アメリカ人の目に舞踏とはこの世のものとは思われない究極的な存在である。その反面、民族的アートと高次アートと形而上学の現代的統合である舞踏ほど美しく驚異的で超越的でさえあるものに出会うことは少ない。ボストン日本協会は、11月8日、ハーバード・スクエアにあるゼロアロー・シアターで催された偶成天の単独舞踏公演「白イ空ヘ」によって、ボストン市民に本物の味わいをもたらしてくれた。 舞踏という踊りは、見たところ、身体的な異化を基本線としてそこから内的な物語と壮観な舞台とが展開される。白塗りのメークと形をなさない衣装に包まれて、舞踏家の胴体と四肢は内側にねじれ固く屈曲する。床の上を素足が引きずられ、関節がないかのような手が虚空をつかむ。観客の前で震える不定形の舞踏家の姿の中で、両手と両足だけが唯一、ヒトであることを示す。ふいに、あるいは全く気づかれないまま、踊り手の輪郭は奇妙で意味ありげな像へ実体化し、再び消滅していく…。 (中略:舞踏の展開内容の詳述が続く) …それほどまでに情動に満ちた連想を引き起こすことが可能となるためには、そこには何か神秘的なものがあるに違いないのだが、舞踏家は舞台上に幻影を造り出すエキスパートでもある。釘付けにする程の集中の中で、森田と竹内は一つの存在から他の存在へと、まるで昆虫の脱皮のように衣装を脱ぎ捨てつつ皮の下にひそむ新たな可能性を露わにする。しばしば踊り手は自らがその役柄によって所有されると言う。マーサ・グラハムがそうだった。しかし、森田と竹内は精霊によって囚われるのを待つことはなく、自ら内面深く掘り進み、精霊らを見つけ出しそこに棲み着くのだ。観客は何が起きているのかが理解できないままでさえ、魂を追い求め捕獲する旅路を感じとり、自らそのイメージを紡ぎ出していくのである。 |
北海道マサチューセッツ協会 HOMASニュースレター No.50, 2007から
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