事実と真実と真理
 

 
時期としてはちょっと遅れたが、今日は戦争を題材にしてに話をしてみたい。

先日のニュースだが、アメリカの戦争博物館か何かで原爆の形をしたイヤリングが発売されたらしい。当然それに対して日本の被爆者側が抗議をしたのだけども、その回答が以下のようであった。

「原爆は戦争終結を早めたものであり、非難されるべきものではない」とのこと。正確な言葉はよく知らないのだけど、こんなような主張がアメリカでは普通であるらしいことが読み取れた。

事実としては一つの原子爆弾が広島と長崎に投下され、合計25万人の民間人が死亡したという一点があるのみで、それに対してはおそらくどんな異論もないはずだ。しかし、その事実が含む真実はどうやら一つではないらしい。

まず、アメリカに見られる早期戦争終結論だ。これが広島長崎への原爆投下を肯定する理由は主に原爆の脅威が日本軍の戦意を大いに殺ぎ、本土決戦などの徹底抗戦策を回避し、民間人の犠牲者が増えることを阻止したという点にある。

そしてより政治的に見た場合、原爆の威力を旧ソ連に示すことで、旧ソ連軍の北海道上陸を阻止し、日本の東西分断を阻止したということにつながる。

どうやら1945年8月の段階ではまだ旧ソ連には核兵器は存在しなかったらしい。

たしかに日本軍の敗戦は目に見えて明らかで、降伏も時間の問題であったが、もしアメリカが原爆を投下せず通常戦力によって攻撃をするのみであったら降伏は半年くらいは遅れていたであろうし、その間に旧ソ連の北海道上陸が行われた可能性は高かったかもしれない。

そう考えれば現在朝鮮半島が抱えている南北分裂や旧東西ドイツのような分断の悲劇が日本にも訪れた可能性もあったわけである。広島長崎の原爆投下によって(1)旧ソ連にアメリカ軍戦力を示威し、(2)終戦を早めたことは結局旧ソ連軍が北海道に上陸するチャンスを阻害したということになる。

一方で確かに民間人の大量殺戮という側面は否定しようもないのであり、その点をもって原爆投下を非難することも当然可能であり個人的にもそれには賛成するが、それは単純に被害者の立場でもって賛成するわけではない。

上記のような東西分断の可能性を考慮したとしてもやはり民間人の大量殺戮を意図した戦略は戦争法規上においても認められないからである。

いくら日本軍が中国やアジアに侵略したという見方が正しかったとしても、15万人規模の民間人殺戮を意図した作戦はなかったはずだ(その意味では東京大空襲や大阪大空襲も非軍人を意図的に攻撃した点で非難される)。

もしこれが軍人や軍隊を相手にした作戦であり、死んだ15万人も全員兵隊であったなら咎めるものではないが、反撃のすべを持たない民間人に対して一方的に攻撃をすることは許されないだろう。

これは一つの事実に対して与えられる真実が複数あることを示す一例である。別のページでも主張しているように、モノゴトは常に多面的であり、一面をもってすべての評価することはできない。

原爆投下における民間人大量殺戮のように、確かにひとつの側面が抜きん出て強い特徴を持つこともあるが、それでも東西分断の危機を回避したという点を見逃すことはできないだろう。

このことはどんな事象についてもあてはまる。例えば昨今の通信傍受法やガイドライン法案などは国家権力が強化されるという点においてだけとりあげても、民間部門の権利の弱体化というネガティブな側面と、戦争の際の国家の役割の効率化というポジティブな側面を持つ。

一つの点をもってしても二つ以上の側面をもつわけだから、それらが含む内容についてのすべての側面を取り上げようとしたら、人間ひとりの脳みそでは理解できないだろう。

ビジネスの世界でも同様のことがいえる。一つのビジネス戦略が仮に一つの事実しか含まなかったとしても、それが含む真実は複数である。例えば「仕入れ先を甲から乙に変える」ということだけでも、甲との関係や乙との関係、あるいは卸し先との関係などにも強い影響を与えることがある。

もしこれが、新規プロジェクトの立ち上げなど、まったく新しい関係を構築するモノであればなおさらそれが含む真実は膨大になる。そうなったら確かにすべての側面を理解するのは不可能であるが、『違った側面が存在する』という意識を持つだけでも意味はある。その意識さえあれば、柔軟に対応できるからだ。

複数ある真実が何をもたらすか。あるいは複数ある真実のなかでどれがもっとも正確にそのモノゴトの『真理』を顕わしているか。それは多分神様しか知らないことだろう。

そのモノゴトの真理を逐次わかっていたら、戦争を繰り返すはずはないし、ビジネスだって同じ失敗をするはずはない。事前にモノゴトの真理がわかればどれが最適な戦略であるか、最も利益的な計画であるかは簡単にわかってしまうはずなのだ。

それができない以上、人間にはそういった『真理』は知り得ない、というのが正しい認識であるように思う。だから人間にできることは、真実の繰り返すなかでもがきあがいて自らを教育し、柔軟性をもって成長していくことだけではないだろうか。

さて、問題は今の国会のジジィどもにそういった対応の柔軟性があるかどうか、だ。やつらは柔軟な思考というものからは一番遠いところにいるような気がするのだが、どうだろうか。


 
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