心理学のゆくえ

藤永保さん(国際基督教大学教授)インタビュー

text by Kotaro Inaba(BODHI PRESS)


ボディプレス(以下BP) まず、大学の心理学部ではどんなことが行われているのか、そのへんから教えていただきたいのですが。

藤永 日本の大学というのは非常に貧乏ですから、自分はこれしか教えられないというふうに選り好みはできないんです。だから私の学生時代は、カリキュラムにあるものはすべて、少しずつ勉強しました。大学自体は実験心理学が本道の時代に出ましたけど、だんだん興味が児童心理学とか発達心理学のほうへ移ってきて、その過程にはいろんなことをやりましたね。

BP 心理学という言葉は非常に魅力的な言葉だと思うんです。心理学をやっていると聞くとすごいなあと思うし、雑誌のつまらない特集でも心理学者のひとがコメントしているとなんとなく形が整っちゃうというか。

藤永 昔からそうでしたね。なにか事件があると新聞や雑誌に宮城音弥さんら心理学者のひとが活躍して。

BP 河合隼夫さんとか小此木啓吾さんとかマスコミ的に有名な方というのはいらっしゃいますよね。その一方で、大学で心理学というとなにをやっているのかな、というのがもうひとつ見えない。

藤永 そうだろうと思いますね。正直いって私なんかも大学入る前は分からなかったんですね。旧制高校から進んだんですけれども、精神分析みたいなことをちょっと齧っていたものですから、大学の心理学もそういうことやるところかなと思っていたんです。入って、しまったと思いましたけど(笑)。ある意味では精神分析というのはアカデミズムの心理学ではまるで問題にされていない分野だというのが、入って初めて分かったんですよ。それで実験心理学というのかな、感覚生理学みたいなことから始まって、実験法とかそれの統計的な解析とか、鼠が迷路を走るのはどういうふうにやるかという学習の実験とか。大学ではそういうことが主流でしたね。


心理学の本道とは

BP 私も学生時代に心理学部の友人に、心理学ってなにをしているのと効いたら、「鼠を飼っているんだ」という答えでした(笑)。

藤永 ハハハ。心理学というのは洋の東西を問わず、人間の心の悩みに答えて、ふつうでは得られないような回答を科学的にもたらせてくれるものだというイメージが浸透しているような気がします。だからアカデミズムの外から見ていると臨床心理学とか性格心理学とか社会心理学とか、その背景にある精神分析あたりが心理学だと見えるでしょうね。内側から見ていますと、この頃形勢は大分変わってきましたけれど、やっぱり心理学の本道だとずっと考えられてきたのは実験心理学です。そういう意味では認識論的な哲学の実証化というのが心理学の起源であるといえるでしょうね。

BP たとえば実験心理学というのは、今大学でやっていることの何パーセントくらいなんでしょうか。

藤永 私の時代だったら8割。それ以外のものが少しずつ入りはじめていたころです。ただその後教育学部に教育心理学科というのができまして、これは文学部の心理学科と対抗する必要もあったものですから、それまで周辺的と見なされてきたような分野をむしろ大きく取り上げるようになりました。教育心理学、社会心理学、あるいは臨床心理学のようなもののウエイトが高いんです。今は心理学のイメージは多様になりましたが、入ってくる学生の動機を聞くと、自分は将来カウンセリングみたいなことをやりたいとか、自分の友だちが拒食症みたいな症状になって非常に悩んでいたので、そういうことの研究をしたいとか。やぱり臨床系の興味が中心にあって、それが心理学だと思っているというひとは多いようですね。


心理学は理系か文系か

BP もうひとつ心理学で不思議なのは、理系か文系か分からないことですよね。文系のなかでもすごく理系的なことをやっている。

藤永 そうですね。ただフランスのパリ大学なんて、文系と理系の単位を半分ずつとるようになっているようですね。それは起源そのものからして生理学の教室から出ていますから、そうなるのはあるていどは必然的だったでしょうね。感覚生理学というのは現在の我々の感覚ではプロパーな生理学の領域だと考えられているんですが、19世紀の実験心理学が成立した当時は、それこそが心理学の本道だったんですね。感覚の測定というのが。

BP 感覚というのは、痛みとか……。

藤永 それもありますけど主に視覚、聴覚、嗅覚、皮膚感覚とか。一番分かりやすい例で申しますと、我々が大学に入ったころはよく二点域の測定というのをやったんです。実験心理学の時間に器具を使ってどこの皮膚が一番鋭敏で、どこが鈍感かという基礎的な実験をさんざんやらされたんです。

