熊野古道・紀伊路シリーズ(4) 湯浅から御坊まで

実施日:2007年10月8日 〔月・祝〕
コース:JR・湯浅駅〜久米崎王子跡〜津兼王子跡〜河瀬王子跡〜東の馬留王子跡〜鹿ケ瀬峠〜

沓掛王子跡〜西の馬留王子跡〜内ノ畑王子跡〜高家王子跡〜JR・紀伊内原〔中間ゴール〕善童子王子跡

                           〜愛徳山王子跡〜海士王子跡〜JR・御坊駅

認定距離:JR・紀伊内原駅 中間ゴール 18km   JR・御坊駅ゴール   24km

 

今日は待ちに待った嬉しい熊野古道歩きです。

天気予報は1週間も前から雨だといっていました。ちょっとがっかり、ところが私の念力のお陰で雨無し。紀州路快速に乗り込み大阪を離れるごとに陽が照りだし、私はどっきり!

1日中レインコートだろうと、日焼け対策無しだったのです。
あ〜あ!

出発前の諸注意など&準備体操で出発です。

誰か一人長靴を履いていたような・・・気がする。

駅から直ぐに面白い光景が・・。

ゴーヤでしょ!紅葉?してる・で・は・ないか!

私としてはこの方が好みかな。“食べよう”っと言ったら直ぐ返答が。“カスカスで食えん!”そうかな〜、試してみないと判らないよ・・。思わぬところで紅葉?を楽しんでいると、次はキウイの鈴なりに出くわす。

これはブッシュなどと絡み合い野生化している、所有者無しと誘惑されかかると背中から無言の圧力が・・?

で・みかん畑。

まだ青く、硬そうなので眺めるだけで満足。でもこれより手前で見たみかんの木がずっと美しく、立派で育ての親の沢山の愛情が注がれているのが判る。圧倒されて見るだけだった。

他に柿や栗の大・小までもが誘惑の魔の手を伸ばす。

栗は人気らしくあちらこちらで声が上がる。食欲の秋に誘われ気もそぞろで、きょろきょろ・ウロウロ、真っ直ぐ歩いていなかったのじゃないかしら?

突然雨つぶが落ちてきた。

大丈夫だと思ったが雨対策のために小休止。今回は人数も少なく、予想に反して晴れたせいか、みんなの〜んびりして、楽しそう。

でも一応せっせと準備してさ〜出発。5歩も歩かないうちにお天気になっちゃった。だけど信用できないので暫くは重装備で歩く、が、あつい−。

おまけに照りつけるような日差しも現われる。結果、身軽になる人がポツポツ、で・列は長〜くのびる。

津兼(井関)王子跡  説明文は下*1参照

この説明板の少し上、小高くなったところに石碑があります。

この前に久米崎王子跡を通過したと思うのですが食欲の秋の余韻や天気・日焼け?などが気になって意識無しで通過してしまった。

ごめんなさい。石碑は湯浅町別所の国道42号線沿いにあるとか。

 

伏見稲荷大社

突然のように現われた鮮やかな朱塗りの鳥居。連なってあるのはどこかで見慣れた風景だが・・。

伏見稲荷大社の出張所でした。

この後のお天気も晴れが続き増すように・・とお願いしつつハスに構えてすばやくパチリ。

 

*1藤原定家は、建仁元年(12011010日、湯浅を雨の中にたち、久米崎王子を遙拝し、ついで参拝した井関王子でようやく雨が止んだと日記に書いています。

藤原頼資の日記では、承元
4年(1210426日、久米崎王子についで白原王子に参拝しています。井関王子と白原王子は同じ王子社とも考えられます。これより約100年前の天仁2年(1109)、藤原宗忠は「弘王子社」についで、白原王子社に参拝していますが、この王子は近年出現したものだと記しています。

江戸時代の『紀伊続風土記』には、井関王子社は村の北入口にあり、今は地名をとって津兼王子というと記しています。
また近世初頭に熊野街道が西側に移ったことにより、旧井関橋を渡ってすぐの台地上に新しく津兼王子がつくられました。その新しい津兼王子神社は明治
41年に津木八幡神社に合祀され、現在は跡形もありません。

この中世の王子社の跡地も近年の湯浅御坊道路広川インターの建設によって消滅しました〔和歌山県広川町観光情報HPより〕

 

河瀬王子跡  説明文は下*2を参照

この写真では少々わかりずらいと思いますが生い茂った木々の手前と奥に巨石が重なり合っています。かなりの迫力。私は石、岩が大好きなので惚れ惚れしちゃいました。

運良く誰も居なかったので現物を写真に収めることが出来たのです。歩くのが遅いのも時には役立つのね。

ここはゆっくりしたかったな〜!ゆっくりするには足の速いほうが・・?

