ふにゃこん人生観 その1

僕のブレスセラピー悪戦苦闘記



文・川勝隆文
WHO ARE YOU? vol.6掲載)


 僕は46歳の、都内で漢方薬中心の診療所を開いている医師です。恥ずかしながら、本音で恥ずかしながら、昔は精神科医をしていました。
 10年以上も前に「意識の進化と神秘主義」という本に出会いました。不思議な本でした。あれはニューエイジ運動の日本への紹介のはしりの本だったのでしょう。そのあとすぐに「アクエリアン革命」という本に出会い、深く感動しました。以来、ニューエイジ運動、トランスパーソナル心理学、ホリスティック医学などのAlternativeな世界に熱い想いを抱いて生きてきました。
 ところがここ2、3年、結局僕はこの世界の中にいつまでも入れず、落ちこぼれたままだという悲しさと、同時にこの世界の語りに一部疑問、違和感も感じはじめてきました。
 僕のように落ちこぼれた悲しさ感と違和感を両方抱えつつ、なおこの世界に熱い想いを捨てきれず生きている人は他にもきっといると思うのですが、そういう文章にふれたことがありません。
 僕自身、この思いを表現してみたい、そしてカタルシスしてみたいとかねがね思っていました。でも表現する場もなかったのですが、WHO ARE YOU?が出てきて今回から寄稿することになりました。
 究極の本音で書いてみたいと思う。そうしないとほんとのカタルシスにならないと感じるのですが、そこあでさらすのはやはり恥ずかしいし、少しでもそれに近いギリギリまで書けて準 and 準カタルシスできたらなあと思っています。
 どこから手をつけるか、書くとなったら自分の個人史からじっくり書いてみたいのですが、そうなるとなかなか本論まで近づけないので、全体の構成は考えずに、今回はブレスワークについて書いてみます。
 これから延々と寄稿していこうと思っている僕の文の全体の題名のイメージは「ふにゃこん人生論」。副題は「トランスパーソナルな体験など簡単にはできない男がトランスパーソナル心理学をどう受け止めて生きているか」といったところです。


ブレスセラピー前史

 24、5歳のころ、医学部の同級生が真光教という宗教の信者でした。真光教では、ほぼすべての人に霊がとりついてて、不幸を招いていると考えています。
 神からの御み玉というものを頂いた信者が額に手をかざしていると、霊が苦しくなり浮き上がってくる。その霊をさとし手かざしで浄めていくと、霊が納得しこの生への執着がうすらぎ、霊界へと入っていき、浄霊を受けた人も災難を免れるという考えです。
 霊が浮き出てくると、手かざしを受けている人が、いろいろな動きや叫び泣いたりいろいろしはじめ、手かざしする人が霊に質問(=霊査)していくといろいろ答え始めるといいます。
 悩んでいた僕は誘われて思い切って道場へ行ってみました。道場の雰囲気にどうしてもなじめないぼくは3回くらいで行くのをやめてしまいました。
 でも友人は個人的にしてあげるといって、その後も僕の下宿で手かざしを受けました。
 道場での浄霊を含め7回位受けましたがまったく何の反応もありません。モウやめようかなと思っていた8回目位のことです。
 途中から僕自身予想だにせず、突然「ウヘヘヘエ〜」といった不気味な奇声が出てきたのです。そして座った状態のままでピョンピョンと飛び跳ね始めたのです。意識は全く清明でした。びっくり仰天とはこのことでした。
 その後手かざしを受けるたびに、いかにも怪しげなケダモノがとりついているような不気味な叫びが現れてくるのです。そして友人が霊査するといろいろ答え始めます。
 僕か僕の先祖に殺された霊がいよいよ何か言いはじめるのかと、声を出しているのは僕自身なのですが、もうひとりの僕が、息をひそめて耳をそばだてていました。
 ところが途中で「今のは嘘や、エヘヘヘ」と人を食ったような言い回しで流れてしまい、何度霊査しても埒があきません。
 業を煮やして友人と真光教の幹部の家を尋ねました。ところが幹部の人は僕を霊査して「君には大した霊はついていないようだ」と遠回しに述べ、暗に自己演技臭いといいました。
 ぼくはすごいショックで、傷ついてしまいました。それで手かざしを受けるのを止めてしまいました。
 ひょっとして僕の自己暗示ならば、手かざしを受けなくても勝手に声が出て動くかもしれないと、ひとりで下宿で試みてみました。
 すると手かざしを受けなくても、僕の体は勝手に動きだしたのです。そして心のなかで○○○と言いだしそうだなと何か予感がしてきて、実際にその言葉を喋りはじめるのです。
 これもすごいショックでした。結局、僕の自己暗示なのかなあ。しかし喋り動いている自身を冷静に見つめているのに、と解せない感じもありました。
 その後こんないやな後味の悪いことは早く忘れたいという気持ちと、医学部生活の日常に目を向けて過ごしていくなか、次第にこの事件は心の片隅にしまわれていきました。
 ときにふと思い出してあれは一体何だったのだろうと思い、かつ、この社会のなかでさりげなく振る舞っている僕の意識の奥に、不思議な不気味な意識の世界があり、この世界を覗くまいとしている僕は自分を社会適応に向けて、深いところで自分の全体を生きていない、自分を偽りごまかしているなと感じもしましたが、すぐに意識は再び日常に向かいました。
 その後、医者になってから、オルタナティブな世界に関心を持つようになって、代替医療の世界に野口整体というのがあり、そのなかに活元運動と言うものがあるのを知り、ああ、あの真光の出来事は活元運動だったのだと納得しました。
 同時に、一方ではそれにしてもあの叫びや動きは単に活元運動とだけで解釈しきれるのかなアとも思いました。と言うのは、霊がとりついているという暗示であのようになったと解釈しても、7回目位まで全く動かず声も出さず、僕自身全く予想だにもせず、突然叫び動き出したからです。


