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 ダ
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 ス

 舞
 踏


バンクーバー新報「日本の前衛的なダンス 舞踏」 2000年12/7発行 から




 「日本の前衛的ダンス 舞踏」 

好善社・和栗由起夫 偶成天・森田一踏

バンクーバー新報 新報インタビュー・リポート
2000年12月7日 第22巻 第50号


戦後日本で故・土方巽氏が創始した前衛的なダンス「舞踏」。現在では世界各地でパフォーマンスされており、バンクーバーではジェイ・ヒラバヤシさん率いるココロ・ダンスがパウエル祭などでお馴染みだ。
 去る十月二十二日から十一月十一日まで、このココロ・ダンス主催の第一回バンーバー国際ダンス・フェスティバル2OOOが開催され、日本・スウェーデン・ハワイ・カナダで活躍する八つの「舞踏」グループがバンクーバーに集結、それぞれ異なる「舞踏」を披露した。
 日本からフェステイバルに参加したグループは二つ。東京の好善社と札幌の偶成天。好善社の和栗由紀夫さんは故・土方氏から直接師事した数少ない舞踏手。偶成天の森田一踏さんは心理学者で、「舞踏」をリラクゼーションに取り入れている。森田さんは、故・土方氏の五代目の弟子にあたる。

<好善社 和栗由起夫さん>

●好善社 「地の骨2」公演

 バンクーバー国際ダンスフェスティバルの終盤、十一月九日と十日、好善社は「地の骨2」のパフォーマンスを行った。「地の霊が生まれて死ぬまでの間のサイクルを作品にした」という「地の骨」のパート1は和栗由紀夫さんのソロ、パート2は和栗さんと島田明日香さんによるデュオだ。
 この作品は四部構成。和栗さんは、春夏秋冬でもあるし人間の中の生老病死でもあるし、「踊りの世界でいうと、けだもの・地霊の世界、花の世界、人形・最後は枯れていくという世界、最後は地霊の死という四つです」と作品のテーマを説明する。指先を使った繊細な動きや、何かが宿ったような表情、筋肉を浮き出たせた緊迫感のある動きで、ほぽ満席の観客を異なる世界へ連れ出した。スタンディングオべーションで感動を表す観客もあった。

●「舞踏」誕生の背景

 故・土方氏の直系の弟子と称される和栗さんは、フェスティバルがスタートして間もない十月一十五日の「舞踏」を紹介する議義の中で、西洋と東洋が急激に混じリ合った戦後一九六○年代、伝統とは何か、新しいものとは何かを探し切れなくなり、「土方巽だけではないが、自分は何物なのか、自分の体というのは一体何なんだということをダイレクトにつきつめた。その力が「舞踏」という新しいものを産み出すきっかけになった」と説明した。
 戦後、日本にはバレェやモ夕ンダンスが勢いを増して入った。「日本人の体型に似合わない、或いは日本人の感覚とちょっと違う、というものを必死で真似してやっている舞踏界の状況に疑問を投げかけたんですね。『日本人の体に合つた踊りがあるはずだ』と」和栗さんはインタビューの中で語る。
 和栗さんによると、日本で「踊る」ということは、西洋の夕ンスのような自己表現ではなく、むしろ、いかに自己を消すか、いかに純粋な媒体になれるか、ということだったそうだ。が、戦後、自己・自我という言薬が押し寄せ、そういう伝統の蓄積のあまりない日本の国民性との軋轢が「舞踏」という一つの形を生み出した。
 「日本人の肉体とは何か」ということを向かい合わなけれぱならず、「そういうときに出てくる形というのは、古いものを壊していく、或いは共通しているつもりの意識を壊していかなくてはいけない。そうなると、反伝統的・反社会的・反教育的という形を自然と取らざるを得ない、新しいものはね」と話す。
 「舞踏」の特徴の一つとされる全身の白塗りを和粟さんは、歴史上、化粧というのは仮面の延長にあって、「自分を消すため」だと説明する。また、「舞踏」は細かい動きが多いので、舞台では白く塗るほうが、観客が捕らえやすい、と語る。

