<浄土宗総合研究所公開講座講演録>

森と人との共生
アジアにおける仏教者の社会活動



講演:プラチャック・クタチトー師 
通訳:東京大学教養学部アジア分科助手 浅見靖仁氏


この講演録は、INEB(International Network of Engaged Buddhists)日本支部ならびにその他の環境保護NGOの招きで来日した、タイの環境保護僧、プラチャック・クッタチトー師と、パイサン・ウィーサロー師の講演の中から、浄土宗総合研究所が主催して開催した、1994年5月24日、東京は芝・増上寺での講演を収録したものです。


司会者(戸松) ただいまより、平成6年度浄土宗総合研究所公開講座「森と人との共生―アジアにおける仏教者の社会活動」といたしまして公開講座を開講させていただきます。初めに総合研究所を代表いたしまして、主任研究員の福西先生よりお 言葉をいただきます。

福西 ただいまご紹介いただきました総合研究所の福西でございます。きょうは、所長がこちらのほうでごあいさつをする予定でございました が、京都のほうに行っておりますので、かわりましてごあいさつ申し上げます。きょうはプラチャック先生とパイサン先生にはご遠方からおいでいただきましてありがとうございました。また、この公開講座に多数の方々においでいただきまして御礼申し上げます。

 私もプラチャック先生におめにかかるのは初めてでございますが、インタビューの記事等を読ませていただきまして、どのように森の中での修行をしていらっしゃるかということをちょっとだけ読んだことがござ いました。しかしながら、こうやって直にお会いをしてお話を承るということは本当にありがたいことだと思っております。特にこの研究所のほうでは、平成4年度から「地球環境保護」といったようなテーマで研究を進めてまいりましたが、昨年度から、特に国際 環境という問題につきまして予備研究を始めておりまして、今ごあいさついただきました戸松君をはじめといたしまして、何人かのグループが集まりまして、この運動を進めているわけでございます。

「共生」という言葉につきましては、私どもの念仏信仰運動の中に「共生運動」というのがございまして、念仏を唱えることがすべてものに 共生するということを、こちらの増上寺の何代前かになります椎尾弁匡大僧正が提唱されました運動でございます。でありますので、この言葉そのものは、私どものほうにとりましては非常に古い言葉でございまして、昔から耳になじんできた言葉でございますが、今回このようなテーマを選ばせていただきましたことは、森の中にいるお坊様が、特に森を通して仏教の悟りの世界と森と共生してその悟りに到達するといったよ うなことについてのお話であろうかと思っております。

 また、きょうはユーカリの木の問題につきましても、いろいろと社会的な問題でのご提言もあるようでございます。貴重な時間でございますので、皆様とともにこの公開講座を進めていきたいと思っております。ありがとうございました。

司会者 続きまして、簡単に本日の講師としてお招きいたしました、 プラチャック先生とパイサン先生並びに通訳をお願いいたしました浅見先生をご紹介させていただきます。プラチャック・クッタジトー師でございまして、プラチャック師はお年ははっきりわかりませんが、大体50代後半でございまして、30代半ばに出家されまして、修行僧としてタイをずっと歩かれ、そして1989年に問題になりましたドンヤイというタイの東北部、ラオスとの国境の近くでございますが、そちらのほうを修行の場として森に住まわれた。そして、今日まで周りの住民の皆さんと力を合わせて森を守ってきた方でございます。

 また、パイサン師は、タイのタマサート大学の時代に民主化運動に非常に関心をもたれまして、仏教、キリスト教、イスラム教と宗教の枠を超えてネットワークをつくり尽力をされました。その後、アメリカのほうに留学をされまして非暴力の勉強をされました。タイに戻られてからは、皆様ご存じの、ビルマで1988年だったと思いますが、民主化の弾圧がございました。そのとき逃げてきた学生たちを相手に、非暴力の運動のキャンプで指導者としてずっと働かれて、やはり東北部の森にお寺をつくられて、環境や人権問題を中心に研究、また実践されている方でございます。


プラチャック師講演
「森と人との共生」

司会者 それでは、ただいまよりお話をいただきたいと思います。まず初めに、プラチャック先生のほうからお話をいただきたいと思います。

プラチャック師 きょうは皆様、来てくださいまして本当にありがとうございました。まず、私自身の経歴について少し話させていただきたいと思います。私は小さいころに見習僧としてしばらく仏門にあったことがありますが、正式に僧侶となったのは30歳をちょっと過ぎてからです。現在私は五六歳なんですが、大体20年近く僧侶をしています。

 この20年近くの間、私はタイで一般のお坊さんとはちょっと違った暮らしをしてきました。普通のお坊さんは村にあるお寺にいて、そこでパーリ語の勉強をした りとか経典を読んだりとか儀式とか儀礼をつかさどっているわけですが、私は、主に洞窟に込もって瞑想の修行をしたりとか、自然に近いところにいて直接自然から学ぶように心がけてきました。

 私は、初め師匠について洞窟の中で瞑想の修行とかをしていたんですが、そうしていると苦しいというよりは非常に気が楽になったわけです。以前、普通の人として人間社会に暮らしていたときのほうが苦しかったように思えてきました。それで、しばらくそういう生活をさらに続けようと思い森の中で修行を続けていったわけです。私はそういう修行を続けながら、まず自分自身を見詰め、それは自分の心と自分の体がどういうぐあいに機能しているかを見詰め、そしてまた周りの自然を観察しながら修行を続けていました。

