脱



 社



 会



 化



 身



 体






 by



 葛



 西



 俊



 治




 北海道工業大学研究紀要 1992 第20号 pp.265-273 から 


脱社会化身体について



北海道工業大学教養部 葛 西 俊 治


Memoirs of the Hokkaido Institute of Technology. No.20(1992)

"The De-Socializing Body"      Toshiharu KASAI

Abstract

A new prospective of the body psychology or the body sociology has been proposed by T.Kasai(l990) through the Shakai-Taiso (relaxation of the rigidly socialized body). The main obstacles to the body de-socialization are 1) the inactivated and suppressed body, 2)the intellectually separated individuals. The modern psycho-physical therapy, such as theTakeuchi system, recovers the sensory awareness and the physically empathetic relations amongthe individuals and actualizes the body de-socialization.
Althongh the "mal"-adaptability to the social environment might be pointed out as the aftereffects, however, employing the anthoropological term described by Victor Turner, the field of de-socialization is the communitas or the anti-structure, composing the dynamic dialectic process with the social structure, so that it is not "mal" but "trans"-adaptating where growth need and self-actualization is the key concept. The body de-socialization, at the same time, tends to destroy the inflated modern greed and recover the natulality of existence.



現社会を「脱却」せずにその中に取り込まれてしまった「からだ」について、葛西1)は「社会化身体」「前社会化身体」という二つを識別しているが、本稿では用語の混乱を避けるために、それら二つを統合する概念として「喪失された身体」という語を用い、「(下位概念としての)社会化身体」をここでは「(社会に)埋め込まれた身体」として、また「前社会化身体」という表現を「(関係から)はぐれた身体」として、各々言い表すことにする。したがって、「喪失された身体」の内容には二つの相があり、一つは身体が本来的に持ち得る自在な可動性・姿が社会的役割・立場などによって限定され束縛されている「(社会に)埋め込まれた身体」であり、もう一つは、直接的対人接触の希薄な現代において特徴的と言える「(関係から)はれていない身体」であり同時に「関係から、はぐれていない身体」であることが了解されるが、以下にこの「脱社会化身体」について概観していくことにする。

1.喪失された身体

腕のぶら下げ―自己と身体との乖離


二人が組になり、一方の人の腕(リラックスするように言われている)をもう一人が持ち上げそして放すとどうなるか…という単純な状況で起こる現象については、すでに葛西2,3)によって記述されている。この簡単な実験において、自らの腕が腕主の意向とはさしあたり無関係に、持ち上げている他者の意向に従って自動的に上下するという「腕の反乱」現象、すなわち「個人の意図に背き離反する身体」が確認されている。このとき、身体は自己ではなく他者あるいは「(本人に内在する)世間」の意向に従っていることから、身体の「社会化」という概念が析出されてきたという経緯にある。

この現象はこれまで行った千数百人、(主に学生)について非常に安定して起きているために「普通の」現象であると言わざるを得ないのだが、しかし、自立して自身の人生を生きる個人、という視点に立つならばこの事実は極めて異常な事態であることも間違いない。ここに至ることにより、日本という社会(家庭・学校…)での生育の過程において、身体に対して一体何が行われたのか・何が施されたのか4)を探求せざるを得ないといえよう。

自己と身体とのこのような乖離の例は他の様々なレッスン・実験においても確認されるのだが、その際、こういった乖離・分離を修復しようとする試みにおいて、その意図とは反対にこの乖離を拡大する危険性があることを指摘しておきたい。
近年の健康ブームの中では気功法をはじめ様々な身体的技法が取りあげられているが、一元性を回復しようとする本来の方向にもかかわらず、このような身体技法への関心には、「対象としての身体」対「それを感じ、制御する私」という古来からの心身二元論的な対立を拡大するという陥穽が待ち受けている。つまり、目的とするある心身状態へと自らを誘うときに、身体=私という一元性を回復するのではなく、逆に「私の思うようにならない身体」という対立と二元化を拡大させる危険性5)があるということである。また、この本末転倒は、我々の日常的な認識傾向そのものに根付いているために抜け出しにくく、さらに、それを反省的に克服しようする態度がその二元性をますます拡大するという悪循環をもたらしうるのである。


