外務省発行『われらの北方領土』1993年版、1994年版、1995年版の不思議



 外務省発行『われらの北方領土』1993〜1995年版の記述には、おかしなところがあります。ウルップ島をソ連が占領した日付が、本文では8月27日となっているのに、裏表紙裏の地図では8月29日となっています。
 「当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言」では、8月27日にウルップ島から帰還したとされていました。しかし、実際は、29日に上陸し、31日までに占領を終えています。地図では正しく書いたのに、本文で誤った記述になったのは、どうしてでしょう。

 なお、これよりも古い版では、ウルップ島をソ連が占領した日付は、本文に書かれていません。また、新しい版では、31日と正しく書かれています。



<外務省発行『われらの北方領土』1993〜1995年版 P9>
 ・・・八月十八日、カムチャツカ半島から第二極東軍が進撃して千島列島の占領を開始し、二十七日までに千島列島の南端であるウルップ島の占領を完了しました。これとは別に、樺太から進撃した第一極東軍は、当初北海道の北半分(釧路・留萌ライン以北)及び北方四島の占領を任務としていましたが、前者につき米国の強い反対にあったためこれを断念するとともに、米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中し、八月二十八日から九月五日までの間に択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島のすべてを占領してしまいました。(ちなみに、これら四島占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました。)このことは、当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言及び最近公開された旧ソ連海軍の資料からも明らかです。当時、ソ連自らも択捉島以南の四島はウルップ島以北の島々とは全く異なったものであると認識しており、択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本の固有の領土であることを承知の上で行われたとの事実がここに示されています。






1991年版では、SCAPIN677で、国後、択捉両島は千島の中に含まれると書かれていたことが、明記されていました。1992年版以降では、この記述がなくなっています。


<外務省発行『われらの北方領土』1994年版 P9>

 (なお、一九四六年一月二十九日付の「若干の外郭地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する総司令部覚書(SCAPIN第六七七号)は、この指令の目的上、日本は四大島および約千の近接諸島を含み、千島列島、歯舞群島および色丹島を含まないものと定義される」(第三項)と述べていますが、この指令は、占領行政上の処置にすぎず、領土問題の最終的決定とは関係がないことは明らかです。…)


<外務省発行『われらの北方領土』1991年版 P9>

 一九四六年一月二十九日付の「若干の外郭地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する総司令部覚書(SCAPIN第六七七号)は、この指令の目的上、日本は四大島および約千の近接諸島を含み、千島列島、歯舞群島および色丹島を含まないものと定義される」(第三項)と述べており、国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになりました。
 しかしながら、この指令は、占領行政上の処置にすぎず、領土問題の最終的決定とは関係がないことは明らかです。…