サハリンに残った日本人



『置き去り サハリン残留日本女性たちの60年』吉武輝子/著 海竜社(2005.6.2)(P37〜P39)から



 戦後五十六年−2001年の段階でサハリン残留日本人約四百人、うち七割が女性とされているが、すでに九七人の方たちが、望郷の念をずっしりと心の中に抱え持ったまま亡くなられている。
 「昭和二十四年集団引き揚げ終了後、南樺太になお残留していた日本人は、国際結婚の日本婦人、主要な産業に留用中の技術者及び受刑者と少数の残留希望者等で総数千数百人と推定され、豊原、大泊、真岡、本斗、敷香等各都市並びに泊岸、内淵、塔路、珍内等の炭鉱地帯を中心に残留していた。このうち国際結婚の日本婦人は終戦後樺太における朝鮮人の地位及び生活状態が高まるに従いこれらの者と結婚した者が多く、これらの日本婦人のうちには、本邦に帰る父母兄弟等と別れて、夫の朝鮮人とともに樺太に残留したものである」と一九七七年(昭和五+二年)十月十八日厚生省援護局が発刊した『引揚げと援護三十年の歩み』一〇七ページには記載されている。
 国はあくまでも、国際結婚による任意残留、よって樺太には棄民的残留日本婦人はいないと国の出版物の中にも明記していたのである。なぜ、多くの少女が、敗戦後に朝鮮人と結婚したのか、なぜ朝鮮人と結婚した日本女性が祖国の土を踏むまでに半世紀もの歳月闇の中に葬り去られていたのか。なぜ、集団一時帰国の人たちの間で、ロシア語しか話せない三世が高齢者の一世の付き添い役として多数参加するようになったのか。
 生活の向上を求めての国際結婚による任意残留と位置づけ、国の責任をいっさい回避した記載内容を想起しながら、中国残留女性の聞き書きのさなかに幾たびも鳥肌立っ思いをさせられた国家および国際政治の過酷さを再確認させられていたのである。
 発足したばかりの「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」にたいして、援護局はサハリンに残った日本人はひとりもいないと言って取り合おうとしなかったという。