<特集>ティク・ナット・ハンとの出会い



JAPANESE BUDDHIST AND MINDFULNESS

戸松義晴さん(浄土宗心光院住職)に聞く


 ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンの来日が意義深いものになったのは、何人もの日本の若い仏教者たちが、自分の問題としてこのプロジェクトに参加していたことが大きいと思う。宗派の殻に閉じこもるのではなく、よりひらかれたものとして仏教を考え、それを社会に、世界にひろげていく。ハーバード大学留学時にティク・ナット・ハンと出会った戸松さん。日本人としてもっとも早い時期にティク・ナット・ハンに接したひとりだ。


きっかけはカンボジア難民

戸松 これINEB(International Network of Engaged Buddhist)の会議の議事録なんです。ジェンダー、人権、非暴力、エコロジーとかに関するワークショップもあるんですよ。ティク・ナット・ハンの代理がアメリカから来ていました。毎年タイでやっているんですが、ビルマからは民主勢力のお坊さんと政府よりのガチガチのお坊さんと両方来ていました。
WAY こういうのってタイ国内ではどう受け取られているんですか。
戸松 どっちかというと社会問題なんかにかかわっているお坊さんたちはタイではアウトサイダーなんです。タイの一般的なお坊さんというのはお寺にこもって外界とは一切関係をもたないで修行するものとされていますから。
WAY これ、面白いと思うんですけど、日本にはなかなか伝わってこないですよね。
戸松 逆にあんまりマスコミで報道されて盛り上がるより、もっとじっくり根づかせていきたいですね。たとえば社会行動をすることと仏教徒であることはどうかかわってくるのか。ふつうの社会運動家とどうちがうのか。その行動が仏教の基本的な価値観やプラクティスにちゃんと根ざしているのか。そのへんをきちんと定着させてからでも遅くないでしょう。
WAY タイのほうにはどれくらいの割合で?
戸松 一ヵ月に一回です。具体的な行動と仏教の教えがどうかかわっているのかの授業です。キリスト教の応用神学の方法論をつかっていろんな授業をやっています。
WAY このへんについては戸松さん自身は関心があったんですか。
戸松 正直言って、関心を持つようになったのは浄土宗でカンボジアの難民救援活動をしたときですね。その後東京浄青の常任委員になったときブータンで、自分たちで場所を指定して金額も決めて、どういう援助をするか責任を持ってやったりしたことが契機でした。
WAY やっぱりカンボジアの難民問題というのは日本の仏教者に与えた影響というのは大きいみたいですね。
戸松 そう思います。曹洞宗国際ボランティア会もそうだし、東京浄青もそこからスタートしているし。ちょうどいろんなものが重なっていると思うんです。安保のころの世代でベトナム戦争があったり、感受性の豊かな時代にいろんなことが起こりましたから。


心の底から念仏が出た

WAY 戸松さんは何年生まれなんですか。
戸松 昭和28年です。5歳のときに東京タワーができて、小学校6年生のときがオリンピックです。
WAY 高度成長とともに育ったんですね。お寺に生まれて、環境的には順風満帆というか、社会と係わっていくというほうに行きにくいという気もしますが。
戸松 おっしゃることはよく分かります。問題意識を持たずにお葬式をして、法事をしてお檀家とのかかわりあいのなかで生きていくというふうになりがちですよね。私もそういう時期もあったし、僧侶になることじたいなにか決意があったわけじゃないですから。大学も仏教の大学じゃなかったし。
WAY 慶応ですよね。何学部?
戸松 文学部です。音楽が好きで、そっちのほうへ進もうと思ったこともあったんです。でもいろいろ考えてお坊さんの資格をとったんです。あんまり深いモチベーションがなくて恥ずかしいんですが。
WAY でも、みんなそうでしょう。
戸松 本音のところはね。いろんな問題意識が出始めたのは海外でいろいろ体験して、自分も辛い目にあってからですよね。本で読んだりひとから話を聞いてそのときは感動しても、長続きしないんです向こうへ行って人間関係ができて、具体的な顔が出てきてからですね。
WAY 一番大きなきっかけはなんですか。
戸松 ハーバード大学のハービー・コックス教授の下でフィリピンにおける売春と搾取、罪の意識、キリスト教の役割を調査にいったときにのこと。すごい下痢になりましてね。抗生物質飲んでも治らない。お腹が収縮するような痛みが連続してくるんです。最初は20分に一回だったのが3分に一回になり、お医者さんを呼んだらこんなのはフィリピンでは当たり前でなんでもないよ、という。「たぶん、赤痢かなんかじゃない? 注射とORC飲んでれば治るって」だって(笑)。
 そのときほんとうに下痢のつらさというのが分かりましたね。ああ、このままいったら死んじゃうんじゃないかな、と。実は注射されてもぜんぜん良くならなかったんです。そのときに思わず、心の底から念仏が出たんです。それで少し楽になって、眠れた。残念ながらその感動はすぐに消えてしまいましたけどね。
 第三世界の子どもたちはこういうつらさを日常的に味わっているんですから、大変ですよ。あんまりつらすぎるのは糧にはならない。
 精神的には自分自身への嫌悪感です。たとえば私たちのこういう生活とアジアのひとたちがどのようにかかわっているか。私たちは寒ければ暖房をいれ、暑ければクーラーをいれる。それによって地球環境を破壊しているんです。そういうことをしつつエコロジーだとか縁起の法だとかいう話をしている。
 でもほんとに暑いときはクーラーのある部屋に入らずにはいられないところもある。タイなんか4月に行くと40度近くになるわけです。それだけ暑いときに動き回るためにはクーラーなしではとても持たない。そうなると自分のやろうとしていることと実際の行動が矛盾するということになってしまう。