息を詰める人々ー身体性の抑圧

 我々は意識によって呼吸をさまざまに演出することができるため、呼吸は身体と意識とをつなぐチャネルとして古来より注視されてきた機能であり、心身(あるいは霊性)に分け入ろうとするヨガの呼吸法、座禅における数息観、また近年では超個的心理学(trans−personal psychology)における過呼吸法などにその例を見ることが出来る。しかし、日常的に観察される状態はこのような活用とはほど遠く、その反対に息を詰め呼吸を抑えるという抑圧傾向が極めて強いと言える。
 心理(精神)療法としての呼吸への注目は、S.フロイドの弟子、W.ライヒに始まるが、セラピストの卵としてライヒの教育分析を受けたA.ローウェンは、ライヒとの最初のセッションのことを次のように述べている。

ライヒとの最初の治療セッションは、決して忘れられない体験である。私には自分は何も悪い所はないだろう、という素朴な思い込みがあったし、セッションは純粋に教育的な分析のはずだった。トランクスを着けて、私はベッドに横になった。このセッションは身体指向の治療なのでライヒは寝椅子は使わなかったのだ。膝を曲げリラックスし、口を開け顎を緩めて呼吸するように言われた。私はこの指示に従い、何が起こるかを見るべく待った。少ししてからライヒは言った―「ローウェン君、君は呼吸していないね」。私は「もちろん呼吸してますよ。でなければ私は死んでます」と答えた。すると彼は「君の胸は動いていない。私の胸にさわってごらん」と言う。°私は手を彼の胸に置いてみて、呼吸の度に胸が上下していることに気がついた。だが、私の胸は上下しLていなかったのだ。6)

人はなぜたっぷりとした「呼」及び「吸」をしていないのか、その理由はもちろん個人毎(文化地域、家庭、身体などの要因のため)に様々7)であるが、一度「深く呼吸しない」ことが定着すると、長期的には身体面に反映して徐々に「呼吸のできない体」として実体化されることなる。ライヒがいう「性格の鎧」とはまさに、態度・価値観・生き方とともに身体自体がこの固着の証拠であると同時に自らを縛り付ける実質的な筋肉の「殻」として機能することを指摘するものと言える。
また、たっぷりとして深い呼吸は当然ながら身体の生々しさを醸し出して人間の動物的「生」や「性」を回復させる8)のだが、西欧近代における「身体の監視・管理」9)という歴史的傾向をそのまま受け継いだ現社会はそのような柔らかさ・しなやかさを明確に拒否している。したがって、呼吸の回復という身体的な変容は、個人の肉体という場に生じる矛盾を通して、現社会文化への懐疑とそれからの脱却10)を要請することとなるだろう。

触れることへの恐れ―自己と他者との乖離

ネーミングの一つとして「ふれあい」という言葉がしばしば用いられているが、この名称を冠したイベント・空間などにおいて人間的な「ふれあい」を期待することはできない。こうした例は「ふれあい」ということについて願望と現実とが奇妙に交差する現社会の有り様を示してはいるだろう。

竹内レッスンのいくつかと同様に、様々な身体技法を用いるレッスンにおいて、身体や手などによる接触11)は物理的に起こっていても、姿・構えが全体として接触を嫌うメッセージ「私個人は触れたくないけれど、状況がそうなっているから仕方なくアナタに触れている」を発していたり、あるいは「本当は触れていきたいけれど、どうしてもできない」といった接触・回避型の葛藤12)を露呈したりなど、触れることを巡る矛盾が噴出してくる。これは触れることの危険性を了解している体の「身振り」の様であり、「ふれること」が個我に対して与え得る危険性を誠実に表出していると考えられる。というのは、「ふれること」は、それによって自己と他者とが相互浸透し、その浸透が社会的、年齢的、性的などの様々なクラスや現社会における制限を越え出ていく可能性をはらむ本質的に「危険な行為」であるからだ。
さらに、「ふれること」は双方向的行為であって、触れることと触れられることが同時生起しなければ、その接触は威圧・権力的な営為である「身体的暴力」13)へと転落することになる。また「触れられること」を受容あるいは拒否する能力をもつ他者と関わっていくこと自体が、閉じた個我の存続にとっての賭けでもあり、さらに身体接触が性的要素をはらんでいる場合、「危険性」は増大することになるだろう。このような二重、三重の危険性の故に「ふれること」を回避する結果、人は生身の自然な展開であるはずの「ふれあい(スキンシップ)」への指向を充足することができず内的な矛盾と分裂へと陥ることになる。

