<特集>ティク・ナット・ハンとの出会い





KEYWORDS OF THE TEACHING OF THICH NHAT HANH


 ティク・ナット・ハンの来日を控えて、招聘委員会のメンバーの一員だった筆者が、彼の言っていることを自分なりに整理してみました。ティク・ナット・ハンの教えを理解するためのキーワード。これは誰かに読ませるためというより、自分に向けて書いたものです。


苦しむだけではじゅうぶんでない

It's not enough to suffer

 ティク・ナット・ハンの『ビーイング・ピース』(荘神社)はこんな言葉で始まっています。

 人生は苦しみに満ちています。しかし、人生にはまた、青い空、太陽の光、赤ん坊の目といった、素晴らしいことがいっぱいあります。苦しむだけでは充分でありません。

 この文章を最初に読んだとき、ぼくはトランスパーソナル心理学などセラピーの最前線の取材をしていたので、ちょっと違和感がありました。アメリカ西海岸で隆盛をみた新しい心理学では、もしもそのひとが苦しいと感じるならば、その苦しみを充分に味わうようにいいます。悲しいならば、その悲しみをところんつきつめて味わい表現する。そこからなにかが生まれてくる、という考えです。
 ティク・ナット・ハンは、苦しいときでも微笑みなさい、という。
 それは、今の苦しみを隠蔽することになるのではないか。

 でも実際に、ほんとうにつらいときに口の両端を少し意識しながら結ぶとき、舌を上顎につけて静かに呼吸するとき、そこにはまったく別の感覚が広がるのが分かります。
 ぼくたちはときとして、苦しみをあじわうときに、その苦しみに埋没し、酔ってしまうことがあります。それはもうひとつのエゴの働きにほかなりません。
 微笑むことは、苦しみや悲しみを押さえつけることではなく、自分の今の状態に気がつくことです。苦しみがいったいどこから来るのか、その原因は他人なのか自分なのか、その苦しみはぼくの本質なのか、絶対の真理なのか。
 その苦しみの原因が見えてくれば、それに対処する方法もうっすらと見えてきます。具体的にどうすればいいのか、分かってきます。
 微笑むということは、自分が、微笑もうとすること。それは人生に対する根本的な姿勢を考え直すことです。エゴに縛られて外界から切り離されることではなく、まわりとつながりをもつことです。木々や動物たちと自分がつながっていると気がつくこと。仲のいい者たちだけでなく、敵対する者とのつながりをも自覚することです。そういったすべてに気がつこうとする、意志をもつことです。

 今、1歳4カ月の娘がキーボードを打つぼくのそばにやってきました。子どもというものは、微笑もうとしなくても微笑むことができる存在です。ぼくら大人が微笑むことは、いつだって簡単というわけではありません。
 でも大人が微笑むとき、子どもたちの微笑みはさらに輝きをますようです。


つねに気づいていること

mindfulness

 今朝、幼稚園に送っていくとちゅうで息子が急に立ち止まりました。歩道のマンホールの蓋を指さして、
「なにが書いてあるの」
 と聞く。よく見ると「警」という文字が書いてあります。おそらく「警告」の意味でしょう。
「なにかあったら、お巡りさんが飛び出して来るんだよ」
 思わずいいかげんなことを言ってしまいましたが、子どもの注意というものは、ほんのささいなものも見逃しません。駐車場の片隅にほんの少し残った雪や、いろとりどりのBB弾。誰のものだか分からないうんこ。そういうものを見つけては、すべての神経を集中して観察します。
 いっぽうお父さんのほうは、昨日はあれをするのを忘れた、今日はこれをしなくちゃいけない、といろんな考えがわいてきます。「警」の文字を見ても、目に入りません。歩いていても、こころはここにないのです。
 ティク・ナット・ハンが何度もくりかえしていうのは、今、やっていることに最大限の注意を向けておこなうこと。たとえばご飯を食べているときには、たべることに集中する。食器を洗うときは、洗うことに集中する。
 ティク・ナット・ハンのフランスの共同体であるプラム・ヴィレッジでは、ひとびとはほんとうにゆっくり歩いています。歩くということを注意深く、ていねいにしていけば、ゆっくり歩かざるをえないのです。
 そして突然、誰かが鐘を鳴らします。そんなときはみんな、いっせいに黙って、作業の手を休めて、呼吸に意識を集中します。
 呼吸に集中することは、つまり自分に返ることです。
 ティク・ナット・ハンはいいます。

