葛藤する天才 −What you love is not what you get.−

WelcomeBack:矢野顕子

 

矢野顕子がどういう経緯でジャズを聴き始めたのかよくわからないが、「峠のわが家」でのSteve Gad起用以降、彼女のアルバムにジャズメンが登場してくるようになった。その中で特に影響が大きかったのは「グラノーラ」におけるCharlie Hadenの起用である。なにしろPat Methenyのことを矢野に吹き込んだのは他ならぬHadenなのだから。そして矢野からのラブコールを受けたMethenyが録音に参加するのに時間は要しなかったようで、ここに奇跡の共演が始まる。しかし、今回はMethenyのことを論ずるのが目的ではないので、彼の演奏に関しては割愛させていただく。

ともかくジャズが好きになった彼女は自曲のアレンジにジャジーな雰囲気を取り入れようと躍起になっていく。しかしその方向性は坂本龍一には受け入れられなかったらしい。結局このアルバムでは、矢野のセルフアレンジ&セルフプロデュースによるジャズ系の曲と、坂本龍一参加によるエレクトリックな曲の2パターンがNYと東京で別々に作られていく。その結果は改めて確認するまでもなく、収録された楽曲の方向性はものの見事にまっぷたつになった。この乖離ぶりはほとんど異常と言ってもよい。

しかしそのようなプロデュース上の問題点などを帳消しにしてしまうのが、1曲目の"It's for you"である。この曲だけでアルバムの素晴らしさを十分に語り尽くしていることは疑いようがない。これが矢野顕子のベストテイクと断言する人もいるだろう。そして、その点に言い知れぬ危機感を覚える作品となった。永遠と思われていた矢野=坂本路線に陰りが見え、2人の音楽的スタンスの違いが明確になったのだ。矢野が坂本をリスペクトしているのは確実で、坂本龍一の手を借りて自分の音楽を作り上げたいという気持ちに変わりはないと思う。それは2004年の今でも同じはずだ。しかし収録された曲を聴けばわかるように、この時期矢野顕子の音楽性は急成長を遂げつつ変貌しており、坂本がいなくても何ら問題のないレベルにまで到達してしまっていた。

「なんだか自分の知らない音楽をやっている。彼女にはとてもついていけない。」

もともと矢野と坂本は協力者というよりもライバル関係にあり、急成長と変貌をしつづけるパートナーに相手がついていけなくなるというのは、音楽界でなくてもよくある話ではある。そんなわけで、このアルバムをもって坂本龍一と矢野顕子の蜜月は終焉を迎えることとなった。

ファンの間における高評価と相反して、矢野自身はこのアルバムでのジャジーなアプローチは失敗と捕らえているようである。矢野顕子はことあるごとに自身のジャズ素養のなさを痛感し、大好きなものが必ずしも自分の掌中に収められるものでないことを認識していく。明らかに共演ジャズメンのレベルが高すぎるのが原因だと思うのだが、「(Pat Methenyのように)5分、10分というソロを即興で、構成や盛り上がりを意識して弾ききることは自分にはできない」という発言が彼女の激しい葛藤を物語る。

この後、しばらくの休業を経てリリースされた「Love Life」では、本作に引き続きPat Methenyを起用しつつもジャズっぽいニュアンスをほとんど感じさせず、自然体のポップなアレンジが主体となった。その潔さに敬服する次第である。

2004.07.19

 

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