パニック体験 「つい最近のこと」

by I.M.


つい最近のことを書きたいと思います…。


■ 1 ■

「接近遭遇…」

…昨日の夜、子ども達(と言ってもすでに大学生や高校生…)が夜遅くまで二階から茶の間に降りてきたりして、いつまでも騒がしい。私の部屋にまでノイズが伝わってきて気になるのだが、その騒がしさの中で寝入る…。私は元々、雑音には弱くて、耳が非常に敏感なようなのだ。小さな音にでも、耳をすますというか、身体が緊張したまま、音に備えているというか…そういう因果なたちなので、寝入り際のそういうノイズには本当にイライラさせられる。

久しぶりに暑い日だった。それなのに熱めのお風呂に入り身体が火照っていたにも関わらず、布団をしっかりと掛けて眠っていたせいもあったと思うが、夜、夢の中でうなされる…。

このことはすでに書いたことなのだが、私の場合、生理的なパニックは「熱」と結びついているようなのだ。身体に熱がこもっているときに、からだそのもののパニックに至るのではなく、意識のあり方が…つまり、脳味噌という内臓が何らかの仕方で…バランスを崩してしまうことが中心にあるようなのだ。脳内化学物質の代謝、生産と分解のプロセスのアンバランス、過剰ないし過少などの生理的なレベルで何かのトラブルが起きる…。そして、それが意識面での「パニック」として現れるようだ…。

 夢の中で、巨人の長島監督がなにやら言っているのだが、そのことがうまく辻褄が合わずイライラしているうちに、それが何とも言えず「ずれた」感じになり、それがそのまま不安から恐怖へと変化してくる…。

このままでは「やばい」と感じた私は、夢の中からあわてて飛び起きた。ほとんど寝ぼけた状態なのだが、それでも恐怖のような不安のような感覚を振り払うようにあわただしくトイレに行く。台所に戻り冷蔵庫の中から取りだした冷たい飲み物を少し飲む。少し落ち着くが、意識はまだどこか寝ぼけているというか、日常の意識とは違うボーっとした不思議に感覚のままだ。

身体がひどく火照っていて、その熱気のせいか、自分の意識がどこか遠くに行ったままでおかしいことは感じている。目を開けているのだが、無意識の底に漂っているような、夢見の世界の中に浮遊しているような感覚だ。小さな灯りに照らされている台所の情景も見えるのだが、その見える感じに全く現実感がない。

そのまま座っていると、次第に意識が日常のものに戻ってくる感覚があり、私が取り戻せた感じがして少し嬉しい。薄暗い食卓の食器類や茶の間のソファーなども現実感を伴って見えてくる。

そうなのだ。

 意識には二つの層があって、今私は、「下意識の意識」から、日常の「ふだん起きている意識」へと戻りつつあるのだ…。そんな風に感じながら、この変化をじっと味わっていた。

そのまま、考えていた…。

最初は、何か辻褄が合わなくて苦しい…という感覚から始まっていた。完全主義ではないけれども、コンピュータのプログラムなどは好きだし、(このhtmlもエディターで直接打ち込んで書いている…)パソコンの組み立てなどもする私は完全主義ではないけれども、律儀だし物事の考え方や処し方は固いと思う。だから、辻褄が合わないことは嫌いだしイライラする。

事実、その日の朝…休みの日…、自転車の六段変速の切り替えができないという長男の自転車と格闘していた。うまく作動しなかったり機能しなかったりすることが「許せない」「面白くない」「悔しい」…。理由はともかく、私はそういうように「律儀」で「固い」ことには違いなく、随分長い時間をかけて不調の変速機を何とか治してしまった。

だから、夢の中…らしいのだが…とは言っても、そこでも辻褄が合わないことが出てくると本当に苦しいのだ。何というか、「心苦しい」「面白くない」「ツライ」…。 その苦しさが、どういう訳か急に、不安から恐怖に変わっていくのを目の当たりにしたのだ。

いろいろ考えてみる。

結局、本当は自分は辻褄が合わないことに「腹を立てていた」のではないのか。物事がうまく行かないことにいきどおりを感じていたのではないのか。そう思うと、不安や悲しみ…というものが、実は、物事が自分の手中にはなくて、自分が無力であって制御する能力がないことから生じる感情であることに思い至る。

そこに気がついた私は、自分の中のイライラや怒りという感情に目を向けてみると、確かに、そういう感情がむらむらとわき起こってくるのを感じる。腕に力を入れて、虚空を殴りつけてみる。ムン…と、声にならない音を出しながら殴りつけてみる。

すると、「コノ野郎」とか「コンチクショウ」とかの感情が思い切りよく出て来るではないか。それと一緒に、先ほどのまでの不安や恐怖が少し形を変えた。ヌッと前に出てくるような気配ではなく、情景の後ろに少し退いていった感じになる。いずれにしても、恐怖を種の姿が私の意識野から遠くに離れてくれれば、それに越したことはない。

そうか…と自分なりに納得して布団に戻ることにした。

布団の中では、やはり恐怖がある。密閉された四角い部屋の中で、息が詰まりそうだ。呼吸が止まりそうな恐怖がある。四角い天井に四角い壁に四角い床…。直角の角度でお互いに接している天井・壁・床が、息苦しい。

パニックになりかけた時の記憶が身体にも残っているから、その部屋とその布団…という取り合わせが、今度は先ほどの記憶を鮮烈に思い出させるものとなって迫ってくる。さきほどの熱っぽい感覚も再びよみがえってくる…。

あわてて窓を開けて、冷たい外気が入ってくるのを待つ。ひんやりとして気持ちがよいし、気が行き来している感じで気持ちがホッとする。

その部屋の中で、もう一度、虚空を・空間を素手で殴りつけてみる。ムン!