2.脱社会化身体へ

社会を形作る人々の間に生まれ落ちその中で生育する人間は、社会・文化という環境を言語的学習(身体的共応・観察・模倣を含む)14)と同時に学習し行動化していくことによって成員となる。したがって、このような社会化への「学習」が起こらなければ当該の文化・社会の中で生存することは難しい。
だが、人間は自分自身を様々に越え出て行く存在15)でもあって、自己の身体が、既に述べたように現社会の文化・構造などによる限定を無条件に組み込んだ代物であるとき、それを脱却する、あるいは超越することは人間としての自然な展開である。なお、このような相対化は、当然ながら「社会化され喪失された身体」とその脱却を目指す身体的解放との間に生起する運動として、対立矛盾の波間に在ることも知る必要があるだろう。
さて、これまでのワークショップ、舞踏などを通じた実践的追及16)において、脱社会化身体ということを模索してきたが、現時点ではそれらの追及はまだ十分とはいえない。したがって、以下の記述は「脱社会化身体」についての、そのあるべき姿を示したひとつの概略に過ぎない。

身体との和解

「腕の反乱」現象のように、身体の振る舞いが意識主体の意図とは必ずしも一致しない現象の中に、脱社会化身体へのきっかけが潜んでいる。それは、第一に、「私」という意識主体が自己存在の全てではないという事実そのものに気がつくことであり、第二に、この衝撃を抑圧せずに受け入れることによって、自らの身体性「私は身体として生きている」という事実に目を向けることである。
近代・現代は、「私」というコトを容れる器として身体を対象化し、その上に身体を制御する主体としての「意識」あるいは「私」という自我を立てている。この意識主体としての「私」を身体という乗り物の操縦手と捉えた瞬間に心身二元論的矛盾、限界が「私」に襲いかかってくることは明らかな事実である。さらに、個我としての「私」ということを純粋に追い求める追及そのものが、結果的に自らの「身体」やさらには「他者」をも異物として失い、それと同時に生きている世界全体を脱色してしまうことによって、「私」という存在そのものの基盤が希薄化してしまう傾向17)も指摘できるだろう。
また、「世界」に対する認識そのものも、自らの身体そのものによって「世界」を分節化していることを示す「身分け」という視点18)に現われているように、個我という認識主体だけではなく身体による「世界」把握への関心をも強めるべきである。事実、新らしい世界観や人間理解は、最近では心身に対する関心や瞑想法を含む実践によって促進される傾向19)が顕著になっている。

さて、身体性および感覚性の回復、すなわち自らの「生身」の復活によって、それまでは抑圧されてきた自らの生命的エネルギーが活性化することになるが、ここに生じる「豊かさ・充実」は、しかし、経済力や政治力などの社会的価値評価などに基づく判断結果として得られるような二次的な感覚ではなく、一次的・直接的な「豊満さ」そのものであることに注意する必要がある。つまり、考えられた豊かさではなく身体そのものを奪い尽くした充溢そのもの20)、ということである。西洋近代は、自己身体との関与が高い触覚などから最も間接的な視覚へと感覚の中心を移すことによって、すなわち、視覚(眼)以外の4感(耳、鼻、舌、身)による豊かな世界を断片化し喪失させることによって、孤立し貧困化した「個我」21)を結晶させたともいえるが、このような歴史的な視覚偏好を抜け出て全感覚を覚醒させること(sensory awareness)が全ての心身解放的技法の大前提だと考えられる。
なお、自我の意識に基づく目的的行動が近代(以降の)人の(神経症的)特性22)だと考えるならば、ここでいう身体との和解というテーマは、そのような「近代人」にとっては、今度は逆にそのことのみを目的とする強迫神経症的行為の対象へと引き下げられる危険性(健康ブーム)23)があることに注意する必要がある。ここでは、健康とか寿命などへの強迫的関心の彼岸として、すなわち、「死に向かう身体」という崩壊を前提とした上で、「身体として生きている」という事実からの素朴な問いかけが為されているのである。