 現代の生理学者はそういう主観的な指標はあんまり使いませんから、電気生理学的な手法を使うことが多いですね。脳波がどう変化するかとか。その一番基礎になる感覚の測定は、実験心理学の仕事として始まったものなんです。私のころですと、1950年代、ドイツのブントがライプツィッヒ大学で実験心理学の実験を始めた、そのころの手法をほとんどそのまま使っていた。7、80年に渡って踏襲されていたんです。

 我々が学生のころでさえこんなことしてなんの役に立つといって、教授に申し入れをしたことがある。そしたら、その教授はそういえば私が大学に入ったころも同じことやっていたというんですよ(笑)。諸外国でどうやっているのかと、ハーバード大学の実験心理学のテキストブックを取り寄せて調べてみたら、なんとほとんど同じ。ブントがやった方式を弟子たちが祖国に持ちかえって自分たちの教室でやっていた。それがずっと伝わっていたらしいと推定できたんですが。


緻密さの探求

BP そうすると、今、実験心理学といった場合、一番ポピュラーに行われているのはどういうことなんでしょう。

藤永 実験とはいったいなにか、それ以外の主観的な思弁に比べて実験というのはどいういう利点を持っているのか考える問題点があると思うんです。心理学はあんまりそのへんを考えてこなかったような気がします。だからテクニックのほうは非常に肥大したんだけど方法論のほう、実験の方法の基礎というのがあんまり検討されないままに今日まで来たという気がします。

 たとえば物理学のほうではもう50年も前に測定の相対性ということがいわれていて、どういう座標系から事象を観察するかによってまるで変わってくる。観測すること自体が事象に対してある乱れを起こすから、絶対的な測定問いのはないんだということが気づかれていたんですが、心理学のほうではそういう基本的な問題がほとんど気づかれないままに来てしまった。でも、意思をもっていないでモノですら観察が事象を乱すというんですから、心理学の場合は人間を実験室に閉じ込めるだけでも大きな違いが起こる。それを考えずに来たというのはひどく手抜かりだったと思うんです。

 精密さは獲得したんですが、その結果がどのていど応用可能かというと、ふつうのひとが心理学ということで描くこととはまるで違うと思いますね。リアリティを犠牲にすることによって精密さを獲得していったわけです。

 もちろん認知心理学という一派がありまして、それはけっこう精密な実験をやっているひとがいるんですが、それから昔の方法の反省の上に立ってあるていどリアリティのある実験もやっているんですが、その範囲はごく限られた妥当性しか持たないということはみんな知っていると思う。


心理学は心をどう扱うのか

BP そういうふうに実験方法が精密になっていくと、そもそも心をどうしたいのかということが分からなくなってくるような。

藤永 それが核心にある問題のひとつです。19世紀のブント始め心理学者が描いた心のイメージというのは、要するに意識というのはレンガ作りの家みたいなもので、静止的な、安定したものだというイメージだったと思うんです。そういうヨーロッパ的な考えに対して、ウイリアム・ジェームズはアメリカ人だったもので気に入らなかったらしくて意識は流れだ、と主張した。Stream of Consiousness。今考えると馬鹿みたいな文句ですねえ。意識は動くに決まっているじゃないかと我々は思いますが、アンチテーゼとしてみれば意味がある。心は静止的なもんじゃないよと初めていったわけですから。

 壮大な建築みたいなものを隅から隅まで分析してそれがどういう組み合わせによって成り立っているかを調べれば、最後には心の本体を、科学がいろいろな物質を分析するのと同じように分析し手に入れることができるんじゃないかと思っていたのが19世紀の自然科学の方法をそのまま心の解明に応用しようとした、その所産だという気がします。

 だから私はその歴史を考えると皮肉な気がするんですが、いってみれば心とモノとは全然違うというのがデカルト以来の物心二元論の主張ですね。それによって心理学というものが成り立っているはずなのに、近代の実験心理学というのは認識論的にいえば一種のコピーセオリーですから。ものの世界をそのまま忠実に写し取るのが心の第一段階だというふうに思っていたわけです。それはひどく奇妙なことだったと思うんです。

BP そうですよね。出発点とはまったく逆の方向ですよね。デカルト自身は神を知りたいとか、そういう欲求からの出発。今の臨床心理学なんかも誰かを直したということだと思うんですが、19世紀の心理学が目指したものはなんだったんでしょう。

