男は家を出るとそこに7人の敵がいるという。 男はこの世知辛い世の中で戦い、そして心身ともにボロボロになって家路につく。 そして唯一、彼の家庭が、そして彼の妻が、彼の彼女が、そうした男の精神を柔らかく癒すのではないだろうか。 つまり、普段はクールに自分を着飾っていても、普段どんなに厳しい顔をしていても、彼女といるときだけは素顔の自分を見せることができるのではないだろうか。 そうでなくては、24時間、厳しい社会の現実に対するのと同じ緊張を持ちつづけなくてはいけないことになる。 ひとえに、好きな彼女と一緒にいる時間というのは、そうした緊張感から解放される安らぎの時間なのだ。 そうでなくてはならないのだ。 *** その当時、僕が付き合っていた女のコは、調子にのりまくりの感さえある女子高生であった。 ある夏の日、彼女はPHSを買った。 まだまだ当時は携帯の電話代も高く、高校生のおこづかいではPHSが限界だったのだろう。 それでも自分専用の電話を持ったことが非常にうれしかったらしい。 (関係ないが、小学校以来の友人、アライソ君のピンク色の携帯には『シャア専用』と書かれているととかいないとか) その晩から僕には一つの義務が課された。 彼女「いい? 毎晩"おやすみコール"してね。しなかったら怒るからね」 日本国民が納税の義務を負うのは、その税金を財源にして国民のための国家予算が作成されるからである。 日本国民が教育の義務を負うのは、その教育こそが将来の日本に実りあるものにすると考えるからである。 日本国民が勤労の義務を負うのは、その勤労が経済活動の源であり怠惰は日本とその国民生活をダメにすると考えるからである。 僕には「おやすみコール」して何が得られるというのだろう。 僕「うん、毎日するね」 夜の12時前後までには帰宅しなくてはいけなくなったのだ。 しかし、その「おやすみコール」、内容はといえば基本的に彼女の学校でのグチを聞くだけである。 僕が何かを話すことは許されなかった…。 そして2時間くらい相槌をうたされたあと、あるひとことを言わされる。 僕「それじゃ、またね。おやすみ・・・」 彼女「ん? あれ?」 僕「どうしたの?」 彼女「何か足りひんくない?」 ・・・・・・。 僕「●●●(彼女の名前)、好きだよ、おやすみ、チュ♪」(大汗) 思い出して書いてるだけで恥ずかしい。 そして彼女は満足そうに、 彼女「よろしい。んじゃ、おやすみ〜」 おれにはないのか? しかし、そのセリフも毎晩言わされているうちになんとも思わなくなってしまった。 これを順応というのだろうか。 人間とはかくも恐ろしい性質を備えた動物であるに違いない。 パブロフ博士は、こうしたスリコミ作業によって『条件反射』という性質を確認したのだった。 *** 僕はその晩、木屋町でお酒をしたたかに飲んで帰ったのだが、それが間違いだったらしい。 酔うとある程度の理性を欠き、そして羞恥心を忘れさせてしまう。 これは、お酒のなかに含まれるアルコールが中枢神経に作用し、普段活発化している思考作用、感情作用をいくぶんかマヒさせてしまうところに原因がある。 アルコールの作用というのは結構おそろしいもので、普段おとなしいのにお酒を飲んで性格が変わる、というのも医学的には不思議ではないのだ。 しかし、ある程度の理性と羞恥心を忘れたからといっても、普段している基本的な行動は忘れないらしい。 たとえば、どんなに酔っていても靴は玄関で脱ぐし、玄関の鍵はちゃんと閉めているものなのだ。 だからその晩家に帰り、彼女に電話したとしても、皆目不思議というわけではない。 ただ、その内容を次の朝おぼえていなかったというのは少し気がかりだった。 飲んで帰った次の日の晩。 彼女「ねえねえ、●ーくん、昨日の電話で話したこと、覚えてる?」 僕「ん? あんまり覚えてないなあ。酔っ払ってたし。なにか悪いことでも言った?」 最近の電子技術の発達は目を見張るものがある。 学習機能を備えた電子ペット・アイボ。 カラー液晶表示でインターネットも可能な携帯電話。 小型なのに200万画素を誇るデジカメ。 なにゆえ人類はここまでのイノベーションを求めるのだろうか。 そしてその技術進化は今日に始まったワケではなく、彼女に毎晩電話していた当時にももちろん、着実に始まっていたのだ。 彼女「このPHSな、会話を録音できるんやんか。最近やり方覚えてん。昨日の電話、聞きたい?」
前夜の僕の声「めっちゃ好き。大好きだよ、愛してる。ずっとおまえだけだよ。ずっと一緒にいような。結婚して子供ふたりで〜、そんで白い家でなかよく暮らそ? 好きだよ、チュ♪ ●●●(彼女の名前)」 |
DDI、なぜそのような会話録音機能なんぞつけたのだ? そして昨日のおれよ、なぜそこまで自分をおとしめるのだ?! 僕「・・・・・・。け、消してくれるかな?」(冷や汗) 彼女「んでな、今日学校でトモミとリエに聞かせてんやんか〜」 んなもん聞かせるな!! 彼女「『カレシ、あたまおかしいんちゃう』って笑ってたで」 キミらの宿題だってやってあげただろうがッ!! こうしてさらに、ミジンコほどしかなかった威厳も、風に吹かれて飛ぶホコリのように微塵に散ってしまったのであった。 この日以降、彼女が機種交換をするまで、僕は三蔵法師に操られる孫悟空のようであった。 なにか少しでも気に障るようなことをいうと、その会話が再生されるのである。 彼女との会話では、つねに緊張感をともなうものとなった。 生まれて初めて『死にたい』と思った、そんな夏の暑い日のことだった。 |