渋谷の駅前には有名な犬の像がある。 忠犬ハチ公。 その有名な名前は映画にもなったくらいで、誰もがその名前を知っている。 と同時に、亡き主人を迎えに毎日渋谷の駅に迎えに行ったことは万人の涙を誘うに値する感動のお話でもある。 そしてハチ公の死後、その健気さをたたえるために、渋谷駅の前には銅像がたてられ、待ち合わせの場所として今も渋谷を行き交う人々に愛され慕われている。 そんな忠犬ハチ公の銅像だが、どうやらその場所に何十年といたおかげで神様が「心」を与えたらしいのだ。 何でも人間の心を感じ取ってしまう、そういう「心」。 そういう、渋谷を行き交う人々を見守るハチ公だが、いくつか憂鬱があるらしい。 今日は、そんなお話。 ***** 某月某日、午前6時。 大学生くらいの青年がフラフラとセンター街のほうから歩いてきた。 どうやら酔っているらしい。 忠犬ハチ公の銅像を見つけると駆け寄ってきて、満面の笑顔を見せてこう言った。 やったよ。オレ、とうとう初めてのセックスをしたんだよ。やっぱりアレって最高だな。 青年はあまりモテそうな顔ではなかった。 きっとこれまでずっと童貞を守ってきたのだろう。 今日は彼の、彼なりの記念日になるはずだ。 これからの明るいセックスライフに乾杯! 若者はハチ公の銅像がそう微笑んでいるように思えた。 ***** 午後6時50分。 一人のスーツを着た若者が植え込みのブロックに腰掛けて、沈鬱な面持ちでタバコを吸っている。 6時くらいから1時間近くそこにいるのだ。 誰かを待っているらしい。 待っているのはきっと彼女なんだろうか。 それにしてもあの思いつめた表情は普通のデートの待ち合わせではないだろう。 それならもっと楽しげな表情をして彼女を待つはずなのだ。 足元に散らばったタバコは優に20本を超えている。 きっと何か深刻な話でもするに違いない。 そういえば、背広のポケットには何か入っているようなふくらみがある。 あれはもしかして婚約指輪だろうか。 きっとこれから結婚のプロポーズでもするのかもしれない。 一人の女性が近寄ってきた。 笑顔で、あら、早かったのね、約束は7時なのに、と言った。 青年はぎこちない笑顔を向けて、ああ、なんとなくね、と答えた。 行こうか。 そういう青年の後をついて、その女性も消えていった。 ***** 午後8時ちょっと過ぎ。 パッションピンクのルージュにトロピカル系デザインのミニスカート。 そして厚底靴を履いてメンソールのタバコをカッコよく吸っている色黒の姿は渋谷では珍しくはない。 5〜6分ほどタバコを吸っていたが、どうやら待ち合わせの相手が来たようだ。 あ、あなたがサヤちゃん? 脂ぎった禿頭には汗が浮かんでいる。 三段腹がベルトからもれて肉がはみ出ていて、歩くたびにその“もれた肉”が揺れている。 くたびれたワイシャツからセンスの悪いネクタイがぶら下がっていて、“肉”の上に乗っていた。 少女は一瞬汚いモノを見るような視線を送ったが、すぐに笑顔になって、 ハイ、あなたがさっきの電話のオジサマ? 2人はなんとなくうしろめたい雰囲気をかもし出しながら、円山町のホテル街へと足を向けた。 ***** 午後10時。 ハチ公の前で一組の男女が少し緊張をともなって話をしていた。 2人とも顔が少し赤く、そしてセンター街の方から歩いてきたところを見るとどうやら居酒屋にでも行った帰りの、別れ際なのだろうか。 なあ、おれの気持ち、わかってるんだろ? ・・・うん。 おれ、おまえのことが本気で好きなんだ。 ・・・。 おれはおまえを抱きたい。帰るなよ。 でも、、、。 いや、いいんだ、ごめん。おまえがそういうオンナじゃないっていうのはよくわかってる。言ってみただけさ。 そう・・・。 結婚までは貞節を守るんだろ? いいと思うよ、そういうの。 ・・・ありがとうね。 なあ、おれたち結婚しないか? 女性はうつむいて少し男の顔をのぞきこんだ。 そして、 ごめん、今日は帰るね。でも、・・・うれしい。 男は少しだけ寂しそうな顔をしたあとすぐに、 わかったよ、今日はいいよ。また一緒に飲みに来ような。改札まで送るよ。 静かに、2人は去っていった。 |