タイの環境保護僧





プラチャック師インタビュー その3


手は常に空っぽにしておかなければ
人は助けられない

藤森 今回の12日間の旅行で一番わかったことは、今までの日常生活ではいろんな物を一杯持ち過ぎていたのだということです。ことに私は日本人であるということで、一杯持ってきたのですが、持つから苦しいんだということがよくわかりました。

プラチャク師 足るを知ることが大切だということです。我が身を可愛いと思い過ぎるから、ついつい物を持ち過ぎるのです。人間はやがて皆死に、この体もやがては灰になるのだということを常に心に刻んでおけば、何が本当に大切なものかがわかり、限りある時間を有意義に使わなければならないと思うようになると思います。ここに眼鏡があるでしょう。この眼鏡をこうして手に持つと、もう他の物をつかむことはできません。他の物を持つためにはこの眼鏡を手から放さなければなりません。常に手は空っぽにしておいた方がいいのです。我々は手でダイヤや宝石をつかむこともできます。でもいつまでもダイヤや宝石を手につかんでいたら、今度は他の人が助けを必要としている時に手を貸すことができなくなってしまいます。自分がこれまで価値があると思ってきた物でも、よく考えると本当の価値はないことがよくあります。手は常に空けておかなければなりません。心も同じです。いつも、自分のこと、自分の親や兄弟のことばかり考えていると、他の人のことを考えることができなくなってしまいます。他の人が助けを必要としている時に、すぐにその人の身になって考えることができるように、やはり心もいつも空けておく必要があります。常に一つのことに心を占めさせてしまってはいけません。

藤森 いつも山を歩いている時は、何を持って歩いていらっしゃるのですか。

プラチャク師 水筒とこの小さな肩掛けカバンだけですね。以前は自分一人だけで生活していましたので、何でも自分でやらなければならず、托鉢用の鉢も持って歩いていました。でも、最近は弟子たちが私の面倒を見てくれますので、鉢も持たなくなりました。まあ歳もとったということもあって、そのおかげで今ではほとんど何も持たずに暮らしています。でも一人だけで暮らしていた時でも大して物は持っていませんでしたよ。自然の中で自然に暮らしていれば、あまり何も持っていなくても、 十分暮らしていけるものなのです。物をなるべく持たないようにすることによって、大地に直接触れることができるようになるのです。そして自然に直接触れることができるようになれば、あれやこれやと物を持ちたいという欲求も少なくなってきます。

 都市に住みながら仏教のことを研究している人たちもいますが、あれはただ頭の中で理屈で考えているだけで、学問として仏教をやっていることにはなっても、仏教を実践していることにはなりません。本当に仏教を体得しようと思ったら、森に入らなければなりません。大自然と直接触れることによって、自分が、そして人間というものがどんなに小さいものかということを実体験を通じて学びとらなければなりません。そうしてはじめて本当の叡智を獲得することができるのであり、人々を救済することもできるようになるのです。経典を読んでいるだけでは、本当の叡智は得られず、慈悲の心が湧いてくることもありません。慈悲の 心がなくては人々を救済することはできません。

 人間は誰でも生まれた時から心の奥底に本当の叡智、本当の慈悲を生み出すことのできるものを秘めているのです。その潜在的な叡智や慈悲が十分に発揮されるようになるかどうかはそれぞれの人の努力やおかれた境遇によって異なります。大自然に常に接するようにしていれば、潜在的な叡智や慈悲をよい方向に発揮していくことができます。しかし、多くの人たちはもともとそうした潜在力をもちながら、自然から離れて暮らしているうちに、自分を見失い、間違った方向へと進んでいってしまうのです。

 叡智や慈悲の心を育むためには、自然と接しながら、自分自身をよく見つめることが必要です。私はどんな宗教もまず自分の心をよく見つめることの重要性を説いていると思います。そして自分自身を見つめ直す最もよい機会を与えてくれるのが自然なのです。この世界を平和なものとするためにはまず我々一人一人が自らの心をよく見つめ直すことが必要です。人間誰でも自分の心をよく見つめればやがて穏やかな気持ちになります。誰もがそうした潜在的な力を心の奥底に秘めているのです。


出家して以来女性の肌に
触れたことはない

山田 ちょっと変な質問ですが、プラチャクさんのところには尼僧さんが大勢いらっしゃるように思うのですが、それはプラチャクさんが女性にも男性と平等の人権を認めてそのように尼僧さんたちにも接しておられるので、それに共感して多くの尼僧さんが集まってきているということなのでしょうか。

