タイの環境保護僧





プラチャク師インタビュー その1


 以下は、INEBJAPAN(仏教者国際連帯会議・日本)のご好意を得て、同会がプラチャック&パイサン師来日用に作成された小冊子「森と人間」−ユーカリ植林問題理解のために−の中から、プラチャック師のインタビューを転載させて頂いたものです。タイにおける森林保護活動の思想的な原点を理解して頂く上で、大変にわかりやすく、また印象深い資料であると思いますので、どうぞご参考になって下さい。(ちぇしゃ丸No.2)


 第6回のINEB(International Network of Engaged Buddhists)会議は94年2月、タイ東北地方のスリンのターサワーン村のサーマッキー寺で1週間にわたって開かれた。今年も会議前の1週間さまざまなEXPOSURE TRIP が企画されたが、その中で、プラチャック師をコーディ ネーターとした「Buddhism and Deep Ecology」がドンヤイの森で行われ た。私たちINEB−Japanからは、藤森宣明氏が参加した。EXPO- SURE TRIPに引き続いて行われた会議の中で、2月16日、プラチャック 師に藤森氏を中心にインタビューを行った。

藤森 12日間どうもありがとうございました。大変ためになりました。 余分にいた分も自分にとっては随分ためになったと思います。これが私 が持っていったカバンです。

プラチャック師 6時間くらいならそれをかついでいても大丈夫かもしれないが、18時間もかついでいたのだから大変だったでしょう。

藤森 本当にいろんな物をいっぱい持って歩いて……。

プラチャック師 必要以上のものを持ってきたのですよ。履いている靴のほかにもう1足予備の靴を持ってきている人もいたが、私はずっと靴 は1足も無しだ。

藤森 箸まで持って行ったんですよ。

プラチャック師 箸なんか持って行っても森の中では使わなかったでし ょう。森の中に行く時には何が本当に必要な物かをよく考えなければい けません。そういった小さな物でもあれもこれもと持って行くと荷物が重くなってしまう。必要なものと必要でないものをしっかりと見分ける必要があるのです。

藤森 日本人ですから、特に物をたくさん持って歩く習慣がついてしまって……プラチャクさんと歩いていると、自分は日本人だなということをつくづくと感じました。

プラチャック師 これを機会に、そうした習慣をよい方向に変えていくようにすればいい。

藤森 こういった沢山のものを担いでいるうちにどうやって荷物を減らそうかと思うようになりました。どうしてもいろいろと物を持ち過てしまって、荷物が重たくなってしまうんです。

プラチャック師 藤森さんは体も丈夫で、根性もある。でも、森に入るための心構えがまだ十分にはできていなかった面がある。森に入る前にもう少しよく話し合っておけばよかったかもしれない。例えば、薬など は森に入ればいろいろと薬草もあるのだから、必要になれば私が捜して あげることもできる。

 森に入ったら、自分の家にいる時のように何不自由なく過ごすわけにはいかない。本当に必要なものは何かをよく考え、 必要なものだけを持っていくようにしなければならない。そうすれば身軽に動きまわれるようになる。このことをまず理解しなければなりません。


森のほんとうの姿を知る

藤森 途中でポーラ・グリーンさんが帰ったことに対してはどのように考えておられるでしょうか。

プラチャック師 ああいうことになるんじゃないかと森に入る前から感じていました。彼女たちが帰ると言い出したのは3日目の夕方でした。その時は皆とても疲れていて正常な判断ができる状態ではないと思った ので、とりあえずその晩はそこで寝ることにしました。食べるものも十分になく、皆かなり疲れてきていたことはわかっていました。

 それでも 一晩寝れば気持ちも落ち着き、理性的に話し合うことができると思った のです。そこで翌日の朝、『皆さんがここにきたのは森の本当の姿を知るためであり、心を澄んだ状態にするためでしょう。学校の教室で勉強する時は眠くなりますが、森では眠くならないでしょう。このこと一つをとってみても、森の中では心が澄んだ状態になることがわかるはずです。森では木や石が教師なのです。どうしてこんなすばらしい学校を途 中で抜け出そうとするのですか。もう少し頑張れば、さらに多くのものを感じ、多くのことを理解することができます。』といって説得したのです。何人かの人は私のいうことを理解できたようです。

 人間の一生は短いものです。時間はお金で買うことができません。今回のスタディーツアーは参加者にとって自然の真実の姿を知る貴重な機会だったと思います。私は一人でも多くの人に自然の真実の姿を知ってもらいたいと思っていました。だからツアーを途中で中止することはし たくなかったのです。ポーラ・グリーンたちが彼女たちだけで山を降りることにしても危険な目には遭うことはないことはわかっていましたの で、帰りたい人たちにはそこで帰ってもらい、続ける意思のある人にはさらに森の中の散策を続けてもらうことにしたのです。確かに森に慣れていない人には少々きつい状況だったかもしれませんが、私はこのままあと数日山の中を歩き続けても参加者の生命が危険になるような事態に はならないと確信していました。だから、『まだ大丈夫だから、自然の真実の姿を見るためにもう少し頑張りなさい。私がついていれば遭難してしまうことは絶対にないから』と皆を説得したのです。私を信じることができる人はついてきました。

 あのあとも私についてきた人はあの時点でツアーを中止しなくてよかったと思っていると思います。藤森さんも私についてきてくれましたが、最初の2〜3日で山を降りることにしなくてよかったと思っているんじゃないですか。あそこでやめていたら、あまり多くのことは体験できなかったと思いますよ。