●「舞踏」と直系弟子としての和栗さん

 「自分の体一つで何かをしたかった」と和栗さんは、二十歳のとき、故・土方氏に師事した。が、二十八歳のとき「いいものを悪い、悪いものをいい」という芸術の曖昧さに飽き、着物の染色の世界に入った。そして三十三歳のとき、自分に決着をつけるためと、師に対して「最後のご奉公」をするため、再ぴ「舞踏」に戻った。
 「そしたら三ヶ月後に(土方氏が)死んじゃったんで、もう自分一人で続けて行くしかない。もう着物の世界にも戻れないし」和栗さんの功績の一つに、故・土方氏の莫大な数の舞踏譜を整理した「舞踏花伝」がある。故・土方氏の十三回忌にCD−ROMの形でまとめた。和栗さんは、「言葉を媒体として生まれてくる踊り」とイメージを踊りで表現するときの言葉の重要性を強調する。その言葉を書き取ったものが舞踏譜だそうだ。
 現在、世界各地に「舞踏」グループは有名なものだけで二、三十ある。「舞踏」が様々な変容を遂げていることに関して、和栗さんは「全ての「舞踏」がオリジン、『舞踏」の中では。逆に『舞踏」が伝統的な「舞踏』で、それを守らなくてはいけないってコンサーバティブ(保守的)になったら終わりだと思うよ。・・・僕の中ではそんなに大きな問題にしてはいない。ただ僕は土方先生の説明もしなきゃいけないし、土方メソッドについての明確な伝達をしなくてはいけない指名は帯ぴてると思うけど、土方舞踏以外は「舞踏」として認めないとかそういううのは全くないですね。自分にとって何が伝統で何が前衛でっていうことを問いかけていなければいけないんです、「舞踏』は。それが止まったときに、硬直化して形骸化して駄目になっていく。『舞踏』はまだ生まれたばかりです」と話す。
 和栗さんは、インドネシアと韓国でのプロジェクトを目前に、アジアの中でも「舞踏」のルートを探したい、そして今回初めて土方メソッドが西洋に出たが、これからも紹介していきたい、と抱負を述べた。

<偶成天 森田一踏さん>

●偶成天 バンクーバー初演 「朱鷺姫」

 バンクーバー国際ダンスフェスティバル中盤の十月三十一日から二日間、偶成天は「朱鷺姫」の公演を行った。森田一踏さんと竹内実花さんのデュオだ。パンフレットには、「古き良き日本の朱鴛姫の緋色の夢」、「失われた王国の伝説の変身と狂気の執拗な夢」とある。朱鴛は日本で絶滅寸前の鳥。
 「舞踏」を日常と区別する森田さん達は、覚悟をするため、身を清めるために白塗りを全身にほどこす。視覚的な効果のためではないそうだ。水・風鈴・鐘の音に、スクラッチなどを織り込んだユニークな音楽をバックに、老婆のようにゆっくりと動いたり、取り憑かれたように踊り狂う。
 既存のストーリーに振り付けをしたら舞踏でなくなると思う、と語る偶成天創立者の森田さんは、生きていると体や内面にいろんなことがあるので、「それを自然につむぎ出されてくるという感じです」と、竹内さんは、「見てる人がストーリーを自分の中で作っていく。プリズムみたいな感じ」と語る。約一時間の公演後、客席からは大きな拍手が起こり、地元紙は絶賛した。

●心理学者・森田一踏さんの「舞踏」

 「偶成天」の創立者、森田一踏さんは、北海道工業大学教養都でリラクゼーションの研究をする心理学者。凝り固まった社会通念をどう取り除こうかとするときに、「舞踏」が意味を持ち出した、と話す。
 森田さんが、「舞踏」と出会ったのは一九八八年。「山海塾」蝉丸さんのワークショップに参加した後、四年ほど小樽の古舞族アルタイという舞踏の集団とツアーした。一九九六年に「偶成天」を設立。「偶成天」は偶然成り立つ世界の意。日本では、札幌を中心として活動し、シアトル・ドイツ・ポーランドなどで海外公演も行った。
 森田さんのリラクゼーションは、力を抜くことではなく感受性ら高めるための方法。呼吸をつめたり、固まることには、感じることを止める作用があり、つまり感じなくするために、呼吸をつめたり、固まるのだそうだ。何を感じなくするのかというと、基本的には、恐怖や嫌な思い出などネガティブな感情で、それから開放しないと、そういうところにエネルギーが取り込まれてしまい、新しいことが出てこない。「舞踏」は、振り付けやリズムに合わせて踊るのではなく感覚で踊るので、体と心を静め、感受性を深めていくところから出てくる。無駄な緊張状態でないところに行くということだそうだ。
 「舞踏」は、日本や北米の精神科医の間で幅広く取り入れられている。竹内さんも精神科ディケアでリラクゼーションやダンスセラピーを指導する。森田さんは、リラクゼーションの研究と、「舞踏」を伝えるためのワークショップ「舞踏」のデモンストレーンョンのための公演を行う・

    (取材 近藤友美)

(12/14, 2000. Made by kasait