 

東馬留王子跡  説明文は下*3を参照

ブルーの説明版があるときはすべて石碑などにはウォーカーが群がっておりよい写真が撮れないときです。

何時までもまん前にデン・・っと立っている人も居るし〜。退いてくれッとは言えない性格だし〜。チャンスを待っていると置いてきぼりを食う恐れありだし、いずれも跡だけで石碑で示されているだけなのです。

これなら後で説明文も読めるしね。

 

 

*2:藤原定家は『明月記』によると、建仁元年(12011010日、井関王子についで「ツノセ王子」に参拝しています。また、藤原頼資の日記では、承元4年(1210426日、白原王子についで「角瀬川」王子に参拝しています。江戸時代の『熊野道中記』などでも、「津の瀬王子」と書いています。このように、古い文献では「角瀬」あるいは「津の瀬」という王子社名ですが、江戸時代の村名が河瀬であったことから、「ごのせ王子」と呼ばれるようになったと考えられます。

『紀伊続風土記』では「川瀬王子社」とし、明治時代には川瀬王子神社となりましたが、明治41年に津木八幡神社に合祀され、跡地を留めるだけとなりました。しかし、現在も巨石が横たわっており、王子社の古態を伝えているように思われます。また、この王子跡から鹿ケ瀬峠に向かう集落には、かつて旅籠や茶屋を営んでいた宿場の雰囲気が感じられます。

 

*3:この王子社を過ぎて南にしばらく行くと山道となり、熊野参詣道の難所、鹿ケ瀬峠があります。熊野御幸が盛んなころ、上皇や女院、貴族たちは、この峠を越えて熊野に参詣しました。しかし、御幸時代の王子社を克明に記録した藤原定家や藤原頼資の日記には、馬留王子の記載がなく、それよりも新しい王子社と考えられます。

江戸時代に書かれた若山(和歌山市)から熊野までの道案内書、『熊野道中記』には、津の瀬王子の次に、沓掛王子、次に鹿ヶ瀬山が載せられており、この王子は沓掛王子と呼ばれていたことが知られます。ところが、『紀伊続風土記』では、この王子を沓掛王子というのは誤りだとして、馬留王子社と書いています。以降、この王子社は馬留王子社といわれ、明治時代には、馬留王子神社となりましたが、神社合祀で、津木八幡神社に合祀されました。 〔和歌山県広川町観光情報HPより〕

 

いよいよ峠越えにかかります。

と言っても前回の 海南〜湯浅 のように2山越えることなく高さも300mちょっとだし、紀伊路でも難所の一つ・・と言われているそうだけどね〜。

と.思いつつ進みます。この頃はまだ列もきちんと、気分も皆さんルンルンで歩きます。

ご覧のように白い雲に青空がのぞいています。少し蒸し暑いかな・などとおしゃべりしながら行進です。

道はまだ舗装されていますがかなり登ってきています。緩やかに登っているように見えるのでが、これが曲者。

体に疲れを残すような不思議なダラダラのぼりです。(これは後でわかったのですけど)

この先で鉄柵の扉が道を閉ざしています。動物が作物などを荒らさないようにしたもので歩行者は扉を開いて通過です。

最後の人、ちゃんと閉めてね。

 

どうです!この見晴らしのよさ。頂上までもう一息のところです。ウ〜ン、山、山、山

 

石畳出現。

この石畳は昔からのものかしら?表面は平たい石で作られています。石畳と両サイドの木々そして零れ落ちる陽の光。

明るさがあってとても美しいのです。感激しながら長い道を歩いているうちにわかってきました。坂は急坂ではなくゆるくも無く登っていき、おまけに微妙に右に左にと傾いているのです。体に負担は掛かるし、この距離が長い!!

列は次第に長くなり、ついには人もまばらになり、まるで小グループか個人ウォークの感を呈してきました。雨で無くよかった、雨なら這って登るところだった。バスケの膝パットがいるな〜。

だんだん坂は目に見えて急になってきましたがまだ急坂と言うことは無い。しかしこの余りにも長いダラダラ坂で体力は消耗し気力が失われるのです。石畳はせせら笑うように又怪しげに誘います。

たいした坂じゃない、上れるだろう、休むな歩け!っと。意思を強くして一休みを2回と水を飲み、その間に悪態をついてウサ晴らしです。

突っかかる相手が居ればもうちょっと元気が出るのに。

峠まで距離を知らせる板が幾つか立っている。チラッと見るとまだまだ続く。知らない方がいいやっと下を向いて歩く・が・虫の知らせで顔を上げると右に急カーブでこちら熊野古道とかいてある。前を見るとお二人が真っ直ぐ一心に進んでいる。