自分に対する主体的な問いかけ

戸松 このあいだINEBの会議も基本的にお坊さんは外で寝るんです。傘とうすいござをもらって。私たちは図書館にマットを敷いて寝ました。クーラーはどこにもなくて、食事は玄米。そこは自給自足の生活なんです。120人いるんですけど、食事は毎回おかずは2品、ごはん、くだもの。順番にとっていく。タイニング・テーブルもなくて、外で食べる。終わるとタライが4つ置いてありまして食器を洗うんですが混雑もしないし、ゴミもほとんど出ない。間食もできない。そうすると体重は少し減ったし、お腹は快調。
 日本の修行とは違いますね。日本だと出てくる食事を食べるだけで食器を洗ったりしません。カリキュラムをいかにこなしていくかが重視されて、マインドフルになれないんです。
 たとえば、携帯電話を持つということがマインドフルになれない原因じゃないか。おそらくひとりの人間ができることは限られていて、それぞれのひとが自分のできる範囲を守っていけばそういう問題は出てこないんだろうけど、早く移動できる乗り物とか携帯電話とかを利用して自分の力以上のことをしようとすると問題が出てくる。
WAY いろんなところにひずみって出てくるでしょうからね。
戸松 一番歪みがでているのは私のからだでしょうね。あるお坊さんが話すんですが、お葬式のとき、亡くなった方はまず自分のからだに感謝しなさい。ふだん私たちは足が短いだの、太ってるだの文句を言うけれど、からだのほうはなんにも言わずに休むことなく、働いてくれたんだから、と。このへんはティク・ナット・ハンでも浄土宗では法然上人にしても、同じなんです。ようするに主体的な問い掛けですから。ティク・ナット・ハンも自分自身にほほえむことができないで、どうして他人にほほえむことができようか、という。その一番小さい単位が家族であり、それがコミュニティにひろがって、社会になる。さらに世界とどうかかわっていくかをメディテーションによってみていく。


なぜ念仏なのか

戸松 法然上人もなぜ念仏を選んだかというと、学問的に研究したんじゃなくて、自分自身がどうやったら救われるのかと悩んだ末のことなんです。ティク・ナット・ハンに感銘をうけたのは、おそらくそういうところなんです。
WAY ああ、浄土宗とティク・ナット・ハンとの関係までは考えていませんでした。
戸松 私自身が僧侶ですし、法然上人の研究はずっとしてますから。浄土宗の教学では念仏は法然上人が選んだのではなくて阿弥陀仏の選択なんだといいますが、もっと自分自身が納得できる説明が欲しかったんです。法然上人が念仏を得て、そのまま山にこもって念仏しててもよかったんです。それが比叡山を降りてまで法を説いたのはなぜなのか。ティク・ナット・ハンも根本にある精神は同じだと思う。


座ってほほえんでいるだけで仏教を伝えるひと

WAY ティク・ナット・ハンを最初に知ったのは?
戸松 授業で推薦された本のなかに彼の本があったんです。そしてどこの本屋さんに行ってもダライ・ラマよりも、鈴木大拙の本よりもティク・ナット・ハンの本が多いんです。びっくりしましたね、ぜんぜん知りませんでしたから。タイトルを見るとどれもサウンズ・グットというか、響きがいい。値段も安いから、思わず3冊くらい買いました。読んでみて、また感銘を受けました。
 1991年のこと、ちょうどリトリートのためにボストンにいらっしゃることになった。そのとき親友のベトナムの難民の僧侶とチベット人の難民のお坊さんと三人でティク・ナット・ハンが滞在しているホストファミリーの家に招かれていったんです。5時間くらいいっしょに食事をして、いろいろ話をしました。そのとき話をしなくても、座ってほほえんでいるだけでも仏教が伝わってくるひとだなあと思いました。それだけの経験と修行をされている。
 このあいだのINEBの会議でもマハ・ゴサナンダ師とお会いしてお話したんですが、同じものを感じましたね。みなさんハンブルで難しいことを言わなくても仏教の教えを体現してい。
WAY やさしすぎて拍子抜けしちゃうくらい。でもやさしくいうほうが難しいんですよね。


