by I.M.
もうずいぶん以前のことになるのですが、風邪をひいてかなりの高熱にうなされて寝ていたときのことです。深夜、熱にうなされて意識がもうろうとしていたとき、ふいに凄まじい恐怖にわしづかみにされた私は、真っ暗な闇の中に飛び起きました。
身体は恐怖のあまり、冷や汗をかき、がたがたと震えていました。夢なのか幻なのか…。夢から覚めたはずなのですが、自分が何か半透明の幕のよう な繭のような境界の中に閉じ込められていて、その閉鎖された空間から逃げ出せな いのです。
その閉塞感はそのまま窒息するという恐怖となって襲い掛かってきます。
苦しい…。窒息する…。このままでは死ぬかもしれない!と思った私は、必死の思いで布団から抜け出し、 誰もいない居間に転がり出ていたのです。
灯かりがついて明るくなれば、日常の状態に戻れるのでは…というかすかな望みもかなわず、恐怖はどんどん強くなり、息が詰まっていく苦しさと死への恐怖から、深夜の居間のソファーで一人もがき苦しんでいました。爪を立ててクッションにつかみ掛かったり、指先と手を必死にねじ曲げて力を入れて、 窒息と死の恐怖に必死に対抗しようとしていたのです。
しかし、クッションに頭を突っ込んでも、必死に胸をかきむしっても、恐怖はますます つのり、息ができない窒息直前の状態と死の恐怖と絶望的な混乱の中にいました。
すさまじい恐怖の中にあって、私は『恐怖のあまり、私はこのまま気が狂って死ぬに違いない』 『しかし、朝になって私が発狂していたり、死んでいたとしても、その理由だけは身内の人と、敬愛していた心理学の教授にだけは何とか伝えておきたい』と思ったのです。
仕事上のことで以前から知り合っていた先生に、この恐怖と、その恐怖から生じる発狂や死について伝えておきたいと思ったのです。私の場合にはもう間に合わないかもしれないけれど、他の誰かには、私のこの体験が役に立つかもしれない…。そんな風に思えたのです。
そして、家内には自分の死や発狂の理由を伝えることで、そのことが私の身に突然降りかかったことであることを知ってもらいたかったのです。家内を含めて家族や友人などに、何一つ責任のない突発的なこと、あるいはまったく私個人の出来事であることを伝えておきたかったのです。
ふらふらしながら便箋を探り当て、自分の状態について必死に書きなぐり始めました。
隣りの和室には家内が静かに寝息を立てています。
「助けてくれ!」と起こしたとすれば、家内はびっくりして起きだして、それなりにどうにか助力してくれるのかもしれませんが、どのように言葉をかけてもらったとしても、また、腕や体を抱きしめてくれたり、さすってくれたり、「大丈夫だよ」と慰めてもらったとしても、そういうことは何一つ役に立たないことは分かっていました。それに、突然起こしてびっくりさせて、私以上に取り乱したりさせてはいけない…とも思ったのです。この恐怖は私一人だけで良い…。そんな感じでした。
窒息していく恐怖の真っ只中で、どうしてこんな風に感じられたのか…。
なぜかは分からないうちに、こういう思いが一瞬のうちに頭の中を駆け巡ったのです。医者を呼ぶとか救急車を呼ぶとかは全く思い付きませんでした。強烈な睡眠薬などで私を昏睡状態に落とし入れてくれれば、この恐怖からはさしあたり逃げ出すことはできる…。ふと、そんな風には感じましたが、なぜか騒ぎ立てたくなかったのです。
私はすでに窒息する幕・繭のようなものの中に包み込まれてしまっていて、言葉どころか、空気も、身体的な接触も「ワタシ」には届かないのです。
いや、自分自身の腕や口や胸や呼吸という物理的な私すらも、弧絶させられてしまった「ワタシ」には届かないのです。物理的な身体は、窒息して死ぬ寸前のワタシと完全に切り離されていて、姿勢や身体の動作や呼吸などの物理的なことが、「ワタシ」とは全く無関係のものになっていました。
自分の腕すらも「ワタシ」に届くことのない、凄まじい恐怖の袋の中に私は隔絶されているのです。
…。今、思い出しながらこの文章を書いています。そのせいもあって、まるでのどかにパニックが起きて、平穏にその時間を過ごしているように読めるかもしれません。
しかし、実際はそうではなく、恐怖のどん底の中で、次の瞬間にも発狂するか、次の瞬間には絶望のあまり、自殺してしまうか、そういうギリギリの所にいたことを記しておきます。それと、その時のことをあまりきちんと思い出すと、また、アノ時のことが蘇ってきたりもしそうなので、少し距離を置いて書いています。…
もしかしたら誰にも読めないようなひどい悪筆だったと思いますが、便箋に書き続けてこの状態を伝えること、そして、書き続けることで少しでも窒息の恐怖から身を引き剥がすことができれば…というかすかな期待とで、私はこの恐怖の感覚と状態の経過とを書き続けました…。
朝日が上り始めたのか、カーテンごしの外が少し明るくなってきたころ、身体は冷えきり、書き続けるという必死の作業と恐怖との対峙とで疲れきっていました。
私はそのまま布団に転がり込みながら、「朝に目がさめることはないだろう」と思いました。
発狂しているにしろ、狂い死にしているにしろ、何とか正気を保っている自分が生きていられるとは思えませんでした。凄まじい疲労と恐怖と睡魔の三つどもえの中で、意識がもうろうとしていました。
「さようなら…」と、心の中で小さくつぶやきました……。