ホロトロピックセラピ−に参加する

 その後、グロフの本に出あい、是非ホロトロピックセラピ−を受けてみたいという熱い夢が叶い、8年5月の連休に吉福伸逸さんの下で初めて受けました。幼児の忘れていた体験を想い出したり、産道体験、さらにはトランスパ−ソナルな体験がきっとできるに違いないとワクワクと意気込んで参加しました。一方で心の片隅で、ひょっとして真光の時みたいな叫び動きが出てくるかもしれないとチラッと不安をかかえていました。
 結果は真光のときの数十倍といってよいほどの強烈さで叫び動きまわったのです。そして真光のときに出てこなかった言葉が現れてきました。「助けてくれ、助けてくれ。俺を見捨てないでくれ」
 と言って延々と叫び猛り続けるのです。
 吉福さんに叫び動きが出たとき、自分の感情を味わうようにと言われていたので、一生懸命そのなかで感情を味わおう、見つけ出そうとしましたが、いつもの僕がその不可解な僕自身の叫び動きに当惑しながら、見つめいているだけで、そのなかに感情を見つけられないのです。「助けてくれ、俺を見捨てないでくれ」と叫び続けているとき、立ち上がって手を一杯差し出して「おーい、おーい」と何度となく叫んでいたその様が平家物語の俊寛を連想させました。
 平家への謀反が見つかり、何回の孤島鬼界が島へ流された俊寛ですが、あろとき他の仲間は許されて、自分だけ島に残され、都へ帰っていく仲間を乗せた船を岸壁から「おーい、おーい、俺を見捨てないでくれ」と叫んでいる俊寛を連想しました。
 なんとなくその光景らしきヴィジョンがうっすら見えてくる感じもして、感情が湧いてくるか湧いてくるかと期待していたのですが、結局何も起こりませんでした。
 叫んだり動き回る人は回りにもたくさんいましたが、僕の叫びは大勢のなかでも特別に目立ったみたいで、その晩の飲み会で僕はすっかり有名人になってしまいました。「よほど抑圧が強いのでしょう」とも言われたけど、多くの人には「あんなにいろいろできてうらやましい」と言われました。
 自分としてはがっかりしただけなのですが。
 翌日の出産ブレスセラピーは前日の叫びで疲れ果てていて、ブレスをしようとしても、お腹が痛くてほとんどできませんでした。
 まわりで出産体験をしたというひとの話を聞いて、うらやましくてたまりませんでした。それでも一回目の合宿が終わったときは、霊がとりついているのか、僕の抑圧かは分からないけれど、今回これだけ叫んで動いたのだから、出るべきものは出て、次回は素敵な体験が出来るのではないかと、なお期待を大きく膨らませていました。
 二回目のホロトロピックの合宿で不思議な体験に入りかけました。ブレスを始めてすぐに、なんと表現してよいのやら、僕の体の上に大きく大きくマルク弧を描いて不思議な空間というか天幕というかがあらわれたのです。瞑想をしていて気に包まれてとても気持ちのよい身体感覚に包まれることはよくありましたが、あの感覚がもっと大きく広がってしかもいささか不気味で畏怖を感じる空間でした。
 僕は色付きのヴィジョンを見たことはないのですが、気に包まれる感覚のときよりは、モノクロであるがよりヴィジョン的でした。
 私の女房などは夢は大体色付きといいます。僕は色付きの夢など生まれてこの方見たこともありません。人それぞれのタイプ、素質ってつくづくあるなと思います。密教のイメージ訓練なんて素質の無い人は惨めだろうな。境地が深まらないのはお前の精進が足りないからだなんて師匠に言われてしまうのだろうな。
 話を戻してあれれと思いはじめているうちに、まことにまことに残念ながらシッタ−の女性が私の体に強く手をかけてしまったのです。その途端にその空間は天幕は消え去ってしまったのです。体に触れる契約なんかしてなかったのに?
 シッタ−がいうには、僕がこのままどこかへ飛んでいってしまうような、おかしくなってしまう感じがして思わず体に手をふれてしまったというのです。僕自身はただ一生懸命ブレスをしていただけのはずなのですが、彼女はすぐトランスに入るタイプなので何かを僕に感じたのでしょうか。
 次に彼女の番にかわり、終わった後彼女はスタッフの高橋さんに呼吸そのものになって宇宙と一つになってしまったわとか楽しそうに話しており、高橋さんがそれに対して「そうだよなア、僕らは宇宙そのものなんだよなア」とか答えて彼女と談笑しているのをかたわらにきいていて、僕はまたまたスッカリ落ち込んでしまいました。その後のブレス、そして3回目の合宿では、激しさはグッと軽くなりましたが、真光様の再燃で終始しました。