おいおい道が違うんじゃないか・・と声を掛けても私の上品な声は届かない。で・お〜い、違うぜ、こっちの道だっ・・と怒鳴る。おっとっと、地が出ちゃったよ、疲れで猫被っているのを忘れちゃった。でもお一人はとっとと登る。

私の後からスタッフが来るのは知っていたのでその場で待つ。間違って登っちゃったよ・・とお知らせして私は正しい道を進み、一方スタッフは走る。お疲れさまです。怒鳴ったせいか、体がふらつくのでバナナを1本、不思議〜、真っ直ぐ歩けるようになった。

 

鹿ケ背峠〔大峠〕でランチタイム。少し開けた平らな所。壊れそうなベンチが3つ。

私が到着したら既に皆さんランチ終了に見えた。スタッフの一人がここにお座りっと言った場所がこのトンネルのような下り道のてっぺん。

下から風がそよと吹き上がる。感謝してお弁当に取り組む。食べ終わってもまだアンカーは到着しない。

熟睡しそうに時が立ちやっと到着、かわいそうなアンカーは5分で食事。本当にご苦労様です。

鹿ケ背峠〔大峠〕

河瀬王子社跡から頂上まで約4km、鹿ケ瀬峠越えは、熊野路の最大の難所の一つです。大峠頂上は広い敷地に茶屋・旅籠があり賑いを見せていました。昭和の初期までここに住まいをしていた玉屋もありました。

道の西峰づたいに小城山があり、ここに鹿ケ瀬城跡があります。又、頂上手前数十メートル左脇道を入った所に広、養源寺の草創と伝えられる法華壇があります。ここに伝わる骸骨読経の伝説は「元享釈書」によって紹介されました。又、この峠を僧基法師「いほぬし」に次のように歌っています。

うかれけん 妻のゆかり せの山の 名を尋ねてや 鹿も鳴らん 〔和歌山県広川町観光情報HPより〕

 

大峠からの下りはずっと薄暗い道が続く。落ち葉でふかふかの、いささか急な下り坂をとっとこ降りていく。お腹は一杯、休養は十分で皆元気元気で下りていく。時間を稼がないと御坊駅到着時にはお星様が出ることになるかもね〜。

小峠に到着。程なく石畳の下り坂が現われる。この坂は熊野古道で現存する最長の石畳だそうだ。

登りは表面が平らだったけど、下りは丸ポッチい小ぶりの石で凸凹が激しい。ま・下りはこれでないとつるつる滑って危ないよね・・でもこれでも危ない・と、みなさま手を振り足を振り、おかげ参りのような集団に!

 

鹿ケ背峠:お経を読むどくろの伝説

今から1千年以上昔、鹿ケ背峠でのことです。生涯で6万部の法華経を読む修行をしていた比叡山の僧、円善上人は、熊野三山への途中で病に倒れなくなりました。

それから百年ほどしたある日の事、この血を壱叡という僧が通りかかります。峠で野宿した壱叡は、深夜法華経を読む声で目が覚めました。翌日不思議に思って宿の周りを歩いてみると、大きな木下に苔むした髑髏があるでは有りませんか。しかも赤い舌だけを動かしてお経を発しているのです。

それは志半ばでこの地においていき倒れた円善上人でした。死んでなお修行をまっとうしようとする僧の姿に深く胸を打たれた壱叡は、心を残しつつも熊野三山への歩みを進め、帰路にここに立ち寄ったときにはもうすでに六万部のお経を読み終えたのか、髑髏の読経は病んでいました。壱叡は円善上人をしのんでここに供養塔〔法華の壇〕を建て、冥福を祈ったのでした。  (和歌山県観光情報より)

 

せっかくの石畳と踊る集団も足元が危なく途中で止まれないために写真が撮れない!残念無念。

やっと坂が緩やかになり凸凹石も無くなったところで小休止して〔私一人でね〕こらえきれずに大笑いした。落ち着いてひょっと前を見ればなんと・奇特な方がウォーカーのために熊手で落ち葉掻きをなさっているではないか!

よく見ればどこかで見たようなー?又もや笑いをこらえて感謝の声をかけつつパチリ

 

黒竹の里

どうぞ眼を凝らしてご覧下さい。画面中央から右にかけてほっそり生えているのは黒竹です。

スタッフが教えてくれたのです。ありがとう。踊り坂?を無事下り胸をなでおろしてトイレ休憩でポケっとしているときでした。

始めてみたので興奮。好きになった。

スタッフの心使いはこれだけでなく、飲み水を切らしたウォーカーのためマジックでおいしいお茶を調達。

みんな雨だと思い飲料の持参は少なめでしたから。

 

 

金魚茶屋は跡形無しで、そこにあるはずの自動販売機はコンセントがはいってなくて・・。

沓掛王子跡と爪掻き地蔵は何処だったのかしら

 

