安楽死とは死期が迫っている病者の熾烈な肉体的苦痛を緩和、除去して、病者に安らかな死を迎えさせる行為をいう。 人間の生命の尊厳という見地からすれば生命の短縮を伴う安楽死は適法化されないともいえる。 しかし、医学の進歩した今日、死に勝るともいえる苦痛に襲われている者の意思を尊重して行われた行為がいかなる場合にも違法との評価を受けるとすることは必ずしも妥当とはいえないであろう。 そこで、厳格な要件を具備する場合に限って、安楽死が違法性阻却事由となることを認めるべきと考えるのが通説となっている。
つまり、これら要件のうち、ひとつでも当てはまらない要件があればそれは安楽死の対象とはなりえず、医師ならびに病院には殺人罪の容疑さえかかることになる。 ***** ある年の暮れ。大晦日の晩のこと。 清潔な白いシーツが敷かれたベッドに横たわる老人がいた。 一般に「死」とは、脳波の停止ならびに心臓停止によって「死」として認定される。 逆にいえば、脳波が正常であり、心臓も血液を循環させるポンプの役目を果たしていれば「死」ではないことになる。 医学の進歩は目ざましいもので、医療機器の開発も驚異的な速さで進んでいた。 老人の左右のこめかみ部分には、電極板がシールで貼られていた。 脳波は一種の電気信号なので、微弱化した脳波でもその電気信号を増幅すれば、一般の正常な脳波と同じ役割を果たすのである。 その電極板はその脳波増幅装置であった。 そしてその老人、肺機能が劣っているのか、鼻にはチューブがささっていて、そのチューブは酸素ボンベにつながっていた。 心臓も、小型化されたペースメーカーが組み込まれて正常な鼓動を打ち、血液が体内を循環するポンプの役目を立派に果たしている。 腎臓機能の低下は、24時間稼動している人工透析によって補完され、尿道に入ったカテーテルからはちゃんと尿が排出されるようになっていた。 しかし、筋力の衰えだけは如何ともしがたく、アゴの筋肉が弱ってしまってモノを噛み砕けないのは仕方のないことだった。 ここしばらくのあいだはずっと上腕部静脈への点滴で栄養・ビタミンを摂取している。 老人は、目が覚めたのか、少しまぶたを開けた。 しかし、この病院に入ってからは視界に入るものはずっと一緒だ。 透明のカーテンでしきられた向こう側に見えるゴッホの絵。 そして白い壁。 老人はベルを押して看護婦さんと医師を呼んだ。 駆けつけた看護婦5名と医師3名に向かって、 老人「なあ、ワシはもう充分生きたと思うんだが、そろそろこのチューブやらを外してもらえんかの?」 医師の一人「いえ、それは困ります。だってまだ充分に健康じゃないですか。カラダのどこも痛くないんでしょう? 安楽死っていうのは『耐えがたい肉体的苦痛』がなかったらできないんですよ。我々も殺人罪になってしまいますしね。」 老人は、何回この質問を訊き、そして何回同じ答えをもらったのか、もう忘れてしまった。 もう長いこと同じ質問を繰り返した気がするのだが。 老人はまたまぶたを閉じた。 ・・・医学も薬学も進歩して、どんな苦痛も和らげることが可能になった今日、「安楽死」が認められるなんてこと、あるんだろうか? ぼーん、ぼーん、ぼーん、・・・、 除夜の鐘が遠くから響いてきた。 このベッドに寝てから何回めの除夜の鐘だろうか。 日本はその晩、平成392年の正月を迎えた。 |