 その間、タイ全国を放浪して歩き、タイの北から南までくまなく歩いてまいりました。ただ、タイ全国を歩いて回るときも人里離れたところを主に歩いていました。

 次第に弟子たちがついて歩くようになり、そういったことを10年ぐらい続けていたんですが、そのうち東北タイのブリラム県に行き着きました。


森がなくては生きていけない

 私は放浪していた間は靴もはきませんでしたし、たばこもやらず、お金も一銭ももたずに、10年間一度も車も乗らずに、ただ放浪を続けていました。その間、親戚や家族とも連絡もとらず、全く俗世間のことは忘れて裸足で修行をしていたわけです。そのうちに次第に森の重要性ということを痛感するようになりまして、森を守る義務というものを感じるようになりました。森というのは、私たちの心と体を落ちつけてくれる。そこに平安を感じさせてくれるものであるということを非常に強く感じ、また森がなくては川も流れず空気もつくり出されないということを心から実感しましたので、私の義務は森を守ることであると感じるようになりました。

 私は森をみれば、そこに森の中の真実というものを見出すことができるように感じています。例えば、森の中に生えているパパイヤの木一つをとってみても、そのパパイヤの実ができてきたのも、それはそこに土があったからであり、周りに日があったからであり、その土となったのは、以前は動物であったのが死んで、その体が土となって、それがまたパパイヤとなってこうして自分の食料となっているということを考えるにつきまして、森林というのは循環において非常に重要な役割を果たしていると感じるようになりました。

 いわば森林というのは、この世の中の肺のようなもので、人間の体にある肺と同じで、人間は肺なしで生きていけないように、この地球全体の生態系の肺である森なしには生きていけないわけです。

 また、森をみるにつけ、森の中には非常に多種多様な生き物がいます。それぞれが、それぞれ全体の中で自分の役目を果たして、全体として統一のとれた状態にあります。それは私たちの体についても同じで、それぞれ内臓があるとか、さまざまな臓器がそれぞれの役割を果たして全体として調和を保っているわけです。私は、人間も何とかそういった調和のとれた環境の中に入っていけないものかと考えてきました。


自然が教えてくれたこと

 僧侶の多くはお寺にいて、パーリ語の経典を読むことによって世の中の真実というものを知ろうとしているわけですが、私は、そうしたパーリ語の経典を読むことも重要かもしれませんが、自然を見詰めることによっても世の中の真実を理解することができるようになるのではないかと思います。私が森を守る運動にかかわるようになったのは、森の重要性というのが一種の自然の法のようなものであり、森の中に自然の法を見出すことができるからです。その自然の法というのは、すべてのものはお互いに関係し合っていて、その適度なバランス、多過ぎもなく少な過ぎもないというバランスを保ち、そういった状態のことだと思います。宗教というのは、それがどんな宗教であれ、基本的には、こういった自然の法を理解するための道筋、そういったことを目指すものだと思います。

 それはどの宗教においてもそうだと思いますし、また仏教にはさまざまな宗派がありますが、どの宗派も基本的には目指すことは同じだと思います。私は、そういったことはここにいらしている皆様方は、それぞれご自身の立場で考えていらっしゃることで、もう既に知っていらっしゃることだと思いますが、私が私の経験の中でこういうことを私も感じるようになったということを、ひょっとしたら皆様とは違った観点から同じものをみたということで少しお話ししてみました。

 ここに水がありますが、この水もここに来るまでにはいろいろなところを通ってきたわけですし、これからまたいろいろなところを通っていくわけです。すべての場所でさまざまなものと出会い、そうした中でいろいろな関係性を結んでいきます。私たちは自分の置かれている状況をよく理解し、その中でそれぞれに与えられた役目というのをしっかり果たしていくことが重要だと思います。


調和のある関係性

 そういった社会のバランス、重要性を感じるようになりますと、自然と慈悲の心がわいてくると思います。そういった慈悲の心というのが社会、またその社会のレベルでも村落であるとか家族であるとか、そういった人間関係の中でも非常な重要性をもってくると思います。常にお互いが関係し合っているということと、その関係性の中のバランスの重要性ということを考えていること。つまり、自然の法を常に心に念じておくことが我々の行動を正しい方向に導いてくれると思います。

 私は、よい社会、よい村、よい人というのは、やはりその中に調和のとれた関係性をもっていると思います。そういった調和のとれた関係性を我々人間に与えてくれるのが宗教だと思います。それはどの宗教であっても本質まで極めればそういった役目を果たすことができると思います。あるいは、普通は宗教と呼ばれてないものでも、そういった役目を果たしてくれものがあればそれに頼っても別にいと思います。

 私は、今回日本に来てきょうで3日目ですが、最初に日本に来た先週の土曜日、この近くにある心光院というお寺で施餓鬼に参加させていただいて、そこで少し法話をしたんですが、そのとき来てくださったおじいさんやおばあさんが非常に熱心に私の話を聞いてくれました。そういうのをみていると、本当に私が自分のお寺で村人に話をしているのと同じような雰囲気で、日本はタイと違う文化がいろいろあって、工業の発展の度合いは違っても、やはりそこに流れる宗教心というのに違いはないんだなという深い感銘を受けました。

 とりあえず、私の話はこれで終わらせていただいて、もし後で皆さんからお話がありましたらお出しいただきたいと思います。


 実は今回ちぇしゃ丸さんからショッキングな情報を聞きました。WHO ARE YOU?4号5号とそのインタビューを掲載させていただき好評をいただいたタイの環境保護僧プラチャックさんが、今回の来日の直後に還俗、つまり僧籍を離れてしまったというのです。原因は農民たちとの意見の違いだそうです。次回にもうちょっとくわしいことをお伝えできると思うのですが、なんとも残念なことです。

 日本にいるぼくたちは自然はそのままにしておいたほうがいいと当然のように思っていますが、現地の人々にとってはそれは今日のご飯が食べられるかどうかというせっぱ詰まった問題なのだと改めて考えさせられました。(Kotaro)


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