 マインドフルネスは、私たちに道を示してくれる光です。私たちのなかにある生きているブッダそのものです。マインドフルネスは、洞察と目覚めと愛をわき起こらせてくれます。私たちはみな、自分たちのなかにマインドフルネスの種を持っていますが、呼吸を意識する練習によって、それに触れられるようになるのです。("Joyful Path"より)

 つねに気がついていることは仏教の言葉でいうとsatiです。英語ではmindfulness あるいはawarenessという言葉をつかいます。
 ぼくのvipassanaの原稿を読んでくれたひとならわかるとおり、それはそのままsamadiなのです。


つながりのなかであること

interbeing

 『ティク・ナット・ハンの般若心経』(荘神社)は、次のような有名な一節で始まっています。

 もし、あなたが詩人なら、一枚の紙のなかに雲が浮かんでいるのを見るでしょう。雲がなければ雨はなく、雨がなければ樹は育ちません・そして、樹なしには紙を作ることはできません。
 このように、紙が存在するためには雲はなくてはならないものなのです。もし、雲がなければ紙は存在できません。
 ですから、雲と紙は「相互存在している(interbe)」ということができます。

 ここでいうinterbeというのはティク・ナット・ハンの造語です。「ある」「いる」「存在する」という意味のbeのまえに、interという語をつけて、「相互に関係しつつ存在する」「関係性のなかである」という意味の言葉をつくりました。
 私という存在は、父と母がいなかったらありえません。父と母も、それぞれの両親がいたからこそ、生まれたのです。そのように、私の前には連綿と続く存在のつながりがあります。
 そして私のあとには、息子と娘、そのまた息子と娘という連綿と続く存在のつながりがあるのです。
 私は息子であり、同時に父親です。妻にとっては夫です。
 会社にいけばサラリーマンだし、ライターさんに仕事をしてもらう編集者であり、あるいは私自身が記事を書くときはライターとして使われる立場になります。

 道をあることきは石ころをけ飛ばす足になり、コンピュータに向かうときはキーボードを叩く指になります。
 山に降った雨が大地にしみ入り、それがわきあがって流れとなります。その流れを私は口にします。私が口にした水は体の中を流れ、ふたたび川と合流して、海に帰っていきます。
 これはイメージではなく、事実です。そんな関係性のなかにあるのが私たちの存在だと知ることができれば、なにも心配することはない、ということが分かります。

 この「interbe=つながりのなかである」という言葉は、なにもティク・ナット・ハンが新しい概念をつくりだしたということではありません。西洋人に分かりやすいように、「ある」という言葉の本来の意味を意識できるようにした、というのが正しいでしょう。あるいは存在の意味を明らかにしたと言ってもいい。
 伝統的な仏教の言葉で言えば「無我」にあたるでしょう。「無我」とは「それじしんで独立して存在しているものはない」という意味ですから、そのことを、裏側から表現したということもできます。


ふたたびインタービーイング

interbeing again

 雨が降っています。4歳の息子とふたりで市ヶ谷の土手を歩いているとき、彼がこんなことをいいました。
「おとうさん、どうして雨って降るの?」
「そりゃあ雨だって、たまには降るだろう(いいかげんな答え)」
「でも、どうしてこんなにこんなにたくさん降るの。洪水になっちゃうじゃない」
「それはね、いろんなところで水が必要だからだよ。そのへんの草や木が育つのも、雨が降るからなんだ。たんぼの稲だって雨が降らなかったら大きくならないよ。そうしたらともちゃんだって、お米が食べれなくなるだろう。雨よりはお天気のほうが好きかもしれないけど、世の中にあるものはどんなものでも、必要だからあるんだよ」

