若者よ



青春、いい言葉じゃないか。昨今の若者のなかでこの言葉の意味を真に理解している者が何人いることだろうか。人生においてもっとも輝いている刻。

しかし、おおよその若者はその価値を知らぬまま、その刻を漫然として過ごしていく。なんともったいないことか。

まず、青春を謳歌する若者は何事も怖れずに突き進んでいかなくちゃいけない。知識がともなっていようとなかろうと、それは二次的な問題だ。若さゆえの過ち、というものは過大評価される必要はないんだ。

エネルギーにまかせて思うまま行動すれば、いずれその結果はどうであれ血となり肉となる。知識に踊らされて自分の行動を規制するのは年老いてからでも遅くはない。青春のうちは、若さにまかせて行動してみることがとても重要なのだ。

なぜならそのあふれるばかりの活力というのは人生において一時期しか発揮できないものなのだから。


次に、青春とは、けがれのない輝きそのものだ。その輝きを失わないためにも、はやく大人になろうなんて思わなくてもいい。ゆっくりゆっくり大人になればいい。

大人になるというのは、清濁合わせ飲む度量が必要になるが、青春のうちは、輝く感性に正直になってキレイだとおもったものだけ摂りこんでいけばいい。大人の政治的な駆け引きを学ぶのはもうすこし年をとってからでも遅くはない。

大人の決めたルールにはめ込まれた人間は、たとえ年が若くとももはや大人と変わらぬ無個性人間になってしまうのだ。自分だけの輝きを大切に、けがされないように、時には大人の決めたルールに反抗してもいいから自分の価値観を守っていくべきだ。


青春は、夢の集合体のようなものでもある。長い残りの人生でやりたいこと、したいこと、叶えたい夢。そういったことはたしかに大人になるにつれ、社会の仕組みを知るにつれだんだんと小さくなっていってしまうけど、それでも「ゆずれない夢」というのは最後まで自分のなかに抱えておくべきだ。

それがいずれ叶わぬ夢だとわかったとしても、早々にあきらめてしまうのと、最後まで挑戦しつづけるのとでは雲泥の違いがある。それは死ぬ間際に人生を振り返ったときに、後悔と満足感のどちらがより大きいかという点に関わってくる。

やはり、それ叶わぬとも最後まで挑戦しつづけるほうが、悔いは残らない。もし早々に投げてしまえば、後に残るのは「もうちょっとやればできたかもしれない」という悔いだけだ。

モノゴトを投げてしまうのは、誰にでも、いつでもできることだけど、それをするたびにひとつ、夢の放つ輝きを失うことになるんだ。夢は決して「叶えなければならないもの」ではないし、それを抱え続けることだけでも大変なことだし同時に価値あることなんだ。


最後に、もっとも重要なことは、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」ということなんだ。若いうちに苦労したことは必ずそのまま後に役に立つ。

若いうちは苦労であってもその活力ゆえに大したことはない。どんな苦難であっても大概のことはパワーで乗りきれてしまうものなのだ。しかし、年いってからの苦労は、パワーで乗りきれるものではない。

それなりの経験や知識でモノゴトに対処するのが大人であるわけだから、もしその経験を若いうちに積んでいなかったら対処できない、ということになる。

今後の長い人生のためにいろんな経験は若いうちに積んでおくべきであり、それはつまり若いうちの苦労は金銭に換えられない重要な宝物ということだ。むしろ買ってでも手に入れるべきだ、というのはそういう意味なんだ。だから…」


女子高生「オジサン、うだうだどうでもいいこと言ってないで、早く援助交際のおカネ払ってよ。2時間で5万円! カッコイイ言葉でごまかそうったってそうはいかないんだから」

「いや、はいはい、ごめんね。またお願いね。ハハハ…」



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