁。自己の政治目的のために、過去の歴史や地理上の常識を無視して行われた政治的答弁だった。 日本政府は、このときの政府答弁を現在にいたるも踏襲しているので、日本政府の定義では、千島列島はウルップ以北のことになった。 では、国後・択捉は千島列島か、それとも、日本列島になったのか。地理上の日本の名称は不明である。 広辞苑第5版(現行版)では、千島列島を国後島から先としている。左図の千島列島は、政治的になされた特異な定義である。 なお、1955年12月10日衆議院外務委員会において、重光外相は、サンフランシスコ条約で放棄した「千島」とはウルップ以北と説明しているが、この説明では国後・択捉は「南千島」と呼んでいる。 海外ではこれらの島々はKurile Islandsである。(サンフランシスコ条約で日本が放棄した地域はKurile Islandsであるので、千島列島の定義をどのように変更しても、条約解釈に変更は生じない。) (このとき領有権や千島の支配に変更が加えられたわけではない。現実の支配権にしたがって色分けしています。) |
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参考 最近の検定教科書地図 (日本だけの特異な地図) ウルップ以北の千島列島と南樺太は「白色」になっていることがおおい。左図では、見やすいように、薄い黄色にしています。 現在、日本の教科書地図では、以下のように記載する事が義務付けられており、異なった記載は検定不合格となる 『国後・択捉・歯舞・色丹は日本領とする。南樺太、ウルップ以北の千島は帰属未定とする。』 千島列島の範囲は、なんとなくウルップ以北になるように記載されているが、このような記載が義務なのかどうかは知らない。 注意)このような地図は日本以外の地図には、ほとんど存在しない。日本だけの特異な地図である。なお、日本の地図でも、学校教科書地図でない地図には、このような記述になっていないものが多数存在する。 |
色について
赤色:ロシア領、あるいはソ連領
青色:日本領
桃色:日露国境が定まっていない地域
緑色:日露の権力が共に及んでいない地域。
あるいは、ソ連・ロシアの支配地域であるが、日本等が異議を唱えている地域を説明のために色を変更したもの。
灰色:北方領土問題と関係ない地域のため、色分けしていない。
千島列島に置かれた国・郡
根室国(根室支庁)
花咲郡(ハボマイ群島)
千島国(根室支庁)
色丹郡(シコタン島)
国後郡(クナシリ島)
得撫郡(ウルップ島、チリホイ島、ブロトン島)
新知郡(シムシル島、ケトイ島、ウシシル島、ラシュワ島、マツワ島、ライコケ島)
占守郡(シャスコタン島、チリコタン島、エカルマ島、ハリムコタン島、オネコタン島、マカンルシ島、シリンキ島、ホロムシロ島、アライド島、シュムシュ島)
千島国(紗那支庁)
振別郡(エトロフ島)
択捉郡(エトロフ島)
紗那郡(エトロフ島)
蘂取郡(エトロフ島)
年 | 事項 |
1869年8月15日 | 近代行政区域開始。北海道設置。 道内には11カ国86郡が設置された。千島国には五郡が設置された。 |
1876年1月14日 | シュムシュ島からウルップ島までを千島国に編入、得撫・新知・占守の三郡を設置 |
1882年2月8日 | 北海道開拓使を廃止し、函館・札幌・根室の3県を置く |
1885年1月6日 | 根室国花咲郡の内「シコタン」島を千島国へ編入し色丹郡設置 |
1886年1月26日 | 3県を廃止し、北海道庁を設置 |
1897年11月2日 | 支庁設置 道庁官制改正により郡役所を廃止し19支庁を設置。 千島は択捉島を除いて根室支庁の管轄となる。択捉島は紗那支庁。 |
1903年12月 | 紗那支庁を根室支庁に合併 |
1923年4月1日 | 1923年3月末日を持って、振別郡は択捉郡に合併 |
ちょっとわき道:なぜ「北海道」と言うのでしょう。
「北海道」の名付け親は松浦武四郎です。明治2年7月17日、彼は「道名の義につき意見書」を政府に提出しています。このなかで、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6つが提案されています。このうち、「北加伊道」「海北道」の折衷のような形で「北海道」が選ばれました。
松浦武四郎の第六案は千島道でした。明治初年の段階では、北海道も千島の一部との認識があったのです。
千島列島の島名