次の日、そしてさらに次の日、なんかおかしいんだ。女房の食事が減ったんだ。いや減ったというよりも食べなくなったといったほうがいいのかもしれない。 夕飯は必ず作ってあるんだけど、おれの分しかない。食べないのか、って聞くと、もう食べた、とか、いまは要らない、とかいっておれと食事をしないんだ。 単に食欲がないんだっていうんならまだいい。 でもね、違うんだ。女房の食欲はむしろ以前よりも激しかったんだ。 おれがそれに気付いたのはまたさらに数日たってからのことだ。夜中、おれが尿意を覚えてね、トイレに行こうと思って目が覚めたんだ。 すると隣の布団で寝てるはずの女房がいない。ドアの隙間から、キッチンに明かりがついてるのが見えた。 静かに上半身だけ起こしてドアの向こうを見たんだ。何が見えたと思う? ゴミ箱から生ゴミを漁って口にほおばってる女房がいたんだ。魚の骨とかね、ニンジンの皮とかね、傷んだ大根の葉っぱとかね。 おれはぞっとしたよ。その晩は、女房が音なく戻ってきて布団に入ってからも、背筋が寒くて眠れなかった。いや、毎晩、眠れないはずなんだけど、その日以来意識的に雑音とか気配とかを無視するようにして、やっと眠れてるんだ。 となりの部屋のひとなんだが、猫を飼ってるんだよ。小学生の娘さんがどこかで拾ってきた子猫なんだが、かわいい猫でね。 ほんとはマンションでは動物は飼っちゃいけないんだけど、ちゃんと娘さんが世話してるし、周りの住民も好意的だったから管理人さんも黙認してたんだよね。 でもね、ある日その猫が行方不明になっちゃんたんだ。今でもうちのマンションの掲示板に隣の女のコが描いた猫さがしのポスターが貼ってあるよ。 その猫は、珍しく白一色の猫だったんだ。いや別に血統書付きだとは思わないけど。 行方不明になったらしいその夜、おれは風呂に入ったんだよ。掃除が怠慢なのか、浴室のね、排水口が詰まってるらしくて水が流れなかったんだ。 しかたないから、金具を外して、詰まってるであろう“髪の毛”を取り除こうとしたんだ。 …そこに詰まってたのは、人間の毛じゃなかった。白い毛だったんだよ。おれは必死でいけない想像をしないように努めたよ。 まさかこの浴室で女房が猫を殺して解体して食べたなんて、事実としてあっちゃいけないことだろう? その日も含めて、おれの女房に対する疑惑はどんどん強くなっていったんだ。そしてあることにも気がついたんだ。 女房はあの日まで、香水なんてつける人間じゃなかった。人工的な臭いはキライ、とかいってね。いつもシャンプーとか石鹸の香りをさせていたんだ。でもそばにいるこっちが気持ち悪くなるくらい、香水を振り撒くようになった。 同時に、毎朝奇妙な臭いがするようになったんだ。寝室の布団が強烈ににおいを発するんだ。理由は、朝方になると香水の効き目がなくなるからだろう。結局、女房自身が強烈な異臭を発してるんだ。 おれは、これは天罰だと思ってる。やっぱり、あの時のことはほんとにあったことだったんだ。 おれはやっぱり女房を殺していたんだ。でも、神様は刑務所とかいう普通の罰じゃなくて、それよりも重い罰をおれに与えたんだと思う。女房はあのときに死んでたんだと思う。 女房の身体は、肉体はもう腐って朽ちてるんだ。女房が腐臭を発してるのはそのせいだろう。でも肉体は生きている。 神様は、おれに罰としてその腐った女房と一緒に暮らすことを、刑務所行きの替わりに与えたんだと思う。 だからおれはその罰を甘んじて受けようと思って、逃げずにこれまでやってきたんだ。これからも人殺し、いや、魂殺しの罪を償う意味で、女房と一緒に暮らしていこうと思っていた。 でも、神様はまた別の罰も用意していたらしい。神様の用意した罰を受け入れなかったら、おれは地獄に落ちるのかもしれないな。でも、おれにはもう耐えられないんだ。これ以上の罰はね。 昨日、家に帰ったら女房が言ったんだ。子供ができたってね。どんな子供なんだろうと思って怖くなったよ。 *** お客さんは3杯目の水割りを飲みきった。もう時間は二時を回っていた。 「ああ、今の話は全部作り話だって。そんなに神妙な顔するなよ」 青い顔をして酔っ払ったお客さんはそういって、私に水割りをすすめた。 「あ、これはありがとうございます。いただきます」 その後、ちょっとのあいだ、野球の話と景気の話をした。 お客さんは、一万円でおつりはいらない、といって出ていった。 ふと見ると、どうやらこのお客さんは忘れ物をしていったみたいだ。 取りに戻ってくるだろうか。 私は追いかけて手渡すべきだろうか。 目の前に置き忘れられた小さな灯油缶を前に私は考え込まずにはいられなかった。 |