正保御国絵図


正保御国絵図

 1644年(正保元年)、幕府が諸藩から提出された、国絵図に基づいて作成した日本総図。松前藩が幕府に提出した地図は残っていないが、北方部分は、松前藩の提出した地図を元に作成しているので、松前藩が提出した地図とほとんど違いないと推定される。
 松前藩は1635年に藩士をサハリン島に上陸させ、現地を調査しているので、このころの知識をもとに作成されたものと考えられる。

 この地図の東部には千島が描かれており、クナシリ・エトロフと見られる名前も書かれている。しかし、北海道東部に小島が固まって描かれていて、島の大きさや位置関係はほとんどでたらめである。この地図が、交易相手のアイヌの伝聞からまとめたものである事は明らかである。しかも、そのアイヌ自身、千島を知らず、伝聞を語ったに過ぎないものと推定される。
 この地図からは、日本の権力がこの当時千島に全く及んでおらず、日本人の千島への渡航もなく、さらに、日本と千島の直接交易も始まっていない事が読み取れる。




 地図の出来栄えは、当時の地図作成技術によって、大きく変わるため、現代の地図と単純に比較して、当時の地理認識を理解することはできない。

 この正保御国絵図を見ると、東北地方北部が描かれている。南北に比べて、東西が少し幅広になっているが、下北半島・津軽半島など、それなりに、正しく描かれている。東北地方北部の上に、赤茶色で島のようなものがあるが、この、南の方に「松前」と書かれているので、これが北海道を表していることがわかる。松前と津軽半島を見ると、松前の位置が少し東にずれているが、距離は、津軽半島の大きさとの対比で、おおむね正確である。

 正保御国絵図が描かれた当時、北海道の和人地(日本人が住む地域)は、松前半島を中心とする狭い範囲だった。正保御国絵図を見ると、東北地方や松前半島近辺は、それなりに正確に描かれているので、地図作図技術は、ある程度、高度だったことがわかる。ところが、蝦夷地(アイヌなど日本人以外の民族が住む地域)や千島と思える島々の表示は、ほとんど現実離れしているほど、小さい。

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 日本全図をみると、北海道以外は縮尺がかなり正確である。しかし、北海道は渡島半島の先端部以外、著しく小さい。

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 (左図は、「国絵図の世界(国絵図研究会)」より)


正保御国絵図を現在の北海道地図に重ねてみると…


 この図は、東北地方北部を参考にして、現在の地図の海岸線を正保御国絵図に重ねたもの。『松前』がおおむね一致するような位置に重ねているので、東北地方の位置は西にずれている。



 蝦夷地や、千島の範囲が、正保御国絵図では非常に小さいが、これは、絵図作成者が、東北北部や松前半島に比べて、蝦夷地・千島に対する知識が乏しかったことを物語っている。

 正保御国絵図では、異常に小さく書かれた北海道の東に、米粒のような島々が分散して書かれているが、日本政府の主張によると、これが千島列島だそうである。津軽半島の大きさと比較すると、およそ70kmの範囲にわたっていることになるが、実際の千島は1200kmに及ぶ長大な列島であり、正保御国絵図の千島らしいところは、実際の千島列島の17分の1の長さに過ぎない。



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正保御国絵図のエトロフ島は距離で6倍、面積で1000倍も違う


 正保御国絵図に描かれたエトロフ島と思われる島の長さを、津軽半島の長さと対比すると、3.5km程度になる。実際のエトロフ島の長さは203kmなので、正保御国絵図のエトロフ島は、長さで60分の1、面積で1000分の1以下である。
 松前とエトロフ島中心の距離を正保御国絵図で計ると、およそ120km程度です。実際には720kmあるので、6倍、異なる。

 もし、既に和人がエトロフ島に進出し、地図作成者に十分な知見が伝わっていたならば、距離で6倍、面積で1000倍も違うことはないだろう。

 正保御国絵図を見る限りは、単に、アイヌからの伝聞で書かれたと推定することが妥当な結論である。


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