「暗黒舞踏−8.31−函館あうん堂」 公演の辞 (1997資料)
暗黒舞踏「偶成天」 森田一踏 記す。
青森は、私の父方の出身地であり、そこでどうしても踊りたかったのだ。したがって、七月下旬に青森「シュー・だびよん」で踊れたことは、私にとって一里塚ではあった…ただし、何の一里塚なのかは本人にもよく分からないのだが…。 そして、津軽海峡を函館に戻ってきたその足で、「あうん堂ホール」での舞踏公演を決めた。こういうのを無謀というのだが、今度は函館の地で踊りたくなった…としか言いようがない。理屈を付ければ、「函館は母の故郷で…」ということになるが、それでは軽い笑い話にしかならない。 暗黒舞踏…。何が暗黒だったのか、土方巽が創始した当時の舞踏を知らない私には、皆目見当もつかない。ただ、私が偶成天として暗黒舞踏を踊るとき、私の中には「意識と身体の暗黒面を生きる」のだと、気持ちと身体がうごめく。だから、私の踊り・竹内実花との偶成天の踊りには、どこかに暗黒面、ダークサイドがあることは確かだと思う。 普段は押入の奥にでも押し込めて忘れた気持ちになっている「アノこと」が、身体と意識に侵入してくることによって、踊りは暗くて黒い何ものかになり果てる…。それが「暗黒舞踏」の始まりなのだ…私はそんな風に感じることが多い。 私自身は元々は「心理学」などに興味を抱く人間なのだが、そういう方向の中で苦吟した挙げ句…ゲシュタルト・セラピーや竹内敏晴レッスンなどもその中に含まれる…、自分自身の手足で舞い踊ることくらいしか私にできることはない…と気づいた…のか、結局は「祈る」ことしかできない…と気づいた…のか、それはもう昔のことなのだが、今はひたすら、ねじ曲がり盛り上がりのたうち回る身体の有様によって「祈り」とし、愚劣な供え物でしかないことに恐縮しながらも、人身御供のまねごとをさせてもらっているように思う。 函館…。青函連絡船…。修学旅行で海を渡っていくときの静かだが後をひく精神的なショック…。青森に着いたとき、「ああ、これでもう、歩いて北海道に戻ることはできないのだ…」という不思議とリアルな悲しみ…。今はトンネルがあるから…という冷静な言葉は、しかし、動揺している身体には聞こえてこない…。 そんな感傷はともかく、函館公演は「公演」である。チケットを販売しての公演なのだから、足を運んで戴いたお客様達にとって「時間とお金が損」になるようなことだけは絶対にしない…。そんなふうに、舞踏家面々の感化を受けたことも確かだ。収入のために踊るのではないのだ…(アンコク舞踏などをわざわざ見たいと思うキトクな人間の絶対数が少ないので、公演は常に大赤字であることが暗黒舞踏の伝統の姿…)。 しかし、来ていただいたお客様には絶対に損にならないようにすること…それは、偶成天の演目の基本的な姿勢でもある。…そう言えば、「アルタイ」では料金のことを「拝観料」と呼んでいたようだが。
しかし、そういうことではなく、エンターテイメントとしてもしっかりと見応えがあるようである…なお、これは私の判断ではなく、見てくれた人達の感想であるから信用できるように思う。「世の中の見方が変わりました」と言ってくれた女子大生がいたり、少し極端な例かもしれないが「一万円出しても見るべきだ」とまで言ってくれた精神科のお医者さんがいてくれて感激したこともあったし、まあ、反応は様々だけれども、見る価値はある…と、私も思う。(少し照れながらの発言です…(^_^;)。 (相方の竹内実花…「美女」の方は、今、ヨルダン王妃の前で踊るという国際ダンスフェステバルに参加する札幌の布上ダンスカンパニー「Yu−go」に客演とのことで、しばし日本を離れている。なお、「美女」かどうかは、公演のポスターを見かけたら確認していただけると嬉しい。もちろん、8.31に「あうん堂ホール」にまで足を運んで頂けたら、偶成天の美女は死にくたばるほど踊り狂うに違いない。) 舞踏団のボスがよく言っていた言葉に「舞踏がダンスであるはずがない…」というものがある。こういうセリフを、大阪Toriiホールの「何とかダンスの夕べ…」などといったイベントの際に吐くのだから、主催者はのけぞってしまう。
「暗黒舞踏がダンスであるはずがない」のだとして、「では一体何なのか」と問われれば、是非こう言いたい…「舞踏はダンス以下だ」と。
ところで。偶成天では自分自身のことを「舞踏家」とは呼ばずに、「舞踏手」と呼んでいるのは、自分たちが「舞踏家…」などのように大げさな存在ではなく、何ものかの力によって右に左に踊らされつつあるままに舞うだけに過ぎない者だと自覚していることによる。 |