他者との和解

身体との和解に伴う豊かさや安らぎを拒否する神経症的転倒は、ライヒの「快不安pleasure anxiety」という分析用語が内包する傾向でもあるが、このような「意識主体としての個我」対「その身体」という分裂は、例えば、乳児が一体化していた母親の乳房と対立し、さらに母親の膝から外界へと乗り出して行くのと相前後して、「私」対「他者(あるいは他者の前段階としての非我)」という分断・分節化をも生じさせているだろう。「私」の成立は、多分、自分でないこととしての「非我」の排出と同時に開始し、その後に「私」対「私の身体」、あるいは「私」対「他者」として析出されていくように思えるが、この問題については発達心理学上の定式化を待つ必要がある。
なお、自己と他者との分断を考える際には、他者の実在を問う哲学的な「他者」問題を議論すべきかもしれないが24)、ここでは「他の」「者」の身体が(私にとっての認識対象として)存在するという事実を前提とした日常的な了解だけで十分である。というのは、個我が身体としての豊かさの中に憩うといった身体レベルでの展開に至ることによって、他我実在に関する認識上の懐疑の如何に関わらず、そのまま自己の身体と他者身体との出会いと交響という関係へと進み得るからである。
すなわち、「我―それ」という他者身体との接触も、竹内レッスンにおいては、「憩い・安らぎ」へと進む関わりを通してふいに「我―汝」関係をも離脱した無人称的な状況へと移行すること25)を見るとき、逆に西洋近代における観念論的な哲学が一般に、身体的直接体験という様相を把握できないなんらかの限界26)をもつことが感じられるのである。ともかく、「他者との和解」とは、すでに明らかなように、他我との意見の一致を得るとか和睦するなどの「個我」対「他我」レベルでの出来事ではなく、「身体としての生きている」ものとして、その身体性のレベルにおいて生起するある「交歓」27)のことを指すのである。つまり、他者との和解とは、「自他の身体の和解交響」によって到達される「交歓」にその基点を置くもの、として私型は捉えているのである。

ところで、このような他者との和解の前に当然ながら、二者の緊張する関係という「対決」状況が想定される。他者についての最終的了解が原理的には不可能である以上、また、経済的・政治的性的などの階級によって厳しく構造化された現社会にあっては、他者との対峙は自己評価・他者評価を巡って緊張をもたらし、身体面には様々な身悶えとして表出される。それは、腕組みという自己防衛的な身体接触(自己親和性self intimacy)であったり、目・口・頭などの引き吊った筋緊張であったり、相手と対時する際の姿勢や距離28)であったり、呼吸の抑圧や視線の制御による観察であったりなど様々な形をとっているが、しかし、それらは密かな「交歓」への期待を前提としなければ出現し得ない内部矛盾の露呈ではないのだろうか。
もしそうならば、他者との和解とは、このような社会構造を一時的であれ局所的であれ相互に超越することであり29)、その実現形態はV.ターナーが示すように一種の「反構造=コムニタスcommunita」30)と呼ばれる様相31)を示すだろう。この「反構造」という「自由で平等な実存的人間の相互関係」というあり方は、しかし、決して「反」社会的ではなく、社会構造との弁証法的発展過程を可能にする対置者として32)積極的な位置付けを必要とするものである。

例えば、人間中心のカウンセリング(person-centered counselling)へと進み出たC.ロジャーズは、晩年、自身の立場を「静かな革命」33)として表明し、家族、夫婦,教育、経営、異文化などの状況における硬直した人間関係を「人間的」関係へと展開させること、すなわち、現社会の矛盾・混乱を乗り越えるための基点として、経済力・政治力などの社会的要素によって分断される前の「人としての関係」の回復を目指している。その一つの現場であるエンカウンターグループとはしたがって反構造であるコムニタスの実現形態であり、そこでは、まさに身体レベルの「生身の人」としての次元における人と人との「出会い・遭遇 encounter」そして「交歓」が模索されているのである。