プラチャク師 私のところではかなり以前から大勢の尼僧(メーチー)たちを受け入れています。〔訳注:正確にはメーチーは尼僧ではない。タイでは女性が僧侶となることは認められておらず、お寺などにいる頭を丸めて白い服を着ている女性たちは比丘尼ではない。上座部の僧侶は200以上の戒律を守らなければならないとされているのに対し、メーチーは8つの戒律を守るだけでよいとされている。彼女たちは瞑想をしたり、読経をしたりもするが、一般には彼女たちの最も重要な仕事は僧侶のために食事を作ったり、寺の掃除をすることだとされている。〕彼女たちは善悪の区別がはっきりでき、非常にしっかりとしています。彼女たちの中には私のことを非常に強く慕ってくれる人もいます。彼女たちも異性を意識することもあるでしょうし、それは私だって同じことです。しかしもちろん本当の恋愛関係に発展することはありません。このことについては僧侶の方がしっかりしていなければなりません。

 彼女たちはいろいろと仕事をしてくれているのですから、いたわりの心をもって接しなければなりません。でもだからといって、彼女たちの方が僧侶よりもたくさん仕事をしているというわけではありません。実際には僧侶の方がたくさん仕事をしているのです。僧侶にはいろいろとしなければならない仕事があるのです。でも大事なことは、どんな仕事をしているかではありません。どんな仕事でも無心になってそれを一生懸命やればそれは仏法(ダルマ)につながるのです。

 尼僧(メーチー)たちは僧侶のために食事を作ってくれますが、それは僧侶のためになるだけでなく、それによって尼僧たちも精神修養をすることができるのです。僧侶だけが一方的に得ているのではありません。双方に得るものがあるのです。まずはどんな仕事でも一生懸命にすることが大切です。尼僧(メーチー)の中には僧侶のように熱心に瞑想をしたり、読経をしたりする人もいます。そういう人には、皿洗いなどはさせないで、仏教の修行に専念することができるようにしています。それぞれの人が各自の能力や適性にあった仕事をしながら、互いに助け合っていくことが共同生活には重要です。森には背の高い木や低い木があります。その両方が森を形成しているのです。どちらか一方だけでは完全な森とはいえません。それぞれの背丈に応じた役割というものがあるのです。

 女性の話といえば、私が得度して8年目の頃のことをお話ししましょう。その頃私はロッブリー県の寺にいたのですが、そこには尼僧(メーチー)が10人位いました。その頃はまだ私もあまり修行を積んでいませんでしたので、その中の21歳の尼僧(メーチー)に恋愛感情を抱くようになってしまいました。まるで磁石が引きつけ合うような感じでした。向こうもそれに気がついたようですが、ともに仏に仕える身なので非常に苦しみました。

 そうこうするうちにある日彼女は私が水浴びをしている姿を目にした時、てんかんの発作を起こしてまいました。これについては私の方に責任があると思います。私は彼女のことを非常に強く思っていましたので、そうした気持ちが彼女に通じてしまい、彼女の心を混乱させてしまったのだと思います。僧侶である私の方がしっかりしていればこんなことにはならなかったことと思います。もちろんその時も恋愛感情を抱いただけでそれ以上のことは何もありませんでした。私は出家して以来一度も女性の肌に触れたことはありません。」


木はなにも奪わない
与えるだけだ

丸山 森におられて、木の生命とか木の心、特に老木との心の通い合いとか対話とかそういう体験がもしございましたら、お聞かせ下さい。

プラチャク師 木には痛さなどを感じる感覚はありません。感情もありません。木には精霊が宿っていると考える人もいますが、私自身はそういったことにはあまり関心がありません。中には木を傷つけるとそこに宿っている精霊が人間に仕返しをすると考えている人もいますが、もし木に精霊がいるとしても、その精霊は多分どんなことがあっても人間には危害を加えることはしない精霊だと思います。

 木は腐った土壌からいろいろな果物や実を作りだし、我々人間をはじめ、いろいろな生物に食べ物を与えてくれ、また空気中の水分も保ってくれますし、涼しい木陰も与えてくれます。人間が何も与えなくても木は私たちに本当にいろいろな物を与えてくれます。

