不況とケインズ政策



経済学は無力だ。最近とくにそう思うようになった。現在日本は不況の真っ只中にいる。経済とは、ある意味で小さな子供のようなものだとおもう。ちゃんと世話しないとどこで転ぶかわからない。かといって甘やかしてもいい結果にはならない。突然なにかの拍子で機嫌を悪くすることもあれば、こちらが何もしてないのに機嫌を直したりする。当然それなりの理由やルールに乗って変化を起こしてるのだろうが、ロジックじゃないから困るのだ。経済学とは、あくまでも子供の行動パターンを「研究」しているようなもので、親の役割を果たすものではない。

別の例で経済学者を捉えるなら、それはおそらく「美術批評家」に近い。ピカソがどんな画風でどんな技法でソレを描いたのか。そういったことにはすんなり答えられるのだけど、彼自身は絵描きの才能は皆無であろう。そうなのだ。経済学を学んでいても、そのことがカネを生むわけではないし、仕事を作り出すわけでもない。そのメカニズムの一部を知っているだけのことであって、知識それ自体がダイレクトに価値あるものに化けることはないのだ。経済の主役はあくまでも企業で働く一般サラリーマンなのである。

小さな子供をあやすのは、経済学者ではない。それは働くひとびとなのだ。だから経済学の知識は、経済に対しては無力だ。

今回のお話は、経済活動に対して経済学が挑戦したひとつの事例でもある。ケインズは、第2次世界大戦の原因のひとつともなった「世界大恐慌」の研究から、一つの結論と処方箋を導き出した。それが貨幣の下方硬直性公共投資である。



野菜の値段を想像してもらいたい。野菜は、天気次第で値段がコロコロ変わる。それは、市場に出回るキャベツの量、キュウリの量が天気によって左右されるからだ。キュウリが市場に多く出回れば出回るほど、値段は安くなる。逆に、天気が悪くてキャベツが不作だったときには値段が跳ね上がる。

このことは買う人の数の変化でもおこる。例えば、キャベツに対する悪い噂が立って、だれもキャベツを買わなくなったとき。そのときはキャベツの出回る量が同じでも、欲しい人が少なくなるわけだから、需要に対して相対的にキャベツの量が多くなる。逆に、キャベツの出回る量が同じでもキャベツダイエットかなんかが流行してやたらと欲しい人が増えた場合。このときには欲しい人に対して相対的にキャベツの量が少なくなるわけだから、つけられる値段もあがる。

これは価格の弾力性といわれるものである。別に名前はどうでもいいのだが、単純にいえば、欲しい人(=需要)と市場に出回る量(=供給)のバランス変化がどの程度価格に反映されるか、という度合いのことである。上記では、キャベツ買いたい人が増えたときと、キャベツ出荷量が減ったときに値段があがることがわかった。逆にキャベツ買いたい人が減ったときか、キャベツ出荷量が増えたときに値段が下がることもわかった。つまり、キャベツは、需要の変化、供給の変化に対して「反応がいい」のだ。

これと違うのが、例えばノートパソコンなどに代表される機械製品だ。買う人が増えても、製品を作りすぎても、逆に買う人が減っても製品が減っても、「メーカー希望小売価格」は変化しないのだ。一時VAIOが流行って在庫がなくなったときも、値段はその前とおなじだし、ダブついた某メーカーのPCも正規価格は以前と同じである。もちろん安売りショップなどではもうちょっと価格が変化するが、それでも値下げ幅には限界があるし、値上げされることは、まずない

さて、上記にあげた例では、普通の一般製品市場をつかったが、実は、市場というのはそれだけではない。金融市場もあれば、労働市場もある。ここでは労働市場に目を向けてみたい。労働市場とは、よくわからないかもしれないが、

モノにあたるのが労働者(=サラリーマン)、
買う人にあたるのが企業、
あいだを取り持つ価格というのが給料の値段になる。

上記の例では、キャベツ=サラリーマン本人、キャベツの値段=サラリーマンの月給、買い物する人=企業、となる。企業が月給払ってサラリーマンの労働力を買う、ということだ。

この労働市場でも、価格の弾力性というのはある程度働く。

企業がもっと多くのサラリーマンを雇いたい、と思うとき、サラリーマンの数が同じでも、給料はあげざるを得ない。だって、他の企業に移られたらイヤダもん。で、労働者が突然流行した悪性のインフルエンザかなんかでほとんど病院送りになってしまったときも、残ったサラリーマンを巡って、企業間で給料アップ、好待遇の動きがある。だって、他の企業に行かれたら嫌じゃん。