藤永 私にもよく分からないんですがね、その当時の心理学の信念というのは我々にはどうも再構成しようもないものですから。私自身も考えるとときどき分からなくなるんです。おそらくその時点ではそんなことはあんまり考えなかったかもしれません。先進の自然科学があれだけみごとな成果を修めているんだから、我々もそのあとを追っていけばあれと同じようになにか見えてくるはずだと思っていたんじゃないでしょうか。そういう意味では一種の楽観論というか。自然科学万能というのか。

 ま、ニュートン力学の成功以来そういうことが、いわば神に対する人間の勝利と考えられていたことの象徴かもしれませんね。だから最後は神が与えてくれた所産である心までも自然科学は解明することができるんだと。そういう思想的な潮流は背景にあったんじゃないかなあと思うんです。


キリスト教の心観

BP そこに至るまでのお話もお聞きできたらと思うんです。心理学の本を詠みますと、西洋で最初に心について考えたのはアリストテレスだと書いてあります。で、その後はキリスト教の時代になって、心といものを客観的に考えることが出来なくなってきて、デカルトの時代になって、心とモノの二元論が出てくる、というふうに書いてあったんですが。

藤永 非常におおざっぱに飛んでいけばそういうことになるんでしょうけど、神学の世界のなかで心の問題というのは今の我々が考えるような迂遠な問題ではなくて、非常に切実な問題だったらしいんです。具体的な例でいえば、幻覚とか幻聴という問題ですね。当時中世の教会では祈っているうちに神の姿を見たというひとがたくさん出てくる。それは教会側にとってはまさに神の恩寵で、神に受け入れられるひとがそういうものを見るんだと思いたいわけです。そこにリアリティの問題が登場する。あるひとには見えてあるひとは見ない。それは一体なにか。その神は実在なのか、そのひとの精神が描きだした幻像にすぎないのか。それはいまだに心理学の基本問題を提供していると思います。

 もしも神の姿を見るというのがほんとうの恩寵であるとすれば、心の世界にある神の姿も実在だと考えなければいけない。一方それは幻覚で、奇妙な精神の所産なんだと考えればぜんぜん違う見方をしなくちゃいけない。そういう問題が大きな神学論争の的になったようですね。そのことが心の本体はなにかと考えさせるほうに通じていったんだと思います。デカルトみたいな宗教的な信念が強い人にとってみれば、神の世界を見るのは幻覚なんかじゃない、選ばれた少数のひとにたいして恩寵を示すんだと考えたい。だから心は実体であり、実在だと考えることになる。


身体と心の逆転

BP そういうものが心理学の流れとしてあって、もうひとつ精神医学という……。

藤永 そうです。今ではフロイトもなにも同じ心理学の枠に入っていますが、歴史的な起源からみると違う流れなんです。精神分析などは精神医学から派生し、実験心理学は生理学から出てきたわけで、それがたまた心理学という同じ名前を冠された。

 本来の思想的な起源はまるで別なんです。実験心理学のほうはモノとは違う心の世界が独立してあるという考えのもとに成立しているんですが、これはさっきお話したようにモノのコピーのような心を描くようになってしまったために、ひどく唯物論的な心理学を作ってしまった。精神分析のほうはむしろアラブの思想から出てきたというひともいる。

 ただし、この医学思想もある意味では唯物論的だったので、物質つまり身体のほうが原因で心は結果というか副産物だと考えていた。因果関係が一方的なんです。だから19世紀の医学はみんな病原体を発見するのに熱中したわけです。それをやっつけるような薬をつけさえすれば病気は治る、と考えていた。その頂点が抗生物質の発見です。これが目ざましい成功を修めたんですが、そこでピークに達してしまったために今の医学は有効な手段を持っていないんでしょう。特定の病原体とか器官が原因であるという、そういう範囲を越えてしまったらもう対策がない。

 だからストレス学説がでてきたというのも、そういう西洋的な分析的な唯物論的な医学思想が一種の行き止まりに来たということを表す現象です。そういう隙間をうめるものとして臨床心理学というのが生まれた。

 そこでひとつの大きな転換が必要だったんです。身体が心に影響するなら、心が身体に影響してもいいじゃないか。そういう考え方です。これはすごい大革命だったので、フロイトの考えがセンセーションを巻き起こしたのは当然だったでしょう。フロイトもユングも、東洋思想、直接的にはインド思想でしょうけど、心のほうがむしろ本体だよという考えの影響を受けているからああいう大胆な革命ができたんでしょうね。