ネオライヒアンで新たなる進展かと喜んで

 次にティムさんと管さん、高橋さんが主催したC&Fネオライヒアンのブレスに出ました。そのとき初めて身体的介入をされました。ティムが僕のみぞおちをギューギューと押し始めたのです。あの巨大な体で押されるので痛くて痛くて、ティムがわざとしているのはもちろん分かっていても、思わず、こんちくしょう、となったことが誘因なのか、今までと違うことが起きてきました。
 お母さん、お母さんと言いだしたのです。次に、オギャーオギャーと言いだしました。いよいよ赤ちゃんに戻れるのかなと期待したのですが、それはそのまま進展せず。そのうちお母さん、がお父さんへと変わっていき、あとはひたすら、お父さんお父さんと言いつづけました。
 ほんのわずかですが悲しみに感情が湧いてきたみたいで、感情以上に、涙が一杯溢れ出てきて涙に包まれました。
 そしていつもの真光の動きが出てこず、事態が進展してきたとの希望が持てて、そのときのブレスはとても嬉しかった。
 その後ラジニーシのブレスに二回行きました。一回は介入されて、のどが詰まっていると言われ、胸を押されガーガー叫ぶのみ。もう一回はオギャーオギャーがまた出てきて、しかも赤ちゃんみたいに丸まっていくので、いよいよ産道体験へ突入かと期待していると、丸まりがほどけてしまい、例の真光が再現してがっかり。
 次にC+Fの八王子セミナーのブレスに行って、これも真光の再現。


