サン・ピエトロ寺院の地下を巡るツアーに参加してきました。

私にとっては、今回の旅の最大の目的といってもよい位のメインイベントだったのですが、ツアーが始まって気が付きました。私が行きたかったのはこれじゃないと・・・。Yahoo Italiaで検索したのですが、“Vatican”、“necropoli”でヒットしたのが、今回申し込んだツアーの申し込みページでした。

私が見たかったのは、ヴァティカンの敷地内で見つかった2006年10月から公開が始まったというネクローポリ(共同墓地)。というわけで、見つけたホームページ。2つもヴァティカンに地下のネクローポリのツアーがあるとは思わず、喜んで申し込んだというわけです。現地に到着しても、全く気付かず。私たちが訪れたのは1月。10月に公開が始まったにしては、昔からしてるような展示内容だな・・・と思いつつ見学を終え、うーん・・・どう考えても、私が思ってたのとは違う見学会だった、という結論に達したのでした。

といっても、すごく貴重な経験が出来ました。以前からあったのなら、どうして知らなかったんだ私!なぜ、今まで見ていなかったんだ私!!というくらい。新しく発見されたというネクローポリにはまた、いつか行く機会があるでしょう。

UFFICIO SCAVI (scavi@fsp.va)というところへ、メールで申し込みの申請を行います。1回のツアーは、12名くらいで行うとのこと。希望者が多いので、返事が届かなかったら諦めてね、ということなので、どきどきしながら、返事が来ることを祈ります。幸い、私たちは今回ローマに4日間滞在することが出来たので、希望を伝えた3日の内の1日、11時15分からのツアーに参加することが出来ました。希望の言語を書かなきゃいけなかったので、一応、イタリア語と書きました。1時間半のツアーです。イタリア語の説明を理解出来る自信は全くないのですが、英語はさらに分かりませんからね・・・。

さて、当日。指定されたUFFICIO SCAVI へと向かいます。サン・ピエトロ広場の左側。回廊の根元当たり。それより奥へは勝手に入ることが出来ないので、警備をしているミケランジェロデザインだというあの衣装を身にまとった衛兵さんに声をかけます。「すみません、UFFICIO SCAVI へ行きたいんですけれど・・・」。ヴァチカンの記念写真の一番のモチーフであるスイス人の衛兵さん。お話する機会に恵まれるなんて・・・。たったこれだけのやり取りにもちょっと緊張しちゃったりして・・・。

さて、集合時間になり、15人強の参加者でツアーが始まります。私たちには女性のガイドさんが付いてくれました。左側の身廊より建物の中に入り、階段を下ります。私たちの進行方向側から、たくさんの観光客が出てきます。クーポラに登った後の出口だったかな?

細い階段を下り、細い石造りの通路を進み、要所ゝで立ち止まり見学。ガイドさんがイタリア語で説明してくださいます。「この壁は3世紀のものです。そしてその奥のが4世紀。この継ぎ目の上にあるのが14世紀のもの。法王の墓を作る時に作られた壁です。」なんて・・・。言葉も出ずに、口をあんぐりあけて、右を向いて、左を向いて、上を見上げるのみの私。いやぁ、なんと言えばよいのやら・・・。3世紀ですか・・・。

紀元3世紀頃に作られたという石棺が並べられています。この頃はまだキリスト教が一般に広まっていませんでした。

ちなみに、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのが、313年です。

というわけで、この時代の遺物はキリスト教の影響が見られるものの、はっきりとキリスト教化しているとは断言できないらしいです。徐々にキリスト教化していったので、これまでがキリスト教以前、ここからがキリスト教後、ときっぱりと分けることは出来ないとか。

そりゃそうですよね。コンスタンティヌス帝のキリスト教公認、だって、教科書に書かれた年号の暗記じゃ分からないことがありますよね。ただ、カトリックではない私だって、カトリックの現代のイタリア人だって大差はないはず。313年という年号は、学校で教わって記憶していても、実際に遺物を目にすると想像が膨らみます。だって、ガイドさんが「これはキリスト教化した後の石棺です」と指差したものに、彫られているのは、半獣半身のレリーフ。それは、私の知識ではギリシア神話・・・。

