恋愛は格闘技だ!


別に、このコーナーを終了させるつもりはまったくないのだが、ここで中間整理という形で、このコーナーの示す点をいくつかまとめてみたい。っていうか、僕の恋愛観。

普通の人間には、残念ながら、テレパシーとか読心術とかいった超能力は備わっていない。“わかりあえるニュータイプ”が現われるのは宇宙世紀に入ってからである(笑)。
だから、誰かに自分の考えを伝えようと思ったら、言葉なり行動なりで相手と意志の疎通を図らなければならない。これがいわゆるコミュニケーションというものだ。

コミュニケーションっていうのは、いくつかの媒体手段によって成立するものである。例えば言語。普段日本にいるぼくたちは、日本語をあいだにはさんで意志の疎通を図る。そして場合によっては行動で示すこともある。しかし、実はその媒体手段はかなり「信頼できない」ものだったりするのだ。

意思疎通の媒体は信頼できない、とはどういうことか。簡単にいってしまえば、「相手の言葉や行動が示す事柄に対しては、いくつかの捉え方がある」ということだ。一通りに定まらないのである。

日本語は、アジアの東にある一つの島で使われてる言葉であって、世界中にはたくさんの言語がある。英語もそのひとつなのだが、言語というのは実はその土着の文化や価値観に非常に強い影響を受けるものだ。

だから、世界中にある言語の数だけその価値観があるといってもいいだろう。この考え方を延長させてしまえば、土地柄によって言葉のもつ重み、意味が異なるということであり、それは日本国内を考えてみても通用することである。

実際、関東と関西の笑いの文化が違うのであって、それは言葉のもつ意味、力が異なっている証拠であろう。


言葉同様に、行動に対する捉え方も、土地柄に基づく文化や価値観によって、評価が異なってしまうのである。例えば、あいさつの仕方一つをとってみても、「最もていねいとされる挨拶の仕方」が階級や土地によって異なることは周知のことだ。

ところで価値観というのは、ひとそれぞれ微妙に異なっている。出身地が異なれば育った環境も違うわけで当然あたまに植え込まれた価値観は違ってくる。そして、階級によっても影響されるし、最終的にはどんな行き方をしてきたか、という究極的なところで価値観が異なってしまうのだ。

このように、意志の疎通を取り持つ媒介手段__言葉や行動__そのものが一通りでないために、相手に何か重要なことを理解してもらうためには、非常な困難が伴うのである。まして、恋愛に関することとなれば、あらゆる媒介手段を通じて理解させる努力をしないことには、伝えたいことの半分も伝わらない。

なぜなら、毎日新しい新聞を読むことはあっても、毎日違う恋愛をする人がいないからである。新聞の記事を読むように、新しいパターンに対して馴れているわけではないから、いってみれば「みんな初心者」みたいなものなのだ。

初心者どうしの意志の疎通というものは、例えば、それこそ習いたての英語で会話しろ、というのと同じだ。経験が少ないために事柄がスムーズにいかないのだ。

しかも恋愛初心者どうしが、恋愛に関して意志の疎通を図ろうとするとき、そこにはどうしても部分的な欠落が生じてしまう。つまり、「言いたいこと、伝えたい気持ちの全部が伝えられるわけではない」ということだ。

特に、好意というもの自体が論理的に理解できるものでは到底ないのだから、それを言語などの意思疎通媒介手段に翻訳した時点でなんらかの不都合が生じるのである。

人間の、論理では説明できない気持ちというものを伝えるときには、あらゆる手段を尽くして努力しなくちゃいけない。そして相手の気持ちを奪取するためには、もはや格闘技といっても過言ではないような知略体力を尽くした戦略が必要なのだ。

だから恋愛は格闘技。

好きな人がいて、つきあってほしいんなら、まず自分のその気持ちを理解させるところから始めなくちゃいけない。その次には、自分のいいところをアピールして、振り向かせなくちゃいけない。相手だって人間なんだから当然その気持ちは論理的じゃない。だからこそ、大変ということでもある。

論理的じゃないからこそ、人生でもっとも楽しいイベントなんだけどね。



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