すると、先ほどのまであった濃厚な恐怖の気配、不安の影は姿を薄くしていく。ありがたい!

「そうか、そういうことなのか」と自分に納得させてみると、恐怖はすでに和らぎ何とか堪えられる程度になっている。依然として恐怖そのものの姿は、向こう側にちらちらしているのだが、それでも眠り込める程度になったような感じがして、寝入り始める。

途中で何度か、恐怖の姿が強くなったりもしたのだが、先ほどの認識、「無力感が不安や悲しみや恐怖になってしまっていたのだ」という思いを取り戻し、恐怖に陥りそうなときには、気を強く持って「コノ野郎」という意識を立てる…。すると、「恐怖」という感覚が確かに、「怒り」や「攻撃」というものにすり替わっていく感じなのだ。

そんなことをしているうちに、すっかり寝入ってしまったようで、気がつくと朝になっている。


■ 2 ■

「恐怖を怒りに」セオリー

パニックも最初のうちはほとんどが、生理学的な何かの変調…だったと思うけれども、その後からは、それに足して加えて「パニックの気配…」を自分で感じてしまうことから、パニック接近感を自分で招き寄せてしまうように感じている。

これが、「パニック・ディスオーダー」ということのしるしの一つとなっているようだ。この「パニック接近感」は、少なくとも、生理学的な変調などとは「あんまり」関係がない感じがするが、しかし、全然ないということはない。実際、身体や気持ちの感じがそれなりに「生理学的なパニック」に近いものがあることは確かだと思う。

状況依存記憶のこと 不安は何か恐ろしげなことがそばにきている・近寄ってきている…という感じ。恐怖は、恐ろしいものがはっきりと来てしまっている!という感じ。いずれの場合も、「ワタシ」は、それを回避したりする力がなく、「されるままになっている」状態にいる。そして、苦しむ…。

私は、されるままになっている…という無力な状態…。そして、無力感(ヘルプレスネスと呼ぶようだ helpless-ness)…、つまり、ヘルプがない状態。処し方がない状態。まさに、無力な幼子のように、あるいは、弱い動物が虎やライオンや熊などに食われる寸前の無力感と恐怖感…。

考えてみると、恐怖は「何もできないのだ…」という無力感と結びついていると感じる。熊やライオンがおそってきたとしても、「俺にはシヨットガンがあるんだぜ!」という対処があれば、恐怖は恐怖でも、その恐ろしさはずいぶんと違うはずだ。「やっつけられるかもしれない」と思えるだけでも、少しはましになる。

また、恐怖の場合、相手が実は誰なのか・何なのかが分からない…したがって、対処する方法がない・分からない…という意味での「無知」が、恐怖の別のミナモトにもなっている。相手が分かれば、実際、それなりに対処できる…いや、少なくとも対処の方法を考えることに意味がでてくるはずだ。

虎やライオンなどの猛獣には、銃器という道具で対処できるのだが、未知の惑星から突然、地球をおそって来た「物体X」の場合には、相手の正体が分からない…戦い方が分からない…ということが、映画の登場人物や観客の恐怖をすさまじいほどに拡大してくれる。でも、あれは映画の中の話で、実際に、私が主人公として体験するパニックの場合は、その恐怖の度合いが違いすぎる…。

だから。

恐怖←不安←無力感←相手についての無知←

という流れが考えられるのだ。「敵を知りオノレを知れば百戦あやうからず」というように、敵の居所や正体や弱点が分かれば、恐怖もずいぶん違うことになるはずだ…ということで、私は必死に考えてきているのだ。屁理屈もこね、自分の都合の良いように何とか辻褄を合わせる…。

さて、それはそうと、ここで書きたいことは、「恐怖は実は、怒りが反転したものだ」ということなのだ。ここでいう「怒り」とは、「攻撃性」とか「爆発」とか、その呼び名はどのようなものでも良くて、ともかく、自分の中にこもらずに、外側に何かをぶつけていくような力や方向性をもつものであれば何でも良い。

恐怖におそわれたとき、実は、その恐怖を与えることに対して自分が無力なのだ。その無力感が恐怖になる…。もしそうならば、恐怖には何らかの仕方で対処するのだ・対処していくのだ…という意志や、何かの対処法によって越えることができれば、恐怖は小さくなるに違いない…。そう考えてみる。

そう考えてみると、… (続く…)




このページに関するお問い合せなどは kasaitまでどうぞ。