脳と心

BP 最近注目されているものとして脳の生理学がありますね。

藤永 脳生理学と心理学は微妙に絡み合って、くっついたり離れたりして動いている。19世紀に、どうも脳が精神機能と大きな関係がありそうだとうすうすは分かってきた。その大きな原因は失語症の発見だったといわれています。言葉はしゃべれるんだけど、聞いても分からない。それが死後患者の脳を解剖すると、運動失語(理解できるけど話せないという症状)、感覚失語(その反対)というふたつの症状に分けられていたんですが、それぞれ脳の特異な部位に病変があるということが発見された。それは心理学にもすごい大きな影響を与えましたね。

 だから始めの知能検査というのは脳の大きさを計ろうというものでしたが、それは脳が大きければ大きいほど知能も高いだろうという非常に素朴な前提に基づいたものでした。ですが神経生理学は一本一本の神経繊維の機能の解明ということに、微細科学の方向をとるようになってここまで来た。

 それに対して心理学というのは、人間の心をもうちょっとグローバルな相対的な機能を扱う。その意味からすれば、神経生理学者が神経繊維の一本一本の役割を解明したとしても心の解明というところまではなかな行き着けないだろうと大抵の心理学者は思うものだから、あんまりそういう分野に関心を持ってこなかった。もちろん神経心理学という新しい分野もあるんですけど。少し逆に距離が遠くなりはじめたのかもしれません。実験心理学ができたころには両者は密接なように思われていたんですが、今はそれぞれ個別化の道を歩きはじめている。

BP NHKなんかでも、「脳と心」という番組をやってますよね。

藤永 でも、大脳生理学をやっている方も、意識や心の動きを扱うときは結局今の心理学と同じような考え方をせざるを得ないんですよ。たとえば人間の赤ん坊が先天性の白内障で生まれると、物理的な視力は回復する手術はできるのですが、それは生後一ヵ月以内にやらないと成功しない。大人になって開眼手術をしても、物理的な視力は戻るが、自分の猫はちょっと触っただけで分かるのに、目で見て見分けるのは容易でないらしい。だから物理的な視力を回復しても、結局使わなくなる例が多いそうです。

 だから神経生理学と心理学とのそれぞれの知識がインタラクションを起こして新しい知見が得られるという方向に行けばいいけれど、いきなり脳と心を結びつけるのはどうかなあ。だからエックウエルズとかペンフィールドとかノーベル賞をもらった大脳生理学者が晩年に書いた本はみんな、心と脳は別だというほうへ行ってしまう。壮年期の、日本で言えば養老孟司なんてひとは、みんな脳なんだというんですけど、あのひとたちもみんなそういっていたんです。それが年取ると、そうじゃないというふうに行く。ちょっと皮肉のような、興味深いような気がします。


心と体は別なのか?

藤永 もうひとつお話しておきますと、発達心理学というものをやっているので、ここ20年くらい非常に極端な例を研究しているのです。満6歳と5歳のふたりの子どもが郊外の小屋に1年半くらい放置されていたという、いわゆる虐待遺棄事件ですね。

 その子どもたちを見てびっくりしたのは、満1歳代くらいの大きさしかない。その理由は通常の人間的な環境に育てられないとそういう遅滞があるんです。もっと驚いたのは、その子どもたちがふつうの環境に戻ったときに、身長80センチだったのが、1月半後に83.5センチから84センチになっている。つまり一ヵ月半の間に4センチも延びている。最初は計り間違いかと思ったんですが、その後自分で追跡してみたりいろんなデータを調べてみたら、そういう爆発的な成長を始める例が一般的なんです。

 養育者とのあいだに愛情が通うような関係があると、非常に早い発達が始まる。これにたいしてホルモンを注射するという実験も行われたんですが、それはちっとも効果はなかったそうです。というのはさっきの心の問題に戻りますけど、私たちは心と身体というふうに分離して扱っていますが、そんなものでもないだろうと、成長途上の子どもをみているととってもよく分かることなんです。

 だから心と身体は別だという考えは、大人の世界だけを問題にしているからいかにもほんとらしく見えた。その大人ですらちょっとしたストレスで胃が悪くなったり、このごろガンの心理療法というものがいわれますけど、心という不思議なものがあって身体に影響するというのは昔の二元論的な考え方からあんまり切れていない。だから心と身体というふうに無理やりふたつに分けなくてもいいんじゃないか。心が脳だけにあるという考えは私は嫌いなんです。脳がすべての指令を発して私がこんなふうにしゃべったり字を書いたりできるとして、手が無くて字を書こうとしても無理。だからこういうものがぜんぶ一体になって始めて私たちは心を持つと考えたほうがいいんじゃないか、と思うんです。