 木は私たちから何も奪うことはありません。私たちに与えてくれるだけです。私たちは木との正しい付き合い方を知らなければなりません。木は私たちに危害を与えることはありませんが、正しい付き合い方をしないと、消え去ってしまいますので、そうなれば私たちはこれまで木から与えられていたいろいろなものを失うことになってしまいます。

鈴木 最後に、プラチャクさんの言葉によれば物を持ち過ぎている日本に是非一度来ていただきたいと思うのですが、それは可能でしょうか。プラチャクさんに裸足で歩いていただけるように準備をすることは難しいのですが、一度日本に来ていただけませんでしょうか。


紙を作るパルプと 呼吸する空気
どちらが大事か

プラチャク師 いつでも喜んで伺いますよ。最近少し暇を持てるようになってきましたから。少しこの場所を離れて気分転換するのもいいと思います。これまで私はここで森を守るために政府と闘い、そのほか森を破壊しようとするいろいろな人たちと闘ってきました。ここらでここの森のことは他の人に少しの間まかせて、私はこの地をしばらくの間離れて休憩するのも悪くないでしょう。

 日本では裸足で歩くことのできるところがなければ靴をはかせてもいいですよ。蛇は草むらの中にいる時には体の色は緑になりますが、乾いた土の上にいる時には体の色は茶褐色になります。その時いる場所に自分を適応させるのです。私もそうしますよ。私はこれまで森でいろいろな困難なことを経験してきましたから、どこに行っても困ることはないと思います。何でも食べられますし、どこでも寝られます。日本にいって見聞を広めることができれば、私の今後の活動にもプラスになると思います。

鈴木 日本では、プラチャクさんにユーカリの問題についてお話しをしていただけたらと思っています。私も2年前サンティスック村を訪れさせていただいたことがありますが、サンティスック村のことなどもお話ししていただけたらと思います。プラチャクさんに森と人間というようなテーマで日本の人たちにアピールしていただきたいと思います。

プラチャク師 ユーカリの木というのは毒のある木でまわりの環境に悪い影響を与えます。しかしこのような世の中にあっては、多くの人が物質的な繁栄を追い求めていますから、商品価値のあるユーカリを植えたがるのはある意味ではしかたのないことかもしれません。すべての人にユーカリを植えるのをやめさせようとするのは現実的ではないかもしれません。先日私は17か国の代表が参加した世界食糧機構(FAO)の会議に参加したのですが、その会議ではユーカリの木にはどのような商品価値があり、どの品種が最も利益が上がり、どこのマーケットに売るのがよいかなどということばかりが話し合われていました。どういうわけか私もその会議に招待されたのです。そこでユーカリを植えるのは絶対だめだといっても誰も耳を傾けてくれないでしょうから、私は『どんなものにもよい面と悪い面があるのだから、その悪い面がなるべく出ないようにしなければならない。ユーカリを植えるのなら土地の荒れた山の上に植えなさい。農民たちが他の作物を植えている低地には植えないで下さい。それから貧しい人たちから土地を取り上げるような形でユーカリを植えるのもやめて下さい。何千年もの歴史を持つ原生林を切り開いてユーカリを植えるのもやめて下さい。』とだけ言いました。本当は全然植えないのが一番いいのですが、そういったところで聞いてもらえそうにはなかったので、最低限守ってもらいたいことだけ言ったのです。

 このような私の発言に対して、日本からの参加者の一人は、『原生林を切り開かなかったら、どうやってユーカリ・プランテーションを広げることができるのですか』と質問してきました。そこで私は、『あなたは紙を作るパルプと呼吸する空気とどちらが大切だと思うのですか』と問い返しました。そうしたら彼は黙って答えませんでした。次に西洋人の参加者が『ユーカリには何も問題はない。問題を起こしているのは人間の方だ。』と発言しました。まるでけんかを売っているような口のきき方だったので、私はこの発言は無視して何も答えませんでした。

鈴木 具体的には、私たちは5月の後半か6月が都合がいいのですが、 プラチャクさんの方の御都合はどうでしょうか。裁判のこともございますでしょうし。

プラチャク師 裁判の方は心配いりません。平和大行進(注:94年12月8日アウシュビッツから95年8月広島、長崎までを3コースで行われる「平和と生命への諸宗教合同巡礼」)と重ならなければ大丈夫です。確か平和大行進は12月のはずですから、5月か6月なら大丈夫です。

鈴木 それでは詳しい日程などにつきましては改めて私の方から御連絡することにさせていただきます。今日は本当にどうもありがとうございました。

(おわり)


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