必要最低限で生きる

藤森 最後までいたことは確かによかったと思います。靴を脱ぐよう になったのがちょうどポーラさんが山を降りたあとでしたから、あそこでやめていたら……。

プラチャック師 そうでしょう。森の中で聞く獣の声がどういうものか、そういったものに対して自分の心や体がどうのように反応するか。恐怖と苦痛を伴う体験だったかもしれませんが、自然の本当の姿を見つめ、また自分の本当の姿を見つめる貴重な体験だったと思います。これは 金では買えない貴重な経験です。途中でやめていたらこういった経験はできなかったでしょう。

 今後苦しい状況におかれることがあってもいたずらに不安に陥ることなく対処することができるでしょう。今回の経験 によって、どんな苦境におかれても平静な心を保ち、冷静に深い洞察力をもって問題の解決にあたることができるようになるでしょう。食べ物や飲物が十分になくても、かつてこれよりももっと激しい空腹や喉の渇きを経験したことがあると思えば、落ち着いていられるでしょう。こうした経験をしたことによって忍耐力を高め、物欲に執着しない強靭な精神力をもつことができるようになるのです。まあ、この話はこれくらいでいいでしょう。何かほかの質問はありますか。

藤森 森の中にいる時プラチャクさんはtoo much(〜過ぎる)という言葉をよく使っておられました。物を持ち過ぎるとか、しゃべり過ぎるとか、食べ過ぎだとかいった具合に。

プラチャック師 森の中にいる時は、食べ過ぎてもいけないし、しゃべり過ぎたり、寝過ぎたりするのもよくない。生活態度をすべて改める必要があるのです。言葉というものは一旦口にするとそのあといつまでも 自分の頭のまわりをぐるぐるとまわり続け、正常な思考を妨げます。必要最低限だけ食べ、むだ口をたたかないようにすれば、頭も冴え、心も 澄み、体も軽くなるのです。特に恐怖にかられた人がそれぞれ勝手に感じたことを口にし出すと、収拾のつかないことになってしまいます。

 そういうことにならないように、森の中では必要以上なことはしゃべらないようにしなさいと注意し続けていたのです。何か疑問を感じたり、不 安に感じた時には私としゃべるようにすればいい。私はそのような時にどうずべきかよく知っていますから適確なアドバイスを与えることができます。でもツアーの参加者同士が勝手にいらぬことをしゃべり出してしまったら、かえって恐怖心や不安をいたずらに増大させることになってしまうのです。


痛みは一時的なものである

藤森 食べ過ぎについては?

プラチャック師 食べ過ぎると、たくさん眠らなければならなくなる。そして必要以上にしゃべるようになり、それに体も重くなる。そうなると味覚もおかしくなってしまう。本来おいしいはずのものを食べてもおいしいと感じることができなくなり、なにか目新しいもの、なにか珍し いものをいたずらに追い求めるようになってしまうのです。 正常に機能しなくなった味覚は決して満たされることはありません。満たされることのなくなった欲求を満たそうとしてさらに食べることになり、体は益々肥え太り、ますます味覚がおかしくなってしまうという悪循環に陥ってしまいます。ですから味覚が正常に機能しなくなってしまうと、欲望 に振りまわされて生きていくことになるのです。

 そうしたことを防ぐた めには、まず食べ過ぎないようにすることからはじめなければなりません。そうすることによって、自分の内面を見つめ、本来の精神のバランスを取り戻し、欲望に振りまわされないようになることができるのです。

藤森 私は日本で生れ育ったものですから、靴を履いて生まれてきたようなもので、素足で地べたを歩いたということがありません。コンクリートの上なら少し歩いたことはありますが、本当に大地の上を枯葉を 踏みしめながらいろいろな痛さを感じながら歩いたことは今回がはじ めてで、今回はじめて本当に自然に触れているのだということを実感しました。プラチャクさんは靴を脱がれた時の話を以前して下さいましたが、もう1度していただけたらと思います。

プラチャック師 私も以前は靴を履いていました。靴を履くのが当然だと感じていた時期もありました。20歳から30歳までの10年間西洋レストランで働いていましたから、その頃はどこに行くにも靴を履いていました。

 靴を履かなくなったのは修行僧になって森で暮らすようになってからです。それからはどこに行く時も裸足です。裸足で歩くことによっていろいろなことを学びました。まず裸足で舗装された道路やコンクリ−トの上を歩くといろいろな痛みを感じますが、草の生えた自然の大地を 歩くときは痛みは感じないということを知りました。また裸足で歩いて いて痛みを感じても、痛みというのは一時的なものに過ぎないというこ とも学びました。痛みは永遠に続くものではないのです。経典に感覚は 実体のあるものではないと書かれていますが、それを実感することができました。足に感じた痛みがしばらく歩き続けるうちにしだいに薄れていき、やがて何も感じなくなってしまうということを経験したことによって、感覚はすべて空であるという経典の言葉が本当によく理解できるようになったのです。すべての物は一時的なものであり、永続的なものではない、つまり無常なのだということを実感できたのです。裸足で歩かなかったら、こうしたことを本当には理解できなかったと思います。

 今は痛みはすべて消えました。傷も消えました。しかし裸足で歩くことによって学んだことは私の心の中に残っています。つらい経験をしたことによって、今後どんな困難に直面しても動じないという自信が持てるようになりました。

 それから寝過ぎというのもよくない。早起きすれば朝のすがすがしい 空気を吸うことができ、頭を冴えわたらせることができる。気分も壮快になり、体も軽くなる。寝過ぎる人は、感覚も鈍くなり、いろいろな貴重な経験もできなくなってしまう。たとえば、1日8時間寝ていた人が 睡眠時間を6時間にすれば、1日2時間起きている時間が増える。1か月では60時間ですよ。ですから、何かを学ぼうとしている人やなにかを 成し遂げようとしている人は睡眠時間を必要最低限にする必要があります。食べ過ぎると、ついつい寝過ぎるようになります。生活態度を変えなければいけません。(つづく)


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