 脳だけに神経細胞があるわけじゃなくて、腸なんかにも1億個くらいあるという説がありますけど。


神が作った世界の秩序

BP デカルトがモノと心は別だといったにもかかわらず、唯物論的な心理学ができてしまった、その根底にあるのはなんなんでしょうね。

藤永 これは私の考えで定説でもなんでもないんですが、近代の心理学は方法優位、方法論優位だったと思う。実験とか実証ということを第一に考えて、実験がやりやすい側面に心を限ってしまった。ブントの時代には分析と総合ということが自然科学の金科玉条でしたから、心を感覚という要素に分析したり総合しようという考えが当然生まれてくる。いってみれば方法論に従って心の世界を限定しようとしたことが、唯物論的な心を作り上げた原因だったと思う。

BP でもさきほど先生がおっしゃった心と身体は本来ひとつという考えは東洋なんかではあると思いますが、どうしても分析的に分けてしまうというのはヨーロッパに特有のなにかがあるんでしょうか。自然科学が生まれたというのは。

藤永 神による秩序という考えが根底にありますよね。村上陽一郎さんなんかも書いてます。一番極端なのは分類学というものです。その考え方の元にあるのは、世界は神が作ったものだから必ず秩序があるはずだという信念ですね。だから系統樹をつくったり分類したりした。もしも世界がランダムなものだと思っていたら、あんなこと誰もやるはずないですよ。だからやっぱり神学的な世界観と自然科学というのは微妙にどこかでつながっているんですね。宇宙を支配する超越的な秩序という考え方があるから、初めて自然科学が生まれたと思う。

 ところが東洋ではそういう考えはない。自然は人間の情緒を受け止めるところというか、花鳥風月という言葉がありますが。natureというのは面白いけれど、本質とかcategolyという意味があるんです。日本語の自然にはそんな意味はないですよね。それは人工と対立するものだけど、英語のnatureは精神と対立するものでしょうか。知力の違いじゃなくて自然に対するアプローチの違いが原因で、西洋社会に自然科学が栄えたんでしょうね。

 でも日本人はけっこう懐疑的なところがあって、テレビで血液型性格学なんてやっているのを見ると、どこか心を神秘的に捕らえている。そういうのは我々の分裂症状を示す例だと思いますね。

 ユングの心理学なんかむしろ東洋思想の輸入によって成り立っているのに、それをまた我々が輸入して有り難がるというのもそういう傾向のひとつなんでしょうね。でも私もあんまり偉そうな事はいえないので、じゃあ日本の心理学はなにか貢献したかといっても現在のところはあんまり大したことはやっていない。独自の見方があるかというのは、これから試されていくテーマのひとつだろうと思っていますけど。


個を見直す

BP これからは心理学ではどのようなテーマががクローズアップされるんでしょう。

藤永 たとえば発達という見方からすると、心の発達と身体の発達は別扱いだったのが、もっと総合的な子ども観にもとづいた体系が必要ですね。

 それから今の発達というのは進化論的な考えを引き継いでますから、大人になることは一方的に価値の上昇だという考えが強い。それもほんとかな、と思う。子どもって可能性の固まりみたいなところがあるんですが、ある可能性を捨てるからほかの可能性が実現するわけです。そう考えると大人になることが一方的な価値の実現ではなくなる。

BP この本に、50年くらいまえに『唯識の心理学』という本があったと書いてありましたが、最近、岡野さんというかたが同じタイトルの本を出しています。

藤永 解説書みたいなものですね。普遍的な意識みたいなものが実在の根底にはあって、それからだんだん個人の意識が出来てくるという考えでしょう。無意識の層では個人なんてものはなくて、つながっているんだという。けっこう面白いかなあと思うんですけど。ユングなんかは仏教思想からいろいろヒントを得たでしょうね。集団無意識とか。それを仮定すれば一見不合理なアニマとかアニムスとかが合理的に見える。でも西洋思想は個人意識のほうが先なんだと考えていますからフロイトなんかもとてもそこまでは行かない。そのへんの割れ目もどうするのかも課題ですね。でもそれは合理主義なんて考え方をそもそも根本から見直すことになっちゃうんで、大きな課題というか今あるパラダイムを根底から引っ繰り返す仕事になっちゃうでしょうね。

 そう考えればユング革命も不徹底なものですね。フロイトにそういうものをつけただけで。逆に、個性とか、個とかまた別の見地から見直されるかもしれませんね。個人というのが先にあるというのが西洋近代の合理主義の基礎にあるものですけど、それを捨ててしまったらどういう人間像が描かれるのかなというのは遠大な課題だと思います。


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