 我ながらなかなかいい答えじゃわい、と思っていたら、息子がさらにいいました。「じゃあ、ビルは誰にとって必要なの?」
 がーん。
 このへんは都会のまんまんなかで、ビルだらけの地域です。ジャングルみたいにビルが生えている。でもそれはほんとうのジャングルとは違う。ビルが建つことによって利益を得るのは人間だけ。その他の生物や木や草や大地にとって、このビルというのは邪魔者でしかないんです。

 ティク・ナット・ハンのinter-beingという言葉は、すべての存在するものは、お互いにかかわりのなかで存在する、という意味の造語です。たしかに自然界を見渡してみれば、ひとつとして孤立しているものはありません。すべては循環のなかにあります。でも、人間だけがいつしかその輪からはずれてしまっているのではないでしょうか。地球にとってはなんの意味もないものを、自分のためだけに作り続けている私たち。それは結局、私たちのためになるのでしょうか。


行動する仏教

Engaged Buddhism

 ティク・ナット・ハンは欧米では「行動する仏教」の代表として有名です。行動する仏教Socialy Engaged Buddhismとはようするに、僧院にこもって自分の修行だけに埋没するのではなく、積極的に社会的な問題にかかわり行動していくことです。それは、お坊さんが福祉活動をしなくてはいけない、ということではありません。自分がひとりで存在しているのではない、まわりとのつながりのなかで生きているのだ(interbeing)と気がついたとき、苦しんでいる人がいれば自然と手を差し出してしまう、ということです。

 ベトナム戦争の当時、ティク・ナット・ハンは僧として伝統的な修行を続けるのか、座禅堂を出て苦しんでいるひとびとを助けるのか選択をせまられたとき、彼は決断します。その両方をしよう、と。
 収容所の生活のなかでも微笑みを忘れないこと、焼け跡で死体を片づけるときも、つねに自分自身に気づきつつ行うこと。そこでは社会に出て実際に生きることがそのまま修行になっているのです。


サンガ・ビルディング

sangha building

 今回のティク・ナット・ハン招聘プロジェクトの第二回実行委員会のなかで、みんながショックを受けたことがあります。それはちょうどフランスのプラム・ヴィレッジから帰国した島田啓介さん(自然食販売・クリスチャン)が報告したサンガ・ビルディングの原則です。

 その内容はふたつ。
 リトリート(泊まりがけの瞑想修行)や講演会に、ティク・ナット・ハンに縁があってやってくるひとは人数に制限を設けずに受け入れると言うこと。
 子どもたちを瞑想のじゃまにせず、積極的に迎え入れること、です。
 もともと、数を集めさえすればいいなどとは思っていなかったとはいえ、どれくらいの会場で何人入れば成功、というあるていどの計算をしていたことは事実です。それを根本からくつがえされる一撃でした。ようするに、今回のことは、ティク・ナット・ハンというタレントの日本ツアーを成功させることとは違うのです。そういう目的意識を持っていては成り立ちません。そうではなくて、このプロジェクトにかかわることそのものが一種のワークであるということです。
 同時にそれこそがサンガ・ビルディングであるのです。
 子どもを受け入れるということも、最近流行のニューエイジ系のワークショップではありえないことです。でも考えてみれば、大人たちだけが一定の期間集まって、大人たちだけがいい気持ちになったところで私たちの実際の生活になにかいい変化があるとは思えません。逆に、子どもたちのほほえみから学ぼうと言うのがティク・ナット・ハンの思想です。
 これもサンガ・ビルディングの大きな要因のひとつです。家族というのがもっとも小さな、しかしもっとも基本的なサンガだからです。

 サンガとはいうまでもなく仏法僧の三宝のうちの僧。修行する者たちの共同体を意味します。釈尊の時代には出家者たちは文字どおり共に暮らし共に瞑想したのでしょうが、現代の日本ではそこまで徹底した共同生活をするのは難しい。それにサンガづくりなどというと組織や形を作るように神経が行ってしまって肝心の私たちの問題はまったく解決されないままだったりします。
 おそらくサンガづくりというものは、サンガをつくろうという気持ちが消えたところから生まれるものかもしれません。島田さんがインタビューの中で言っているように自分が今、そこにいる場所から逃げないで、自分の問題と向き合い、相手の問題も受け入れるなかから、おのずと起こってくるものなのでしょう。


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