はだかの王様
〜権威と正直者〜



 


今日は息子の幼稚園の催しものがあって、このデパートの個展に来た。

息子のタカシは今年年長さんで5歳になる。

幼稚園の企画で、子供たちに有名な書家の先生の個展がデパートで開かれているのでそれを観覧しにいこう、という日曜日企画なのだ。

確かに、小さいときからこういう「本物」に触れていくことは情操教育にもいいのだろう。

タカシの通う幼稚園では、たまにこういう親子参加の企画があるが、親でも楽しめるという意味では今回の書道展はこれまでのなかでもいい方かもしれない。

ちなみにこれまでの親子参加企画は、『親子で芋掘り』、『親子で潮干狩り』、『親子で歌舞伎鑑賞』だった。

さすがに歌舞伎はつまらなかったらしくタカシは途中で眠ってしまったが、あとの二つはなかなか楽しんだようだった。

今日のデパートの書道展は、なにやらよくわからないが日本で指折りの書家の先生が書いたこれまでの作品のほとんどが展示されているのだという。

タカシには別に書道家になってほしいわけではないが、書道というものは精神を集中させる点で心を鍛えるものだし、その作品を見てその精神集中の跡を見ることは悪いことではない。

なにより、幼稚園が事前に連絡しておいたらしく、その有名書道家のお話も聞けるというのだ。

多分子供たちにわかりやすく砕いた話をしていただけるのだろうが、それでもためになる話というのは年代を問わないものだろう。

私はそういう意味ではこの企画はなかなかいいな、と思ったのだ。

それに帰りは自由なので、デパートでおもちゃの一つも買ってあげて、屋上のレストランで親子で食事でもしようか、と思っている。

いつも仕事仕事で家に帰るのも遅いし、寝顔しか見られない日がほとんどなのだ。

妻はマンションの自治会会議でいないし、父と息子で話するのもたまにはいいかもしれない。

*****

書道展は、いくつかのブースに分かれていて、どうやら若いころの作品から最近の作品まで順番に展示されているらしい。

若いころはどうやら『書道家』だったらしいが、最近の作品をみるとどうやら多少の前衛性をともなって『芸術家』になってきたらしい。

若いころの作品は、なんとか何の字を書いているのか判読できるのだが、最近の作品の多くは何の字を書いているのか読み取るのが困難なのだ。

ブースを一周して、受けつけ前に設置された数列のベンチにこの小さなツアーの参加者は腰をおろした。

どうやらこれから書道家の先生のお話が始まるらしい。

現れたのは白髪で長髪、白いヒゲを生やした和服の老人だった。

恰幅もよく、力強さを全身から発揮していた。

なるほど、書道界の権威を全身にまとわせている感じだ。

付き人が線の細い弱々しいかんじの男性だったからなおさらそう思ったのかもしれない。

付き人「それではこれからイジュウイン タイザン先生からみなさんにお話があります。静かに聞いてくださいね」

静かに壇上に立つイジュウイン氏。こうしてみると人間の大きさがわかる。

イジュウイン「ワタシがイジュンインだ。これから、『書』とは何か、それについて簡単に説明したいと思う」

・・・・・・。

そこから始まった講義は、残念ながら子供たちには観念的すぎてわからなかっただろう。

20分ばかりの短い講義だったが、じっとしていられなかったらしくタカシはずっとあたりをキョロキョロ見回して、私は何回か注意しなくてはいけなかった。

私はといっても、文系出身であるにもかかわらずその話はあまりにも哲学的な感じがして、あまりよくわからなかった。

こういう難解な話をありがたがって聞くのは、権威に踊らされている、ということなのだろうか。

講義っていうのは聞いている人が理解できて初めて価値のあるものなのにね。

終わった後に拍手は一応したけど、これってどうなんだろう。

みんながありがたがるから、それに乗ってるだけってことなんだろうか。

付き人「先生、ありがとうございました。ところで元気なみんな、ここで先生に何か聞きたいことはありますか?」

誰も質問なんてできないよ…、と思ったが。

付き人も、周りのお父さんも、幼稚園の先生も、書道家の先生もみんな、私のほうを見ている。

いや、正確には私ではなく、隣で手をあげていたタカシだった。

付き人「はい、そこの元気な男の子」

タカシ「あのね、おじさんの字、下手だからよく読めないの。

ボクもお父さんに『字を書くときは読める字を書きなさい』って怒られるんだけど、おじさんの字、下手でよく読めないの。

だからボク、来週から書道を習いに行くの。おじさんも一緒に行こうよ」

私は背中に絶対零度の氷を付きつけられた感じがした。

場は完全に静まり返って、誰も口を開くことはできなかった。

周りのお父さんも、幼稚園の先生も、書道家の先生も、目を丸くしたまま硬直していた。

神経質そうな付き人は口をパクパクさせて、私の顔と、ひきつった顔の書道の大家を見比べていた。

ほんの数秒のできごとだったのだろうが、一番先に冷静さを取り戻したのは、多分私だっただろう。

ここで私が「タカシ、それは違うんだよ、あれは芸術だから、いいんだ。ヘタっていうのとは違うんだ」とたしなめればとりあえずこの場は収まるに違いない。

だが。

タカシの直感もそれはそれで正しいのではないだろうか。

字は読めて初めて文字としての価値を持つし、ミミズがのたくったような字が芸術たりうるのは我々見る者が“書道の大家”という『権威』にただ従がって自分の目をふさいでいるからではないだろうか。

タカシはまだ小さいから、その『権威』に目をふさがれることもなかっただけなのだ。

だけれども、こういった『権威』が芸術の本質であるともいえる。

だからここでタカシに『芸術の権威』を教えるのも必要なことであるのかもしれない。

全員が私の口元に注目している。

どちらを選択したらよいのだろう。

タカシの直感か、厳然たる権威の存在か。

私は決心ともあきらめともつかぬ表情をしていたに違いない。

「タカシ、あのな、・・・」





【解説】
『バカには見えない服』を着ている王様に向かって、「王様はハダカだ」と言えたのは王様の権威とか「社会での暗黙の了解」とかいったものとは無縁な無邪気な子供だった。

普段われわれは気付かぬうちに『社会のルール』、『一般常識』、『権威』というものに縛られて自分の目をふさがれてしまっているのではないだろうか。

確かに厳然としてある程度の強制力をともなった『常識』というものは存在するしそれは無視できないが、一方でそれがために価値判断能力というのを削られているような気がする。

今回の話はそこらへんに問題関心をもって作ってみた。

さて、あなたならタカシに対してどういうセリフを言いますか?

 


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