みつばちの巣の秘密・前編 

Secrets of the Beehive:David Sylvian

 

やっぱりシルビアンは唄ってくれないとね

David Sylvianは初ソロ作"Brilliant Trees"をリリース後、急速にアンビエント系に傾倒してアルバムやシングルを次々と出した。90年代に入ってからの寡作ぶりからは信じられないほど、80年代半ばにはいろんなアーティストと共演しては作品をリリースしていたのである。その共演者がすごくて、Horger CzukayとかJohn Hassellとか、まあ仙人のような人たちである(笑)。しかしながら、ほとんどのアルバムは眠くなりそうなインストものばかりであった。本人はそれで満足していたらしいのだが、退屈な音楽に延々とつき合わなければならないリスナーは大変である。彼らの作るアンビエントはなんだか夢のようなサウンドで、具体性を持たないため第三者が聴いても理解しにくいし、結局は子守歌になってしまう関の山である。ううむ。「シルビアンさん、芸術家気取りもいいんですけど、そろそろ現実の世界に戻って唄って下さいよ」と、世界中の誰もが思ったであろう。

Sylvianの作品を追っているとわかるが、JAPAN時代〜"Brilliant Trees"を通して、音楽によって人格形成というか人格矯正を行っていったと思われるフシがあちこちに見られる。要するに音楽は自己確立の手段に過ぎなかったわけである。ということで、JAPANを解散してソロになって、とりあえずアルバムを作ったものの、すでに自我形成は完了してしまったわけで、ふと我に返ってみたら自分のやりたいものを見失ってしまったのかもしれない。ともかく、たっぷりと幻想世界を満喫し、仙人たちとの共演で自らの芸術的コンプレックスをも解消したSylvianは30歳を目前にした87年にようやく現実世界へと戻る。

戻ってきて真っ先に作ったのが、このアルバムである。現実世界で生きる自信ができたから戻ってきたとも考えられるが、とにかく具体的に表現したいものを見つけたのだろう。その証拠に、全曲で彼自身のヴォーカルを聴くことができる。そしてこれがもう、圧倒的な説得力なのである。Sylvianを知っている人は誰もが感じることだろうが、彼が唄ったら無敵なのだ。ここに彼の最高傑作が誕生したわけである。

 

力強さと侘び寂

このアルバムの曲の特徴を述べると「力強い」&「侘び寂」である。力強さというのはあのひ弱なSylvianからは信じられない形容かもしれないが、とにかく構成のしっかりした曲が揃っている。サウンドそのものは非常に微妙な色合いを見せていてさすがと思わせるが、楽曲構造そのものは至ってシンプルである。そのためボーカル表現もシンプルで力強く、揺るぎないものとなっている。JAPAN時代にあったようなアレンジ面から計算された構成の美しさを見せつけるのではなくて、あくまでもボーカルラインと歌詞を基調として曲を構築している点で、剛直ながらも余裕を感じさせるサウンドとなっている。

ワビサビ感はSylvianのサウンドの専売特許と言ってもよいだろう。日本人でもここまで侘び寂を理解している人がいるだろうかと思うほど、空間と時間の表現に日本的なもの、仏教芸術に通ずるものがある。ペンタトニックなどで具体的なエスニック要素を出すのではなくて、サウンド全体から侘び寂が感じられるのだ。(ご存じない方のために申し添えておくと、David Sylvianは大の日本&仏教オタクで京都や奈良の寺院が大好き。それが高じてインドなども放浪しているのだった。)このあたりに30歳に満たない青年の作った音楽とは思えないほどの成熟度と奥深さを感じさせる。

なお作曲はほとんどアコースティックギターの弾き語りでなされたと思われる。そして、非常に早期にこのアルバムで聴かれるような構成になっていたと思われる。実際、このアルバムのレコーディングに入るにあたって、Sylvianはほとんど完璧なデモを作ったということである。あとは歌詞やメロディの雰囲気に合わせて他のミュージシャンをフューチュアしたり、別の楽器を加えてバリエーションを出している。そして、それぞれの楽器の演奏においては、各ミュージシャンの裁量範囲はそれほど大きくなかったのではないかと考えられる(注)。つまり、ほとんどの楽器のフレーズはある程度指定されていたと推測される。その証拠に、どの曲においても各楽器の演奏するラインが実にメロディアスである。