準至福体験に出会う

 次に現在トータルリコールを主催している高橋さんのもとで、連続5回位の個人ブレスを受けました。真ん中の3回目くらいに、高橋さんがどんどん子どもに帰ってくださいと目を閉じて横たわっている僕に言いました。イメージというかヴィジョンがまったく苦手で、3、4歳のころの記憶がほとんどないぼくは困ってしまいました。
 とっさに思いついて、赤ん坊のときに母に抱かれていた写真を頭に浮かべ、抱かれた自分が母を見上げているイメージをなんとか作りました。
 そのうちオギャーオギャーと言いはじめ、産道体験には入っていきませんでしたが、お母さんお母さんと叫びはじめ、そのうちネオライヒアンのときとまったく同じで途中からそれがお父さんお父さんに変わり、あとはひたすらお父さん、お父さんと延々と叫び続けていました。
 僕は父との間にはいろいろの思いがしみわたってあります。父は高校一年生のときに亡くなりました。父が亡くなったとき、正直言ってほっとした気持ちもありました。でもここ20年近く、父にほんとうにすまないことをしたなあ、今父が生きていたら精一杯親孝行をしてあげたい、僕も大人になって、そして今中年になって、今父と親子関係をこえて人間として語りあえたらどんなにかよいだろうという思いが熱くあります。
 帰り来ぬ世界です。
 そしてその叫び声がしだいに穏やかに静かにゆったりとした長く長く引き延ばされた声に変わっていきました。そして延々とゆったりとゆったりと繰り返し繰り返し、いつ果てるともなくおと〜さ〜ん、おと〜さ〜ん、と歌い続けるのです。涙でぐしょぐしょになりながら。
 そのうちだんだん透明な澄み渡ったなんとも言えぬ恍惚感のようなものに入っていきました。言葉で書くのはなにか恥ずかしいのですが、僕と父とのもろもろの悲しい世界がすべて溶け合っていて、汝、許されたりというか、恩讐の彼方へという感じ。
 音楽でいえば、グノーのファストのオペラの終末部の死んだマルガレーテの魂が汝許されたりという天の声と共に天に招かれていく、あの音楽のイメージをぐっと小春日和にした感じ。
 そして視覚的にクリアにビジョンが見えたとか、色付きではっきり見えたというわけではないのですが、明確なイメージとして、彼方の空の光と雲のなかに、僕と父が溶け合って行くのです。後でヒーリング・ミュージックのカルネッシュの曲colours of lightのテープの挿絵を見て、あれ、あのときのビジョンのイメージと似ていると驚きました。
 でも臨死体験者がよくいうように、音楽や絵画ではあの恍惚感は疑似的にしか現せません。きっとあのときの恍惚感は臨死体験者の至福体験と同質のもので、それを薄めたものだったろうという気がします。
 イメージとかヴィジョンとかいわれてもなかなかピンとこない僕にとって、あれは唯一の明確なイメージ体験でした。かたわらにいた高橋さんも、一緒にブレスを始め、僕と一緒に延々と最後までブレスをし続けました。
 終わったあと、高橋さんも、いやあ〜、実に僕も気持ち良かったとしきりに繰り返し述べていました。感応したのかしら。そして僕自身も感応し、感応しあったのかしら。始めは高橋さんは僕のブレスを促進するために傍らでブレスを始めたら、なんだかやけに深く気持ち良くなって最後まで一緒にしてしまったらしいのです。
 そのあたりを今ふりかえれば、高橋さんによく聞いておけば興味深かったと思うのですが、そのときは自分の準至福体験が終わったあと、ただただぼ〜と酔いしれるばかりでした。
 もうひとつ不思議なのは、父と僕が溶け合っていくイメージではあるのですが、そのなかで個の存在としての父と僕は具体的にはどこにもいなかったのです。
 強いて言えば光と雲そのものが父と僕だったのです。霊的な本などを読んでいると高級霊になっていくほど個性が薄らいでいって最後は光そのもののなかに溶け込んでいくなんて書いてあります。
 死後の世界を半分以上僕は信じているのですが、向こうの世界で霊性が究極まで高まっていくと光のなかに溶け込んでいくなんて、それはそれで向こうの世界で個が消滅してしまうことで、不安で怖いな。煩悩で苦しんでいても輪廻転生するほうがよいよと思っていたのですが、あの体験から、次元が高まっていくとそういうこの世的な個の消滅の不安を越えた心理学風の世界が現れてくるという語りが少しは分かるような気がしました。
 その後2週間くらいかなあ、あの至福感のようなものを胸に抱いて幸福に日々を過ごしました。でもその後の高橋さんのブレスはかわりばえがしませんでした。真光の動きは確かにほとんど出ませんでしたが、脱け殻みたいな平凡なブレスでした。


再度ホロトロピックに連続挑戦

 その後、結局準至福体験はあったものの全体としてかわりばえしないし、仕事も忙しくブレスセラピーから遠ざかっていました。ところが一昨年春、グロフの本を読み返してみてあらためて興奮し、やはり徹底的にしてみてはっきりさせたいと思い、C+Fに頼んで連続の日帰りのホロトロピックセラピーの企画を作ってもらいました。
 連続5〜6回くらいのブレスは、始めのときはまたまた真光の再現でしたが、終わりから二番目のブレスで腹から朗々と「あー、あー、あー」と延々と声が出て、終わったあと身体的に実に爽快無比な体験をしました。
 あの朗々とした腹の割れる感じが続けば丹田が練り上げられるかもしれないと、次のブレスを待ちきれず、診療所で夜残ってひとりでブレスを始めました。
 僕の診療所は大声を出しても回りにはほとんど聞こえない場所です。去年の3月でした。


