京都の五花街

 
舞妓さん。芸妓さん。京都の観光名物のようなものだ。今回は、ちょっとこの舞妓さんと芸妓さんがいる「花街」というものについて簡単に説明したい。別に笑える話でもなければ役に立つ知識でもないのだが、これらについてよく知ってる、という人は、京都にいても結構数が少ないのである。

京都には、5つ、舞妓さんと芸妓さんがいるという花街がある。それは、祇園(甲部)、先斗町、宮川町、上七軒、祇園東(乙部)の5つである。どれが一番格式がよいか、というには一概にはいえないのだが、それぞれに特色がある。

まず、祇園。おそらく京都花街の一番手であろう。大石蔵之助が遊んだという一力茶屋もここにある。八坂神社の近くにあり、四条よりも南にある。

先斗町は祇園から西に行き、鴨川をわたってすぐのところにある細い通りだ。これと平行して学生街である木屋町通りがすぐそばにある。祇園についで有名な花街だろう。

宮川町は祇園よりも南にあり、人数では他の追随を許さないが、格式の点で一歩劣るといわれている。木屋町で声をかけたら実は宮川町の舞妓さんだった、という話はめずらしくはない。ほんとは外に遊びにでたらいけないのだ。

次に、上七軒。ここが五花街のなかでも最も古く、由緒格式が高いとされている。しかしその規模の点では他の花街に著しく劣る。北野天満宮の近くにあり、他の花街が四条近くにあることに比べると、交通の点で弱みがある。

祇園東は、祇園乙部といわれることもあるが、それは歴史上はもともと祇園の一部だったことに由来する。そして甲乙と差をつけられているのは、実は祇園から下部団体として切り離されたからである。したがって、祇園乙部に客として出入りしている人と、祇園甲部に客として出入りしている人には自ずと社会的ステイタスに差が出来てしまうのである。

本来、お茶屋とは、座敷を貸し出すいわばコンサートホールのようなもので、そこに舞妓さんや芸妓さんが常駐しているわけではなかった。置屋と呼ばれるタレント事務所から借りてくるのが普通であった。そしてその置屋と呼ばれる家では、女将さんと舞妓さんがあたかも親子のような擬似親子関係を結び、舞妓さん、芸妓さんは女将さんのことを「おかあさん」と呼ぶ。

ちなみに花街稼業は完全に女性が行い、男衆が表にでることはない。各お茶屋の顧客として名前を連ねるだけである。いわばパトロン、スポンサーということだ。そしてそのスポンサーというのは非常にステイタスが高く、京都においてはそれだけで社会的地位が約束されているようなものでもある。

現在はお茶屋と置屋をかねているのが一般的で、どこどこのお茶屋のだれだれ(舞妓)という呼ばれ方をする。まあ、別にどこのお茶屋にいてもどこの置屋の舞妓を「呼ぶ」ことは可能なので、あまり関係はないのだが。

しかし、各花街においては、お茶屋をとっかえひっかえすることは許されていない。不思議なものである。つまり、あるお客さんがはじめにAというお茶屋のお客さんになってしまったら、もはや同じ花街にあるBというお茶屋の客にはなれないのだ。足を踏み入れたらいけないというワケではないが、そこの花街での飲食代はすべてAというお茶屋が立て替えて、月末に客に請求する。

つまり、Bでの飲食もAがたてかえるのである。さて、実はここで中間搾取があるのだ。極端な話、たとえばその月、Bで一万円しか使わなくても、Aは一万五千円を請求することになる。だから、結局はお客さんはこれといった事情がないかぎり、Aを使うことになる。もちろん他のお茶屋から舞妓さんを呼んでもいいのだが、結局Bからの請求に加え、Aの上乗せがあるので、Aの舞妓さんを頼んだほうがお得、ということである。

花街には基本的に、「すでにそこのお客である誰か」に連れていってもらう以外、足を踏み入れることができない。世間でいう一見さんお断りである。たしかに最近はお茶屋が片手間に営業するバーも増えては来たが、それでもはっきりいって、「そこにそれがあることを知ってる人しかはいれない」のである。

しかも、お茶屋は客を選ぶ。連れていってもらい面識が出来たからといってもその場で新たな客としては認められない。もちろん医者とか弁護士とか、新たに京都に赴任してきた銀行支店長やらはOKなのだが、普通のサラリーマンではしばらく何回か連れてきてもらわないとダメだろう。信用を得るのは少し難しいのだ。

話を少し変えよう。現在は雄琴の温泉街が関西圏の風俗地区(ソープ)として有名なのだが、あれは実はルーツを辿ると京都の舞妓・芸妓に行き当たる。やはり、戦前は舞妓・芸妓と一口にいっても上から下まで範囲があった。知識や教養、踊りや小唄の技術がない舞妓やら芸妓はその身を売ることもしばしばであった。むしろそれを専門にした人たちで吉原のような地区(=島原)を作っていたこともあった。

しかし、戦後の赤線・青線廃止の動きに伴って、京都ではそういった下部の舞妓・芸妓を追い出しにかかったのである。そして彼女らが行きついた先が雄琴の温泉だったというわけだ。その影響は現在にも引き継がれ、京都ではいまだにソープランドはない。裏を返していえば、雄琴が有名になったのは京都から下部の舞妓・芸妓が追い出されてからであり、それまでは単なる温泉街であったのだ。結構知られていない事実である。

従って、現在の京都の花街では、戦前のように「各舞妓につきひとりのスポンサー」という形式は見られない。もちろん、毎回好んで食事やお酒につきあわせる舞妓は決まっていたりはするのだが、それでも「夜の関係」はないと断言できる。よく雑誌で舞妓の「水揚げ」にウン千万とか書かれていたりもするが、それは戦前の話であって、現在では聞かれることはない。

舞妓・芸妓と聞いて、長期売春契約といいかえるのはまちがいである。いまのお茶屋業はむしろコンパニオン派遣会社に近い営業をしていて、主収入は宴会、座敷などへの派遣代(花代)、座敷使用料である。

これで少しはわかってもらえただろうか。
 


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