行と行動が一致する

戸松 それと、行と行動は切り離せない、仏教の修行と社会的なアクションは同じだという部分ですよね。それは智恵と慈悲と言っちゃうとすんじゃいますが、慈悲を具体的なコンテクストで言うとそういうふうになるんだと思うんです。
 お会いしたときに、日本に来て日本のお坊さんに話をしてくださいと言ったら、「私は日本の仏教徒にはたいへん失望しています」と言われて、ショックを受けました。でも「静かな場所で、多くの人間が入れて、ウオーキング・メディテーションが出来るような場所を用意してくれたら行ってもいい」と言っていました。
 印象的だったのは友人ふたりがマスターコースを終わって、国へもどってひとびとのために働くべきかそれともさらに上へ進むのか悩んでいて、相談したんです。彼は「お坊さんにはPHDは要りません。逆に、お坊さんでお医者さんになったり法律家になったりするひとが出てこないのか、不思議でしょうがない」と言っていました。けっこうショックでしたね。
WAY 雰囲気はやわらかいけれど、言うことははっきりしているんですね。
戸松 ほんとにゆっくり小さい声で、ひと言ひと言やさしい声で言われるんです。食事の最後にお茶が出たんですが、それを私たち学生にどうぞといって渡してくれる。それがポーズとかじゃなくて自然なんです。厳しいけれどやさしい、包まれるような感じがありましたね。そのときから、ずっと日本に呼びたいと思ってアメリカで手に入るティク・ナット・ハン関係の資料はぜんぶ手に入れました。
WAY 戸松さんは日本人としては、かなりはやくに出会っているんですね。
戸松 アメリカにいて仏教や宗教に関心のあるひとなら、誰でも知っていますから。本屋さんに行けば、誰でも手が延びる本ですから。


マインドフルになれない
日本のお坊さん

WAY 浄土宗のお坊さんとして今回の招聘にかかわっていて、日本の仏教に対する思いというのはどうでしょう。
戸松 自分自身をふりかえりますと、今の日本で、マインドフルに過ごしていないのはお坊さんじゃないかと思うんです。みなさんと会ってお話したりすると、ずっと私よりもマインドフルな生活を送っている。皮肉なんですがボランティアの仕事をしたりしていると、ますます忙しくなってしまう。時間に追われて携帯電話を持ち歩いたり、自分を見失ってしまう。本末転倒なんです。だからもう一度自分自身を見直してみることも重要じゃないかなと思う。
 お坊さんがマインドフルじゃなかったらなんにも通じないと思う。一日に4つも5つも法事をやって、次の法事は何時からだからあと何分で終わらなくちゃとか考えている。でも現実問題としてお檀家さんの希望は土日に集中しますから、それも大切にしなければならない。
 みなさんはティク・ナット・ハンの教えを理念としてじゃなくて、実際の生活のなかで実践されている。それも大きな団体ではなくて、自分たちのコミュニティに根ざして小さいグループでしている。そこに価値があると思う。だからみなさんが言われていると思うんですが、この機会をとおしてサンガづくりの練習をしていると感じです。
WAY よく考えてみると不思議ですよね。みんな年齢はバラバラだし、仕事も別々だし。宗教もいろいろだし。戸松さんが浄土宗に呼びかけてみて反応はどうですか。
戸松 今回の主催は浄土宗総合研究所なんです。浄土宗のこれからを考えて、学問的な勉強をするというより社会との接点を探っていくという機関です。私がやっているのは環境と平和の研究班といって特にアジアの仏教者の社会活動を研究していくもの。今回のティク・ナット・ハンの鎌倉での一日講習も、ほんらいはお坊さんに来ていただいてお念仏とは違う方法を学んでもらいたいと思っています。
WAY お坊さんたちの反応はどうなんですか。
戸松 知名度が高くないですからね、難しいものがあります。それから、日本の仏教徒の方々がお坊さんに期待しているものは違うのかもしれません。ようするにお寺にいて、お葬式と法事をきちんとやってくれるのがいいお坊さんだという。私はお檀家さんにいつも言われていますから。「住職というのは住む職と書くんですよ」って(笑)。


仏教の多様化へ

戸松 そういう意味では日本的な宗教観が欧米とは違うという気はします。でもどれが本物というのではなく、今までになかったかたちを知って体験するのが大事だと思います。そのあとはそれぞれが考えればいい。私はなにも日本仏教がぜんぶティク・ナット・ハンみたいになればいいとは考えていません。ただもうちょっと多様化してくるといい。もっと社会的な活動をする仏教、儀礼をする仏教、妻帯せずに修行する仏教。いろんなものがでてきて刺激しあっていけばいい方向へいくと思います。
 葬式仏教といっても、それじたいが悪いのではなくて、そこでのお布施が生かされていないということが批判されるわけでしょう。
WAY 風通しがよくなるといいですね……。お父さん(今回の鎌倉一日講習会の会場となる光明寺のご住職である戸松啓真さん)はなにか言っていますか。
戸松 うちはよく言えば個人の意志を尊重する、悪く言えば放任。自由にやらせてもらっています。
WAY それは理解のあるお父さんですね。今日はいろいろ有り難うございました。


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