ひとりでブレス連続29回

 一回目は同様に朗々とした声が再現して大きな希望を持ちました。ところが二回目、また真光再現。がっくりするも思いなおして。この不可解な叫び動きを解決しないかぎり僕の真の解放、僕の人生の真の開かれはないだろうと(いくら今後瞑想しても今までと同様深まらないだろうと)何日かかってもやってやるぞと、連日診療所に残って3時間くらいやり続けました。ところがやってもやっても真光の再現は続くばかりです。
 19回目に突然「止めろ〜!」と叫び猛りながら寝ている僕の体が跳ね上がるように起き上がりました。
 それは真光の8回目のころの「うへへへえ〜」や初めてのホロトロピックセラピーの「助けてくれ、俺を見捨てないでくれ」のときと同様、突然予想だにせずあらわれました。これを聞いて身の毛がよだって寒けがしましたが、すぐに気を取り直し、よしこのまま俺の気が狂ってしまってもいいから、この際徹底的にやり抜くぞと意を決してブレスを続けました。「やめろー、やめろー」の絶叫とともに、僕の口は超特急のように歯ぎしりしまくりました。まるで霊が僕のブレスに苦しみ抜いたみたいに。おかげで歯槽膿漏でグラグラしていたのを仮止めしていた前歯を脱臼させてしまいました。
 その後もらちがあかず、やはり本当に霊がとりついているのならば、僕自身のためのみでなく、霊を救って上げなければ可哀相だし、しかし霊能力者といわれるひとのところへは行きたくないし……。
 そこで女房が霊感があるほうなので、女房に霊査してもらいました、女房が「あなたはどなたですか」とか尋ねていくとそのうち「この女はなあ、俺はこいつに惚れているんだ」とか答えます。
 そ〜か、僕の前世は女だったのかな、なんて思うと、「今のは嘘や、みんな嘘や、えへへへ」と流れてらちがあかず。28、9回目になると、ブレスをしても体が重くて力が入らず中断。
 いよいよ降参と意を決して霊能者を尋ねました。どうしてもブレスでらちがあかないとき尋ねてみようと本屋でいろいろ調べて、このひとなら信頼してもよいかなと目星を付けていたんです。
 ところが霊能者は、あなたにはそんなひどい霊はついていません、と答えました。あなたは心がやさしいひとだから、ブレスのようなことをすると浮遊霊があなたに救いを求めて集まってくるのです。
 では、どうしたらよいですかと尋ねると、瞑想をこつこつしなさいという。でも僕は3年以上まじめにこつこつ瞑想し続けましたが、気に包まれる気持ちのよい感じになってもそれ以上には深まらないのです。
 では深まるようにエネルギーを通しておきましょうと言って、なんか呪文をぶつぶつ唱えてやーやーといろいろ手刀を切ってハイおしまいでした。
 がっかりして霊能者とやらのところから帰りました。
 でもエネルギーを通しておいてくれたということだから、変化があったのかもしれないと、さらに2回ブレスをしてみました。でもちからなく真光の再現がへなへなとおきるだけ。
 そしてC+Fの最後のブレス。ぱっとせず、猛烈にどうにも落ち込んでしまって居たたまれなくなって、途中で退場して帰ってしまいました。去年の5月23日でした。


断食と諦念

 そのころ歯槽膿漏が急速に悪化してきたことと重なり、最後の手段、諦念の儀式として野菜ジュース断食を始めました。
 2日目、少しハイな気分になりました。
 6日目と7日目に歯茎より膿が大量に流出。歯科医が首をかしげるほど、診療を受けるたびによくなってきました。
 8日目に食事をとったあと、猛烈に臭い古便が出て、その午後とてもハイな気分が続きました。
 淋しいけれど、ここまで徹底的にブレスをして変化がなかったのだから、心残りはないさ、僕はもうトランスパーソナルな体験を求めたり、自分の叫びや動きがなぜ起きてくるのか知ろうとするのは諦めよう。日々を丁寧に味わって生きていこうと心に決めました。断食のときのハイな気分や歯槽膿漏がびっくりするほど軽快したことを心の慰めとして、その後の日々は淋しさを抱えながらも、まあそうひどくは落ち込まず日々を過ごして生きていました。