逆に、企業が全体的な雰囲気として、今の人数多いなあ、もうあんまりサラリーマン雇いたくないなあ、と思うときには給料が下がる。だって、別に他の企業に行かれても困らないもん。企業の態度が変わらない(=増やすつもりも減らすつもりもない)ときでも、サラリーマンの数が異常増殖した場合、給料は下がる。だって、こいつがいなくなっても、他がたくさんいるもん。

理論的には、このように、企業の思惑ひとつで給料が上がったり下がったりするのである。ただし、価格弾力性が強い場合の仮定である。実際には労働組合が強かったり、社会的な反対が強かったり、最低賃金が規定されていたりで、「給料が下に下がりにくい」傾向がある。そりゃ誰だって、いくら労働者が多かろうと、時給300円では働けない。

このように、労働市場においては、価格弾力性は低くならざるを得ないのである。簡単にいえば、サラリーマンには、サラリーマンの数がどうであれ、企業の戦略がどうであれ、最低限で必要な給料の額というのが存在するのである。キャベツは値段を落とすことによって売りさばくことも可能だが、サラリーマンは、給料がある程度以下には下げられないために、売りさばかれることができないのである。もし、時給300円で納得するなら企業も雇うのだろうが、サラリーマンはそうはいかない。従って、ここに市場機能が働かない、「賃金の下方硬直性」というものが生まれるのである




世界大恐慌の折には、『不当に安い給料に耐えられなくなった』労働者があふれていた。働きたいのだが、ある程度以上給料を払ってくれる企業が見つからないために失業している人である。

ここに、最悪のスパイラルが完成した。つまり、

「企業にカネがない→ある程度以上の給料払えない→失業者増える→失業者にモノを買うカネがない→企業が活動できない→カネがない→…」

という図式である。ここでケインズは考えた。この最悪に向かって輪廻するスパイラルをどっかで断ち切らないと! 彼は、『失業者にモノを買うカネがない→企業が活動できない』のあいだを断ち切ることを考えた。『民間人にカネがないなら、政府が払ってやればいいじゃん』もちろん政府の財源は税金だが、それは経済が復興したあとで返してもらえばいい。つまりは立て替えるのだ。『政府には今お金ないけど、10年後に返すよ。はい、これが借用書』これがいわゆる国が発行する債券=国債である。もちろん、タダではない。利子をつけなくちゃいけないが。そして、現在にはそれを返しきる財源がないので、これが赤字国債と呼ばれる。

政府はこうやって集めたおカネで、企業に仕事を注文するのだ。例えば道路工事。あるいは橋。ビル。文化会館の設立。そうしていわゆるゼネコンにカネが入る。ゼネコンは、実は政府からの注文を受けて、セメント会社に相応量の注文をする。また、製鉄会社に注文をする。製鉄会社はその注文を受けて石油を注文する。また、コンピュータの設定をしなおす必要があるので、ソフトハウスに注文する。あ、仕事が生まれてるじゃん。
このように、一つのでかい仕事の注文は、経済連鎖を遡って仕事を増やしていくのである。これが、有効需要の創出と呼ばれるものである。現在、ウン兆円規模の公共投資、といわれているものの正体はコレなのである。政府がカネを使うことによって、仕事を『創出』する、ということなのだ。



ただし、この有効需要創出政策=公共投資がどの程度有効なのか、果たしていかなる状況下でも有効なのか、という点については疑問も多い。事実、公共投資が波及させる経済効果というのは、現在の複雑化した経済連鎖のなかではすぐに吸収されてしまうとの見方が強い。つまり、2兆円とか3兆円とかいうレベルの公共投資では足りない、ということだ。よく日本で『税金が高い』という話を聞くが、ヨーロッパに比べたら、数段低いのである。つまり、日本の政府は比較的規模の小さな部類に入る。その政府にこれ以上の支出はムリであろう。

また、本来、公共投資というのは、創出された利益が別のところに投資されることが前提となっている。つまり、『もうけたら、新しい機械を買う』『カネが入ったら、銀行に預け、それが他のところで流用される』ということである。そうでなければ、カネの流通がストップしてしまう。しかし現在は、周知のように、銀行が貸し渋っているし、新たに施設を拡張しようとかモノを買おうとかいうサイフのヒモの固い状況である。入ってきたカネはとりあえず金庫にしまっておこう、というのが目下の流行であろう。つまり、カネが流れにくくなっているのである。このような状況下で2〜3兆円規模の公共投資がどの程度有効であるかは疑問である。


今回はちょっと長めに、賃金の下方硬直性と、公共投資の意味、そしてさらにその限界についてまで触れてみたが、結局経済学ができることは否定的な分析だけであって、こんな知識が新たに仕事を生むわけでもモノを買うわけでもないのだ。失業した人に対して仕事ひとつ与えられないような非生産的なモノなのかもしれない。




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