3.感覚と欲望に対する錯覚を超えて

「脱社会化身体」とは、1)身体の自然な感覚を回復することによって、2)自分の身に組み込まれた社会的・文化的プログラミングを相対化し、それによって、3)身体的「交歓」を前提として他者と和解する身体へと変容し、さらには、4)「脱社会化」という新たな動きを押し進めうる身体の在り様である、と定義風に述べておく。
しかし、脱社会化身体の追及は、様々な錯覚によって阻害される可能性が高い。次にそのような二つの阻害状況、すなわち、疑問1)自然な感覚を取り戻すことによって家庭・職場などの環境の異常さに気がつくが、そのために逆に不適応を起こすのではないか、また、疑問2)感覚の覚醒に伴う「欲望の覚醒」の結果、反社会的な行為を起こすのではないか、という2点についてその錯覚点を述べておこう。
疑問1は、どのような心身技法によっても、それが成功した場合には必ずと言えるほど発生する事実である。その結果、a)感覚の覚醒をやめて元に戻るか、b)自身の感覚を信じてその不適応環境へと挑むか、c)その二つの選択肢の間に宙吊りになるか、の三つの状想のどれかが起こる。最終的には、自らの生き方を選び得る存在として本人が何を選ぶかということであるが、いずれにしても「成長欲求」という衝動が人間には存在することを考慮に入れる必要がある。例えば、選択肢aによってこの成長欲求が抑圧されてしまうと、様々な神経症的言動や歪んだ現実認識34)を派生させるため、この選択が最も「現実的」であるとは言えなくなることが起こる。また、選択肢bには「社会構造」対「反構造」の対立を止揚する意志が見られるが、それを現実的に乗り越えるためには「感覚の覚醒」のみならず、さらに実際的な対人関係能力の展開が必要であることは言うまでもたい。35)
次に、疑問2は、欲求・欲望が自身に明確になった「結果」として考えられる「反社会的な行為」についての疑念であるが、社会的・反社会的なる境界は(その相互主観性の故に)必ずしも明確ではないことと、また、本人が自らの責任でその結果を受け入れることを考えるならば「反社会的行為」云々について一般論を述べる必要はなく、問題は金・性・暴力として結節される現社会の「欲望」をどう認識するか、という点にある。現社会にこのように現象する「欲望」は、しかし、人として当然である基本的な欲求36)に対する社会構造的な抑圧によって発生したものと考えられ、いわば「欲望を欲望する」のではなく「欲望の遮断に対する反動」として社会的に形成された二次的な欲求といえる。一方、感覚の覚醒に伴う「欲望」の覚醒は、そのように歪曲された「貧相な欲望」を増長させるものではなく37)、逆に、そのような転倒から「私」を覚醒させることによって、人としての自然な欲求へと道筋を正すものなのである。

1)葛西俊治「身体の脱社会化と舞踏」1990道工大紀要第19号、220-222

2)葛西俊治「腕のぶら下げと社会体操」1989人間性心理学会第8回大会発表論文集、34-35

3)葛西俊治「うでのぶら下げから社会体操へ」1990人間性心理学研究第8号、21−26

4)葛西「身体の脱社会化と舞踏」、218-219

5)野口体操、気功などは心身の一元性を指向しているが、しばしば初心の者には「一生懸命にリラックスしようとする」という転倒が生じうる。

6)Alexander Lowen 1975 "Bioenergetics" PENGUIN BOOKS, p.17

7)詳細はローウェン1978「引き裂かれた心と体―身体の背信」池見酉次郎監修 新里里春・岡秀樹訳 創元社

8)腹(横隔膜)・胸・肩・頭・咽・顎・口などに生じている呼吸ブロック(阻止状想)を解放して、体腔・呼吸経路全体をフイゴのように用いて呼吸していくと、身体は自律性解放のような様々な反応を拡大しながら液体的な「生身」へと変容し「生命的なエロス」に満ち溢れるものとなる。

9)M.フーコー1977「監獄の誕生―監視と処刑」田村叔訳 新潮社

10)人間にとって最も身近な自然環境である「身体」も加速度的に歪曲され汚染されてきている。性(生命)エネルギーの使われ方に注目する「性経済 sex economy」という概念や快楽の興奮を恐れる「快不安 pleasure anxiety」といった切り口によって、ライヒは近代・現代社会を分析している。W.ライヒ1969「性と文化の革命」中尾ハジメ訳 勁草書房

11)日常的な身体接触の部位や量について、日本社会のそれは欧米と比較して少ない。アメリカ人との比較については、D.C.バーランド1973「日本人の表現構造」西山千訳サイマル出版会、p.116。

12)竹内敏晴 1990「からだとことばのレッスン」講談社現代新書、p.65
肩・背中に手の平をきちんと当てられない実例が示されている。

13)相手の身体を物体として捉え道具的に扱う場合、他者の人格は無視されこのような内的矛盾は生じない。°なお幼児誘拐殺人事件の宮崎勤の場合にこのような他者身体の物体化及び他者人格の無視による自我肥大が感じられる。

14)各々の社会・文化を表現する最大のものは、「言語」そのものであり、「世界」の認識的切り出し自体が言語という「文化」に明確に依存している。B.L.ウォーフ1978「首語・思考・現実」池上嘉彦訳 弘文堂

15)現象学的判断停止や文化的相対性を意識した人類学的判断保留などの認識上の様々な「相対化」はこの一例であるし、人間は自らの限定(運命)を越え出て行く指向性をもちうること(V.フランクル1979「意味への意志」大沢博訳プレーン出版)や、A・マスローの5段階動機説における「成長欲求」もこの視点に立っている。

