呉エイジ師匠のホームページに出会ったのは去年のいまくらいだったか。 メールを交換してたHP作者のところにまず工藤圭氏のサイトへのリンクがあって、そこからとんだのだ。 それが幸か不幸かの出会いとなってしまった。 そして2〜3のメールのやりとりがあったのち、3月3日、ヒナ祭りの日にHPデビューとなった。 今日は12月3日。途中一ヶ月以上の休業、サボリもあったがあれから9ヶ月だ。 まだまだHP作りは止める予定はないけど、ここでひとつ、僕のなかでのホームページとは何かを少し考えてみたい。 ただし、一口にホームページといっても企業のHPや情報系、リンク系、あるいはアダルトサイトなどは最終的に利益指向であって、個人のホームページとは趣旨が違うので対象とはしない。 *** そう、個人で作るホームページには、情報の送り手という重要な価値があるように思われる。 考えてみてほしい。 雑誌の編集者やテレビラジオの製作に関わったことのある人以外、一般世間ではなにか自分の思いや意見、感性などを他者にぶちまけたことのある人は少ないのではないだろうか。 つまり、もっぱら『情報の受け手』であって、『情報の送り手』になってる人はほとんどいないのではないか、そう思うのだ。 毎日同じような生活のなかで、たとえば学校に行き授業を受け、塾の宿題をする。あるいはバイトや仕事に行き、与えられたタスクをこなす。 こういった生活の中では、自分の感性や思考を外界に発露する機会というのは皆無に等しい。 無論、その時々に応じて話し相手になってくれる友人や同僚はいるのだろうが、その個人の内面すべてをぶちまけられる対象にはなってくれないだろう。 特に最近の傾向で顕著なのは、『周りと同じでいたい』という横並び現象だ。 仲のいい友達がみんなそうしてるから僕もアタシもそうしなくちゃいけないんだ、というほとんど強迫観念にも近い“義務感”が横行しているような感じがする。 反対に、自分勝手なセンスや生き方を頑固に通そうとする人は『変人』として見られる傾向すらある。大人社会にはさすがに希薄だが、中学高校、そして一部の大学生のあいだにはあえてレールに乗らない人は『変人』扱いされることがある。 そんな環境においては何ものにも囚われない自由な個性の発揮など望むべくもない。 そして個人の内面をぶちまけられる機会がないというのは同時にその人の個性や感性、思考の育成を阻むことになる。 もし人間の一生の価値というものを、『どれだけその人なりの生き方をしてきたか、なによりその本人がどれだけ満足したか』という“自己実現”の度合いに求めるのならば当然、そういった個性感性の育成はかけがえのないファクターとなる。 したがって、個人が自分独自の考えや感性を伸ばそうと思うなら、他人と違うことを怖れず、自分の感性を発表していく『情報の送り手』としての機会が必要となるだろう。 *** もう一つ。 世界的な経済変化にも目を向ければ、みんなと同じことが必要とされた環境はすでに過去のものとなっている。(ここんとこ、社会的な変化と同期してないところがポイント) つまり、今後必要になろうと思われるのは『変人』たちなのだ。 みんなと同じであることが強みだったのは、経済環境においても社会環境においても未来予測が可能で、歩調のあった前進が重要だったことによる。 逆に現在は先行きが不透明で過去の習慣は使えないものとなってきている。こういうときに必要なのは過去の因習を引き継ぐことではなく、打破することだろう。 そしてそれができるのは『変人』であって、みんなと同じことを望む『普通の人』ではない。 このままいけば、会社においても学校生活においても、地域社会においても、それこそ国の政治においても一部のできる『変人』が多数の『普通の人』に強い影響を与えることになってしまうのではないだろうか。 これはその本質においてはエリート主義的構造になる。 たとえ小学校のクラスにおいても、それはありうる。活発で人気者の子供が、1クラスのすべてのおとなしい子供を率いるようなそういう構造(=エリート主義)よりも、全員が活発な人気者になったほうがより望ましいのではないだろうか。 言い換えれば、みんなが『変人』である世界のほうが今後は望ましいし、逆にそうでなければ『他者に付和雷同するしかできない人』になってしまう可能性が高いのである。 *** インターネットというツールは全員が『情報の送り手』となって、かつ、『変人』になれる機会を与えているのでないか、そんな気がするのだ。 まずはホームページをつくることで、自分の言いたいことを言う、という基盤が作れるのではないだろうか。別にそれが政治的なモノである必要はまったくないし、ダラダラとした日常生活における文句でも構わない。 ただ、自分の思考や感性を誰かにきいてもらわない限り、それらは育成されないし、他人と区別された『自分』には成りえない、ということなのだ。 ホームページ作りは究極的には自己満足の世界であって、その意味では『覗かれることを意識したオナニー』に違いない。 しかし、覗かれることがなければ、より気持ちよくなることはないのである。 そういったことで、僕もホームページを作っていきたいという人を応援していきたい。 呉エイジ師匠にはその点に共鳴し、今に至っている。 |