愚かな組織

〜衆愚システムと合議システム


依然、とある町でこんなことがあった。

町長は、産業廃棄物施設を町内に建設することが町の発展に寄与すると考え、その計画を推し進めた。もちろん町長は民主主義的な選挙によって選ばれ、その地位は民主主義によって保証されている。そしてその計画を認可した町議会の議員もまた民主主義的に保証されている。一方で、町の住民は、ほとんど産廃施設建設に反対していた。それでもその町長や議員らがその地位を守っていられたのは、産廃施設計画以外の点で手腕が認められたからであった。

そして町民が町民投票の申し出を議会に申請したところ、しかしその意見は受けれられなかった。つまり、民主主義的合議システムによって、民意が排除された形になったのである。これを受けて反対派グループは、独自に「私的町民投票」を企画し、町民もそれにならって、議員・町役場を除くほとんどの町民が投票に参加した。その結果は、完全に近い『反対派勝利』だった。

しかしこの「私的町民投票」に対し、町議会および町長は『民主主義的ルール』に即していない、という見解を示し、黙殺することを決定した。

さて、この場合、どちらが民主主義なのであろうか。片方は民主主義的合議システムによって身分を保証されている町長。もう一方は民主主義的合議システムに逸脱する民衆。わかりやすく言い換えた場合、片方は『みんなから選ばれた行政担当者』、そしてもう一方は『みんな』そのものである。

おそらく両者に、それぞれ正当化された背景を持っているので、一概にどちらが悪い、とは言えないが、このケースが示す重要なポイントは、この『行政担当者』が独善と衆愚に陥っていたことに求められよう。町の声を聞かずに『産廃施設関連にまつわる経済的効果は著しく高い』と信じ込んでしまったことは

『独善』であり、誰一人反対することなく町長に従って全会一致の議決をした議会は『衆愚』といわざるを得ない。

 

健全な組織運営は、民主主義によって決定される。このことは『腐敗はなぜおきるか?』で説明したとおり、

『意思決定の失敗』をより高い確率で防げるからだ。より多角的な意見に傾聴することによって、それまで見えなかったモノゴトの裏側まで確認することができ、それは否定的側面の顕在化を未然に防ぐことにつながる。しかし、この民主主義的組織運営も、『全会一致』を繰り返すようなら、『役立たず』と言っても過言ではない。もし、民主主義システムの重要なファクターが『多角的視点による、意思決定失敗の防止』であるとするならば、一つの視点しか持たないような運営組織は、重要な要素に欠いていると考えられる。すなわちこれが『衆愚システム』である。

この

『衆愚システム』は次の点で独裁システム(=ワンマン経営や絶対王政)に等しい。まず上記で述べたようにモノゴトを捉える視点が一つであるために、多角的分析が困難で、失敗に気づかないことが多い。そして頑なにそのシステムを維持し、自らを正当化していく姿勢は、『独善』そのものである。価値観が多様であることを認めず、状況と目的に応じて最も効果的な価値観と視点を変化させる、という柔軟性に強く欠けているので、結果的に『自分のなかの価値観』に依存せざるを得なくなる。もちろん言うまでもないが、この『自分のなかの価値観』が限定的なものであることは神様や仙人でない限り当たり前のことであろう。

運営にかかわる組織内部では、多数の主流派と少数の反対派という組み合わせによって

活発な議論が行われるのが望ましい。これら両者の数が拮抗してしまうとモノゴトの審理は遅々として進まないし、かといって全員が主流派におさまった場合は『衆愚』にすりかわる危険があるからだ。失敗というものはかならずついて回るものである。それを前提にした場合、いかにその失敗を防ぐか、というのが組織運営の要点となる。そして、『あのとき、こっちの選択とってりゃよかった』という『意思決定の失敗』を避けるためには、モノゴトを裏側から見る人間が必要になってくる。

日常的にこれらの“裏からの評価”というのは、困難ではあるが、トータルの評価をより正しいものとするためには必要なことである。そして長期的展望というのは、より正確な現時点での評価に対して設定されるものであって、必ずしも“良い点”のみの評価の上に立つものではない。ゲーム理論によると、「最善ケースの最善選択」というのはリスクが極めて高いものであって、望まれるのは『最悪のケース下での最善の選択』である。つまり、むしろ“裏からの評価”を常に意識することが、最善の結果を得る、ということである。

あなたの組織には、このような裏側からモノゴトを見られる人材がいるだろうか?

いるのなら、あなたの組織は当分安泰であろう。

いないのなら、やばいかもしれない。



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