制度学派


英語では“Institutionalist”と呼ばれる。新古典派(=自由市場経済信奉者)と構造学派(=世界システム論者・悲観論者・従属学派など)の対立が、戦後の開発途上国への政策立案過程での対立だったのに対し、この制度学派は、東南アジアの経済成長を説明する上で生まれた、反・新古典派の理論。

日本を含む東アジアの経済成長を説明するにあたっては主に3つ、その解釈が存在する。新古典派・構造学・制度学派である。ひとつひとつ見ていこう。

・新古典派による解釈

輸出指向型政策は、貿易自由化を促し、それは価格機構を正常化した。それがパレート最適化を実現して、政府の失敗を防ぎ、市場メカニズムからその性能をぎりぎりまで引き出した。分かりやすくいえば、「“なんでもアリ”の土俵で、うまく立ちまわったことが勝因」とでもなるだろうか。個人個人が勝手に行動し、作戦もへったくれもない某プロ野球チームに似ているかもしれない。

  • 従属理論による解釈

そもそも途上国は中心国に、経済的に従属しているので、途上国というよりむしろ「周辺国」である。そして、その周辺国の経済はまさに中心国の経済政策に依存している。東南アジアの場合は、日米貿易摩擦に由来する、日本企業のアジア流出が大きな要因になっていると考える。つまり、「日本からの超過輸入をなんとかしたいアメリカ」の矛先を変えるために、多くの日本企業がアジア諸国で生産するようになったのだ。もちろん円高も影響している。それが好結果につながったとみるのだ。常にアニキのオコボレをねらっているようなコバンザメに似ている。この従属理論が正当化される背景のひとつには、日本のバブル不況がそのままアジアの経済危機につながったという点である。これはつまり、日本からの資本投資によってそれら地域の経済が支えられていたと見ることもできるからである。

・制度学派

そしてこの制度学派である。実は、新古典派のいうような自由市場はアジアにはないといっていい。かなりの割合で政府による規制、行政指導が存在したのだ。これは日本も同様の構造になっている。したがって、新古典派のいうパレート最適が実現したとは考えにくい。また一方で、従属理論の解釈も、アジア各国の主体的な能力を過小評価している部分がある。政府の独自性、各産業の発展努力を無視している感があるのだ

そこで登場したのが、この制度学派である。それぞれの国内の諸制度、組織の機構改革、そしてそれに由来する経済計画の高い実効性に注目した理論で、現在もっとも高い評価を得ている。唯一認めたがらないのが、新古典派にベースを置く世界銀行とIMFだ。こいつらは、新古典派にこだわらなきゃいけない別の理由でもあるらしく、支出歳入の均衡を破る理論は嫌いらしい。「マーケットフレンドリー」といっても妥協的姿勢の範囲を越えるものではない。それもスティグリッツの就任によってちょっとは変わるかもしれない。さて、で、制度学派。

このなかではまず、経済発展に占める政府の積極的役割を強調する。まず国家全体の経済発展に関しては、地場産業・地場資本の充実とともに、地場労働者市場の充実、および政府支援がそれぞれ自立性を保ちつつも効果的・効率的に相互を刺激しあうことが必要だというのだ。そのなかでも、それらネットワークをお膳立てする政府の役割は看過できない。もちろん、地場産業・地場資本・地場労働者市場は自由競争を基本にして発展するのだが、そのすべてが自由であったらいいというものではない。

「発展する可能性は高いけど、いまのところ即時にカネにはならない技術」

「もう今後は発展する可能性はほとんどないけど、いまのところカネになってる技術」

この二つの選択肢があったとしよう。自由競争下、とくに短期的利益を追求する環境下では、前者ではなく後者が選択されてしまうのだ。これは、国際的経済下においては競争力を弱める選択になりうる。そこで政府は、計画的に前者をバックアップする必要がある。自由主義経済の本場であるアメリカを含めてほとんどすべての先進国では、政府による科学技術支援が行われているが、その理由の一つがここにある。別の理由としては、「カネはかかるし、研究結果が即カネにならないような基礎研究」は自由競争下で誰もすすんでやらないということがあげられる。

東アジアのほとんどの国では、政府主導のもとで様々な技術が先進国から移入されたが、そのなかには即時にカネにはならないようなものも含まれていた。しかしそれが、数年後の競争力になるのであって、その点での政府の役割は見逃すことはできない。

 

・制度学派と開発独裁

本来は別のページにすべきだろうが、ここで書いてしまおう。

東アジアの政治構造についてである。これは経済の範囲を越えて、政治経済の分野に入ってしまうのだが、ここで補遺という形で記しておく。

東アジアで高い経済成長を果たした国のほとんどすべてに共通して見られる政治構造が、「長期安定的独裁政権」である。フィリピンのようにアキノ政権以降民主化が行われた国もあるが、経済成長を遂げた時点ではまだマルコス政権だった。あるいは韓国のように大統領が数人かわったところもあるが、基本的な政策は日本同様官僚が握っており、その意味では長期安定的独裁といってもよいだろう。

 

これは企業経営論のなかでは常識なのだが、ある一定のレベルまでなら、硬直的組織経営のほうが、柔軟的なそれよりも効率的だという研究がある。つまり、独断専行型のワンマン経営者は、ある程度のところまでは、民主的な組織経営をする他社に比較して経営状態はよいのだが、あるところにきて追いぬかされてしまうのだ。これは、その交差点で、ワンマン経営のデメリットが表面化し、メリット・デメリットが逆転することに由来する。

国家経営をこれにあてはめて考えれば、ある程度のところまでは民主性を否定して独裁的に政治を行った方が経済的には効果的だということが言える。もちろんこれはあくまで経済的な側面に関してのことであって、法律的、政治的、社会的側面からすれば問題ではある。

が。事実、明治期の日本、戦後の日本を見ても、半ば独裁的な政権が長期に安定して政治を行っていた事実がある。そういう意味からして、現在の途上国においても、ある一定のレベルに達するまでは(もし経済的な発展を優先するのであれば)民主主義を抑制して独断専行型の政治構造を持ったほうがよいように思われる。



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