僕と彼女の事情
〜愛と優しさと催眠術〜





人はどこまで優しくなれるのだろう。

いや、そもそも優しさとは何だろう。

相手の心を察し、傷つけないようにすることか。

あるいは、相手自身の成長のために身を切る思いで、その瞬間の相手を傷つけることなのか。

神さまは人間に感情という能力を与えた。

これは生命体としての価値を飛躍的に向上させるものであると同時に、社会的生物としては困難を与えるものではないのか。

すなわち、感情がなければ人生に面白みなどこれっぽっちもない。

一方で、他人との感情による関わりを余儀なくされた点では「相手を思いやる」という動作を必然的に要求するのである。

簡単に言えば、優しさのない人間は社会的に阻害されるのだ。

*****

当時僕が付き合っていたのは天下御免の女子高生だった。

その日もいつもと同じように彼女の高校までクルマで迎えに行ったあと、僕らは部屋でパスタとケーキを食べていた。

彼女: 「あのな、最近学校で催眠術が流行ってんねやんか〜」

催眠術?

彼女の高校で催眠術が流行っているかどうかの真偽はともかくとして、数日前にどんなテレビ番組を見ていたかは分かった。

僕: 「ふ〜ん。友達と掛け合ったりしてるの?」

彼女: 「そうそうそうそう。あたし、催眠術かけられるねん!」

催眠術というのが実際に存在するのは知っている。

ただし、そのかかり具合には個人差があるだろうし、何より催眠術にかかりやすい状態というのは精神的に不安定な場合に限るんじゃないのか、というのが僕なりの意見だ。

おそらくテレビで芸能人が催眠術にかかる場面というのはディレクターの指示だろうし、まして普通の女子高生が、普通の女子高生に催眠術をかけられるというのは信じがたい話だ。

かけられた方も、「催眠術にかかった気分になりたかった」だけなんじゃないだろうか。

でも、

僕: 「へー、すごいなあ。さすがおれの彼女だ。」

実害のないウソは非難されるべきではない。

彼女: 「ねえ、ほんとに信じてる?その目は疑ってるー!」

僕: 「疑ってなんてないよ。自分の彼女を信じられないオトコなんて彼氏の資格ないもん。いつだって自分の彼女を信じてるよ」

かかり具合には個人差があるだろうけどね、という「保険」を言おうとする前に、

彼女: 「じゃあ、やってみるね♪」

かかったフリを完璧にこなさなくてはいけなくなってしまった。

彼女は、財布から50円玉を取り出した。

まさかそれを振り子にするわけじゃないよね?

彼女がそれに糸を結んでいるあいだに、

僕: 「50円玉でやるの・・・?」

彼女: 「5円玉よりは価値がある分、かかりやすいねん」

ありえないと思うよ、ソレ。

彼女: 「・・・。よし。それじゃ、カーテン閉めて部屋暗くして…、と。いい?何も考えないで、リラックスしてこの50円玉の穴の部分に集中するねんで?」

僕: 「ハイ」

一体どこまでギャグなんだろう。

いや、まさか全部本気なのだろうか。

そんなことを考えながらも、とりあえず指示に従った。

・・・。

3分後。

彼女: 「だんだん眠くなってきます。眠くなってきます。心の中はカラッポです。そしてだんだん右手を上に上げたくなってきます」

これっぽっちも眠くなってはいなかった。

意識は100%だ。

だが、ここで彼女の気分を損ねるのはやめておこうと思って、右手を上にあげた。

彼女は満足そうな声で、

彼女: 「では右手を下ろしましょう。ではいくつか質問します。うなづくか首を横に振って答えてください」

うなづく。

彼女: 「あなたは浮気をしていますか?」

首を横に振る。

彼女: 「あなたは今の彼女に満足していますか?」

うなづく。

彼女: 「今の彼女と結婚したいと思っていますか?」

うなづく。

催眠術をかけて何をしようとしていたのか不思議に思っていたのだけど、こういう質問をしたかったのか・・・。

僕の胸は温かいもので満ちていた。

いつも大好きだってちゃんと伝えてたつもりだけど、もしかしたら冗談に聞こえてたのかな・・・。

心配させてごめんね・・・。




彼女: 「じゃあ来月あなたは彼女にティファニーのネックレスをプレゼントしたくなります




・・・え?

彼女: 「あなたは来月今の彼女にティファニーのプレゼントをしますか?」

人はどこまで優しくなれるのだろう。

いや、優しさって一体何だろう。

どこまで人は優しくなるべきなのだろう。

人間という生命体に感情という機能が与えられたのは何のためなのだろう。

人が男と女に分化して進化した理由はどこにあるのだろうか・・・。



そして僕は、うなづいた。



彼女: 「あと、ミュールも買ってあげたくなります。あなたは来月ミュールを買ってあげますか?」

僕はやはり、黙ってうなづいた。

彼女: 「それでは、わたしが3つ数えたら目が醒めます、1、2、3、ハイ」

僕はおもむろに目を開けて、ゴシゴシとこすった。

僕: 「今、もしかしておれ催眠術にかかってた?」

彼女は満足気に笑っただけだった。

その日彼女を家まで送るときのクルマの中。

僕: 「来週、高島屋に行く?ちょっと買い物したいし」

彼女: 「え?連れてってくれるの?何か買ってくれるん?」

僕: 「それは秘密だ

彼女: 「うん。なんやろう? でも楽しみにしとくね」

僕はさらに言いたいことがあったのだけど、言いかけたことを飲み込んだ。



そして、彼女の家の前に着いたとき、しかし僕は意を決して言った。

僕: 「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど、何にも関係はないんだけどね、『ミュール』って何?




僕はその時、ミュールがサンダルだとは知らなかったのだった。



 
教訓「優しさって何だろう」




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