 

これぞ里の見本のように出現した集落です。田んぼには刈り取られた後に草が青々しています。ここに赤とんぼが群れ飛び、可愛い子供たちがあちこちに歓声を上げて走りまわっていたら・・・。

昭和の映画の1シーンになるでしょう。おっと、これはおばあちゃんから聞いた話しだけど〜。ここにお祭りされていらっしゃるのは何かしら?お地蔵様には見えなかった。でも何だか撮りたくなったのね。

 

日高町文化財:史跡 四つ石聖蹟地

建仁二年〔1201年〕後鳥羽上皇に随行した藤原定家の“御幸記”によると、この地で小憩したと記されています。

後鳥羽上皇は大変熊野に対する信仰が厚く在生中、29回も熊野参拝をしている。

 日高町教育委員会

 

どうして集まっているのかしら?列詰でもないし・・。みんなの動作を見ると西の馬留王子跡かな。人垣の隙間から案内板をパチリ。ここで私は一人ブラブラ。

 

 

西馬留王子跡:天人年(1109)10月18日、熊野参詣中の藤原宗忠は険阻な鹿瀬山を越えた後、馬留王子の借屋に泊まっています。

ここ馬留王子はこの地で馬に飼い葉を与えたり、休息させる短の施設だったのでしょう。ところが13世紀初頭の熊野御幸に随行した藤原定家や、藤原頼
資の日記などに、この王子は記載されておらず、東寺ここには王子社があった形跡は有りません。

王子の名が見られるのは江戸時代になってからです“熊野道中記”に馬留王子と会って、間王子とも言うと、書かれています。

“紀伊?風土記”によると、この王子社の境内は周囲が60間あったそうです。馬留王子後は鹿瀬山の北と南の2箇所に有りますが、共に熊野御幸時代に見られない王子で、それ以降に王子社が建立されたことを示しています。この王子社は明治時代に馬留王子神社となりましたが原谷皇太神社に合祀されました。

 

チョコッと横に外れるとこの風景、いいでしょ〜!本当はもう少し右に振りたかったけど彼岸花が主役なので。時々古道が単調になり疲れを覚えるのだけど、点在する集落の出現でリフレッシュします。目も鮮やかな朱がきれい。ふしぎな美しさを持つ花ね〜。大好き。

  

光明寺

右は熊野古道標識が小さくあってこの道を登っていきます。

彼岸花の写真を撮っているとウォーカーの一人が近寄って黒竹のプレゼントがあるのを知らせてくれた。

細いけどしっかりしていて杖代わりに皆さんご利用。

 

内の畑王子跡

木々の中にぽつんと建つ石碑。

内の畑王子は、別名槌王子ともいう。


昔の人が、熊野詣での際、この王子に、榊の枝につけた槌を供えたことによるという

手前に説明版があるなんて気ずきもしなかった

 

高家王子(たいえ) 県史跡跡:

有田郡から日高郡への入り口ともいえる場所に有ります。


境内にはかって熊野本宮大社など和歌山県内の大きな神社によく見られた長床“という修験者の集合施設が有り、紀北と紀南を結ぶ熊野信仰の一大拠点であったことがうかがえます。

 

又、建仁元年(1201)後鳥羽上皇に随行した藤原定家がこのあたりで詠んだと思われる和歌の歌碑もあり、日高町の史跡に指定されています。

萩原や 野べより野辺に移り行く 衣にしたふ 露の月影   
                   (千載集)

和歌山県観光情報より)

 

ここから程なく紀伊内原駅、中間ゴールです。

帰る仲間から見送りを受けながら出発します。

 

 

畝の芸術! このウォーク一番のお気に入りです。疲れてとぼとぼ歩いていたら・・・。

 

海士王子跡

道成寺を遠く左に見ながら歩きます。

今回最終の王子跡がここ。

藤原定家の“御幸記”には建仁元年(1201)4月10日の条にクアハ、とあるが、和歌山県聖蹟“にはクリマとある。

九海士王子、一般には海士王子と伝えられている。旧社地はこの左の方に有り道成寺の建立説話の主人公,宮子姫の生誕地とつたえられている。      (御坊市観光協会より)

ひどく疲れてとうとうビリになっちゃって。アンカーを睨みつけてストップさせる。3分休むんだからね〜。
駅が見え、ホームも見えるが大変な大回りをしないと到着しない。ブーブー文句を言いながらやっと到着。

懐中電灯はいらなかった。傘もいらなかった。レインコートもいらなかった。重かった〜。でも楽しかった。スタッフの皆様ご苦労様でした。 ありがとう。

来年の熊野古道ウォークの予定も聞きだしてもう今からわくわく、ドキドキ。   おわり。

 

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