16)1985年からの「こころとからだ」のワークショップ主催、1988年からの山海塾・蝉丸舞踏合宿参加、古舞族アルタイ公演への出演、イベントでのパントマイム出演などの実践を指す。1991年秋から朝日カルチャーセンターでの「リラックス」ワーク指導。

17)市川浩1984「<身>の構造」青土社p.8

18)市川浩「<身>の構造」,11−14

19)様々な理論、方法による心身技法が学問的、商業的、宗教的に展開されている。「精神療法と瞑想」(JICC出版局 1991)には、心身的療法として64種類、瞑想関係として33種類が紹介されている。

20)ここでは、C.S.パース(「パースの記号学」米盛裕二 勁草書房,69-72)による「第一次 firstness」という意味に近い。

21)中村雄二郎(「共通感覚論」岩波現代新書1979,48−62)は、西洋近代における視覚優越への移行と視覚以外の感覚の復権を議論している。

22)M.ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、一人個絶して神と対峙する「個人」という極限的な在り方と、近代的資本主義に内在する「合理的禁欲」に基づくいわば自己目的的な労働との対応を示している。

23)最近の自然食品、機能性食品、ダイエット、スポーツなど広範囲に展開している健康ブームには、「生きていく意味」の模索の代わりに、「健康であること・長生きすること」の自己目的化が見られる。

24)大森荘厳1991「『他我』の意味制作」現代思想(青土社)vol.19−10、240-250

25)竹内敏晴「からだとことばのレッスン」講談社現代新書、p.214。なお、M・ブーバーにとってはこの状況こそが根源語「我−汝」であろう。

26)乳幼児の発達研究は、最初に個我があるのではなく、一体化した母子という融合の中から析出してくることを明らかにしている。

27)「交歓」は性的な内容に限定されない。なお、精神科医の小此木敬吾は北大での座談会において、北欧での性解放は、その地城に優勢なシゾイド人間にとって、ここで言うところの「他者との和解」を得る手段として機能してしていることを指摘している。

28)ノンバーバル(非言語的nonverbal)コミュニケーションについては、例えば、斎藤勇編1987「対人社会心理学重要研究集3 対人コミュニケーションの心理」誠信書房 127−182

29)竹内敏晴「からだとことばのレッスン」p.115
「…「身構え」が崩れることが「からだがほぐれること』に他ならない。精神医学者の森山公夫氏のことばを借りれば、世界との、自分との、他者との、「和解」ということになろうか。」

30)V.W.ターナーの「儀式の過程」(富倉光雄訳思索社1976,p.302)での訳者の定式化によれば「コムニタスとは、簡単にいえば、身分序列・地位・財産・さらには男女の性別や階級組織の次元、すなわち構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは、棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方である。」

31)真木悠介(「気流の鳴る音 交響するコンミューン」筑摩書房・ちくま文庫1986)、コミューンに関する詳細な記述をしている。

32)V.ターナー「儀式過程」、p.294「社会とはひとつの事物というよりもひとつの過程―構造とコムニタスという継起する段階をともなう弁証法的過程…」。

33)C.ロジャーズ1980「人間の潜在力」畠瀬稔・直子訳 創元社
なお、人間的(関係の)成長を促進する心理的風土の3条件は、1)一致性 congruence :あるがままであること、2)無条件の肯定的関心 unconditional positive regard:他者を人間として受容すること、3)感情移入的理解 empathic understanding:他者を身体的共感と共に了解すること、である。

34)自己実現欲求(the need for self-actualization)を取り入れた5段階動機説の中で、A.マスロー(AbramH.Maslow1 1970 "Motivation and personality”143‐180)は、自己実現する人々のもつ歪みの少ない現実認識(more efficient perception of reality)を指摘している。

35)感覚の覚醒による現実認識があって、その上で初めて対人関係の「政治」が効果的に展開されるだろう。

36)A.マスローは、低位の欲求から順に、生理的欲求(食欲、性欲、睡眠欲…)、安全欲求(自身が損なわれないこと、世界の制御・支配による安全)、所属・愛情欲求(他者との共存)、自尊欲求(評価されること)自己実現欲求(自分自身に成ること)の5つを識別している。

37)「『欲求の解放』とはなによりも、欲求そのものの解放である。…自己目身をたえず解放してゆこうとする欲求を生きることである。」真木悠介「気流の鳴る音」、p.203




北海道工業大学研究紀要 1992 第20号 pp.265-273




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