サン・ピエトロ寺院のの左翼から地下へ降りたこのツアー、階段で徐々に下へ降り、そして、寺院の中央部分へと向かいます。

現在、見ることが出来るサン・ピエトロ寺院は、1505年に教皇ユリウス2世が改築を決定し、ブラマンテ、ラファエッロ、ミケランジェロ、ベルニーニ等名高い芸術家が名を連ね、1667年に完成しています。伝承によると、、聖ピエトロ(ペトロ)が殉教したといわれている場所の上に、390年ごろに建てられたのが始まりだと言われています。ガイドさんの話によると、当時はキリスト教はまだ一般ではなく、数少ない信者が聖ピエトロの墓がある神聖な場所の近くに自らの墓を作りたがり、聖ピエトロの墓の周りにネクローポリが出来ていったそうです。その後、徐々にキリスト教が広まり、だんだんと、その上に更にネクローポリが、そして最終的には今、目にする大聖堂が建てられる運びになったのだとか。

オルヴィエートやタルクイーニャでエトルリア時代のネクローポリを見たことがありますが、今回見たものもそれを彷彿とさせるものでした。ただ、現在は地下にあるので、過去、これが地上にあった時を想像を膨らまして・・・ですが。石積みの壁と天井には、フレスコで彩色がされています。美しいモザイクが残っている部屋も。遺骨、遺灰を入れたらしい壷が置かれ、名前を刻んだ石碑も残されています。“永遠のパーチェ(平和)を”と刻まれていたら、キリスト教の印しと言っていたかな・・・。こういった部屋がいくつか並び、部屋の前には石畳で舗装された細い通路。そして、そこに立っていると、先ほどのガイドさんの言葉、「この壁が3世紀、その奥のが4世紀、上のが14世紀」

イタリア語の説明を全て聞き取ることが出来ないのが、本当にもどかしいですね。ゆっくりと話してくれてはいるのですが、やはり、考古学やキリスト教など聞きなれない単語が多いので、肝心なところが聞き取れない。語彙不足を痛感しちゃいました。

天井のモザイクがとても良い状態で残っている部屋の前で、「ポッロ」と私の耳に聞こえました。ポッロとは鶏肉の意味です。話の前後の流れからして『きれいに残っているモザイクはジェスー(イエス・キリスト)を描いていて、彼の姿がこの時代は“ポッロ”のように描かれている』という説明なんですね。それは理解できたのですが、何度耳にしても“ポッロ”としか聞こえないんです。

落ち着け、私。ジェスーが鶏肉のはずないやん。考えろ、考えろ私。この時代で、ジェスーが描かれていて・・・・、考えろ私。ガイドさんが、5回目くらいに“ポッロ”と口にして、ようやく思い当たりました。

私の耳には、前置詞のa(ア)プラス“ポッロ”と聞こえていたのですが、その動詞に前置詞のaは付かんやろ、と気付き、鶏肉ではなく“アポッロ”ギリシア神話のアポロだとようやく理解できました。

目映い金色を背景にしたジェスー。そういわれると、若い綺麗な顔をした男の姿に描かれています。当時はまだキリスト教が広まっておらず、アポロ神と同一視されこのような姿で表されていたということ。その後、今の私たちがイメージするような長髪に髭の姿が一般的になったとのことです。

あぁ!“アッポロ”って言ったんかぁ!!と私が理解したのは、既に隣の展示物へと移動したあとでしたが・・・。

そして、いよいよ、聖ピエトロの墓へと近づいて参りました。この壁に開いている穴から覗いて、遠くに見えているアレが墓だと言われ、交代で鑑賞。最初に建てられたという墓の復元図を見ながら、想像を膨らませます。これで終わりかと思っていると、まだ先があり、最終的には、聖ピエトロの墓のまん前まで行くことが出来ました。

ちょうど、寺院の中央にあるベルニーニの作品、ねじれた柱の祭壇の真下に当たります。私は信者ではありませんが、それでも感動しました。こんなに、聖ピエトロのお墓に近づくことが出来るなんて。

そして地上へ戻り、2時間弱のツアーは終了。とても貴重な経験が出来ました。