○○氏の下でのブレスセラピー

 ところが去年の暮れ、たまたま○○氏というひとの名を知りました。そのひともブレスセラピーを主催していてトランスパーソナルから吉本内観まで僕の知っているあらんかぎりのサイコセラピーから身体技法を身に着けている方らしく、ひょっとしたら信頼してよいかもしれないと、もう一回だけブレスセラピーに自分をかけてみようと今年の5月の連休に合宿参加しました。
 あらかじめブレスの前に、僕は何十回となくブレスをしてきましたが、いくらしても同じパターンでらちが開かないのです。以前、押さえつけられて感情が少し出たようなことがあったから、僕の両腕両足を動かないように押さえつけてください。叫びや動きに逃げ込んで自分の感情に直面するのを避けようとしているのかもしれないと言われたこともあります。そう頼みました。
 そうしたら○○さんとスタッフは僕の希望どおりにしてくれました。さらに仰向けに寝ている僕の上に顔を覗かせ、僕の目をじっと見ていろ、目を絶対にそらすなと言いました。つまり、今までのブレスではずっと目を閉じていたのですが、目を開いてしたのは初めてですし、他者の目をひたすら見ていたブレスも初めてです。
 そのことにどういう意味があるのか分かりませんが。そしてみぞおちをグイグイ押さえつけられました。その痛みに苦しむもののひたすら叫ぶのみ。
 ところがだいぶ立ってから、鼠蹊部の上のへんを押されたらなぜだか分かりませんが、はっきりとした悲しいの感情が溢れてきたのです。この感情が明確に出てきたということは僕にはほんとうに初めてのことであり、かつ記念すべきことでした。
 ○○氏本人は残念ながら私の一番嫌いなタイプの人間で、もう彼の下のブレスワークには行く気になれません。しかしせっかく感情が紛れもなく湧いてきた体験をしたので、あのときと同じ状況にしてもらってブレスをまた受けてみたいというのが今の僕の熱い気持ちです。
 そしてようやく出てきた感情が今後さらにどんどん浮きでてきたら、その果てに僕が長い間願ってきたことが起きるかもしれないという夢が捨てきれないのです。
 つまり自己の境界が失われ他者、自然と融合するといった体験を僕もしてみたいのです。それは僕の生きていくうえでの不全感、欲求不満感をそういうハイな体験で代償したいという気持ちも紛れもなくあります。でもそれだけではなくて、そんな体験ができたのならば、恥ずかしいけれど、でもまじめにいつも思っているのですが、今よりもずっともっと僕は優しい人間になれるかもしれない。
 そしてもっと今よりとらわれのない人間になれて、しなやかな、だからこそ力強い人間になれて、ひとをもっと癒せる人間になれるかもしれない。
 そんな夢がまだ捨てきれないのです。
 そういうおいしい夢を捨てたところから、そしてそういうおいしい夢を疑ったところから歩みだそうとしているのが自称「ふにゃこん人生観」でもあるのですが。
(以下次号)


●この文章を書いてくれた川勝隆文さんは幡ヶ谷で漢方薬の診療所を開いているひとで、元精神科医です。ぼくがトランスパーソナル心理学のワークショップとしては初めて参加した岡野守也さんの唯識心理学ワークショップで出会ったのが最初でした。そのときの和尚のダイナミック・メディテーションのデモンストレーションをした川勝さんの印象は、ああ自由なひとだなあという感じでした。ぼくもあんなふうに自分を表現できたらいいなあと思ったものです。
 その川勝さんが、こんなふうに思い悩み苦しんできたということを、今回この原稿を貰って初めて知りました。
 みんな思っていても、なかなか口に出せないことだと思います。ぼくもこういう原稿が読みたかった。
 WHO ARE YOU?では、こういう本音の原稿を期待しています。自分の経験したことを、素朴に、真剣に考えてみること。本や他人の語りに振り回されずに、自分の体験をつきつめてみること。その体験を十分に味わいながら、におぼれずにいること。こうしたことを積み重ねていけば、何か面白いものが見えてくるような。セラピストのひとたちへのフィードバックにもなるとも思います。
 そのためにも、自分で書いてみることが必要です。ふーん、すごいなあと思っているだけじゃなく、書いてみよう!


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