注:"Brilliant Trees"では各ミュージシャンの裁量範囲がかなり大きかったようで、インプロビゼーションなどもほとんどおまかせ状態だったらしい。スタジオに入って、いろんなミュージシャンが共演しながらトラックを作り上げてゆき、その中から気に入ったものをSylvianがチョイスするというやり方である。そしてそれが成功していたのだが、それゆえトータル的なサウンドコンセプトの演出には苦労したらしく、大量のボツ曲が発生するという弊害ももたらした(おかげで追加レコーディングに相当な時間がかかったらしい)。個人的には、音楽は結果オーライなので良い曲ができるのであればその過程はどうでもいいと思うのだが、ボツ曲大量発生という事態はやはりプロデュース的には失敗であろう。このアルバムでは楽曲構造がしっかりできあがってからレコーディングに臨んだため、各ミュージシャンにインプロさせる余地はほとんどなかったと推測される。

このアルバムは、メロディ面だけでなく歌詞が非常に素晴らしい。Sylvian自身も、歌詞の内容に最大の力点を置いたということである。その歌詞を最も効率的に表現するための方法がボーカルなのはもう言うまでもない。しかしこのアルバムでは単なる歌詞と言うよりも、文学的な詩と言ったほうがよいかもしれない。それまでのSylvianの詞は私小説的で、内容的にも現実逃避以外の何物でもないものが多かった。特にJAPAN時代の詞などはひたすら現実に背を向けるモラトリアム青年の孤独なマスターベーションと言っても過言ではない。ただ、この人は美意識のカタマリで、自らの現実逃避的性向すら美しく表現してしまうので、とりあえず芸術として成立していたわけである(だから余計に手に負えないという話もあるが)。しかしこのアルバムでは現実逃避的な内容は影を潜め、詞の世界そのものに広がりが見られるようになった。内容面においても、創作的でドラマティックな表現がなされているものがあり、それらはサウンドと相まって渾然一体となった世界を提示する。またアーティストとして、人間として生きる自信・表現できる自信を得たSylvianの充実した心情がそのまま表現されており、これが力強さを感じさせる大きな要因となっている。

 

Key Person

このアルバムには鍵となった人物がいる。1人は共同プロデューサーのSteve Nye、そしてもう1人は他ならぬ教授=坂本龍一その人である。

まず、ストイックなサウンドはSteve Nyeの得意とするところである。JAPAN時代からずっと一緒にレコーディングしてきて、気心が知れているという安心感もあるだろうが。問題はもうひとり、教授の存在である。

Sylvianは本作の制作にあたって教授アレンジによる弦が必要不可欠と判断し、レコーディングに入る前の段階から教授を呼び寄せて二人でスタジオに入って共同でアレンジ作業を行っている。このときSylvianは、単なるアレンジではなく、歌詞の内容や伝えたい雰囲気までを理解してもらった上でSylvian自身が気に入ったサウンドになるようにサウンド構築することを教授に要求したらしい。さすがSylvian、むちゃくちゃ高度な要求である。そして、それにもかかわらず、クレジットには堂々と"Arranged by Sylvian"とだけ書いてある(教授の名前は弦アレンジのみ)。相変わらず超わがままというか、なんとも傲慢なヤツである(笑)。しかしながら、これは要するにサウンドの骨組みはボクが作ったんだよ、というような意味であろう。現実的には上モノ関係はほとんど教授アレンジといっても過言ではない曲もあるが、楽曲の構成そのものはSylvianの中で完成していたはずである。

さて、教授であるが、ほとんどの曲の弦アレンジを手がけ、ほとんどの曲でピアノ&キーボードを弾いている。そしてこのサポートぶりが職人芸というか、実に見事なのである。それまでの「Produced by 坂本龍一」作品でよくみられたような、教授自身の個性がサウンドの全面を覆うような曲は一切存在せず、楽曲と一体となってサウンドを構築する一部となっている。内容そのものは教授らしいアレンジ、教授らしい演奏にもかかわらず、全く違和感がないのだ。これは凄いことである。僕は以前からSylvianと教授はサウンド的な相性が良いと思っていたのだが、本作を聴いてこの考えは確信となった。

なお、このアルバムでの教授のピアノは比較的おとなしいプレイである。しかし弦やホーンのアレンジでは相当にアヴァンギャルドなこともやっており、聞き所は多岐に渡る。詳しくは各曲解説で述べたい。

<後編へつづく>

1998.09.20

 

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