<犯罪研究3>

古川義雄 放火巡礼

出席者=芹沢俊介・別役実・山崎哲
1993年度 第4回 子ども研究会にて(10月25日収録)

芹沢
それじゃあ、放火魔のほうへ進ませてもらいます。これは古川義雄というひとが四国九州を中心に55件の放火の巡礼の旅をやったという事件です。すさまじい数なんですが、昭和7年9月15日道後ホテルに火をつけたのを皮切りに、11年5月11日まで3年と9ヶ月のあいだにやります。ところがそのあいだに沖縄で洋服泥棒をやりまして2年食らい込んでいる。ということは実質的には1年9ヶ月のあいだに55軒火をつけたわけで、これはもうつけまくったといっていい。感覚としては次から次へとつけていったというそういう事件です。
 最初が愛媛県松山の道後ホテル。その地では1、2を争う立派なホテルなんですが。これが9月15日。その後同じ松山の寺に火をつけます。そんなこんなで翌年の7月9日に松山城に火をつけちゃう。その間、道後ホテルから始まりまして、松山から宇和島へ移って、高知へ行き、海峡を渡って長崎、佐賀、福岡、熊本、大分、鹿児島と行って、松山に帰ってくる。そのあいだ昭和8年の6月27日に大分県の光西寺というところに火をつける。そのとき初めて、警察に手紙を出すんです。
 大分の大仏様が雨で風邪を引いて寒がっているようだ。だから頓服をのませるように温めてあげた。そのかわり、お前はこの世でどんな悪事を働いても、死んでも地獄にやらんという、そういう約束をもらったというんです。(笑)。そういう挑戦状を警察に出すようになります。それから松山に帰ってきて、松山城に火をつけます。全焼じゃないんですが、当時の損害額で40万円という莫大なお金がかかっています。


モラルの象徴
への放火

芹沢
このひとは13府県を歩き回って火をつけているんですが、さっきいいました愛媛、長崎、高知、福岡、熊本、大分、鹿児島、大阪、兵庫、和歌山、沖縄、福井、佐賀。なぜかお寺とか教会、学校につけたがるという性癖があるようなんです。なんでしょうね、ある種モラルの象徴みたいなところに火をつけていきます。昭和8年7月1日に宇和島で、明倫尋常小学校というところに火をつける。このとき女性の訓導(教師)が御真影を奪還したっていうんで、まあよかったという、校舎よりも御真影のほうが大事という、そういう時代だったんですね。
 この明倫小学校というのは、新庄市の明倫小学校、つまり山形のマット殺人のあったのと同じ名前です。この明倫という名前が全国に散らばったのかなあという気がします。いつごろから出てきたのか、分かりませんが。
別役
これは出典は儒教かなんか。
会員
萩の明倫……。
山崎
そうか、萩の明倫から来てるんだ。
芹沢
明治時代に、わりあい政策的ななかでこういう名前が下ろされてきたという気がします。土地から上がってきた名前じゃなくて、ある観念から下ろされてきたという。だからかなり全国にあるんじゃないでしょうか。そういうところでいじめマット殺人がおこったというのも面白いなと思う。深いところで呼応してるんじゃないか。そこに古川さんが火をつけたというのも、そうとう正しいというか(笑)。


不思議な
占い師

芹沢
あの、この事件は非常に面白い展開がおこるんです。松山城を焼いたあと、三日後に不思議な人物、占い師の木佐貫良雄というのが登場してくるわけです。このひとが実に不思議な役割を演じてこの放火巡礼の旅を彩るんですが、見た目では27、8歳。色白の頭をオールバックにした男だというんです。このひとが松山城の放火後、三津署にふらりとあらわれて、易占い木佐貫良雄という名詞を出しまして、私はこういうもんです、ひとつ放火犯を占ってあげましょうという。
 警察も最初は相手にしないわけです。なんだ、忙しいのに、という。ところが新聞記者などが話を聞きつけてやってくるんですが、九州でも放火が起こっていたし、大分のあれはオレがやったんだという挑戦状がきたり、松山城も、同一犯だというふうに警察も動きだすんですが、彼の占いでは別人だということになるわけです。それを記者や県警に出掛けていってやるわけ。ところがたくさんのひとがとっつかまって、いろいろ調べられて、みんなシロだということになって、警察はこのひとが気になりはじめるわけです。それで検束するわけです。お前はいままでどういうところを歩いてきたんだ、と。そうすると彼が歩いてきたところにはかならず有名な神社や仏閣がある。不思議なことに犯人の足取りと前後しているということが分かってくるわけです。
 それで、結局このひとは50日検束されまして、さんざん調べられるわけです。それでまた可哀相なんですが、このひとが調べられているあいだは一見も放火がおきないんです。(笑)。これが不思議といえば不思議なんです。それでもどうしてもアリバイが崩せないということで釈放になる。このひとはそのあと大阪の義兄のところに行く。重要視察人ということで監視付きなんです。9月26日東京に行くということで、ふっといなくなってしまうんです。そうすると和歌山の天理教の教師庁が燃えるんです。それであいつじゃないか、ということで、木佐貫さんが追跡をうけるという、不思議な役割を演じるひとです。最終的にはこのひとじゃないんですが、このひとがこういう動きをしたために古川さんということがなかなか分からないんです。
 古川さんというのは捕まってしまうわけですけど、だんだん分かったことは、本籍は福井県大野郡の出身。住所不定。明治35年5月5日生まれ。このひとは自分がらい病ではないかと思い込むわけです。それで四国八十八カ所のある四国へ回ってくるわけです。それでお遍路さんのかっこうをして火をつけて回るわけなんですけど、らい病だと思っている。実は花柳病の第三期だったということが捕まってから分かるんですが、自分ではらい病だと思い込んでいる。ともかく歩いているわけですから、足が重くてしょうがない、という状態でいるわけです。


本来の放浪者

芹沢
もうひとつ、本来の放浪者というのがある。大正10年に徴兵の年齢になるんですけど、検査に行かないんです。それで憲兵に追っかけられて大正11年の6月につかまってお灸をすえられる。そんなことがこのひとの過去にあるわけです。さきほど沖縄で2年食らっているといいましたけど、昭和8年12月23日に那覇の呉服屋さんに入りまして衣類53着をかっぱらうんですが、すぐつかまりまして懲役2年で那覇刑務所に収監になります。出てくるのが昭和11年の1月。そのあと台湾に渡って台北ですとか高雄を放浪しまして、そこでも高雄署に浮浪罪で検束されています。11月の2日から4月16日までけっこう長い間拘束されています。とすると1年9か月からさらにこの5か月間引かなければならない。
 釈放後4月27日に台北から沖縄に戻ってくる。それからさっそく仕事が始まる。沖縄の第二商女というところに火をつけ、それからまた鹿児島へ、熊本、福岡、宇和島というふうに戻ってくる。このひとは新聞なんか読まないひとなんですが、ある日新聞を見るとどうも自分のことが書かれているみたいだという感じを持つんです。木村一郎45歳という仮名でもって、実は37歳なんですが、宿へ泊まるわけです。それこそ七輪を担いで自分でぱたぱたあおいでご飯を炊いて食べて、というそういう旅館が当時たくさんあったのですが、そういうところに泊まる。それで火付けの旅を続けるわけです。でも、なんか自分の回りに警察の手が迫っているという、そういう感じを持ちながら別府を出て四国の宇和島へ戻ってくるんです。そこで旅館に泊まったところへ警察の手が入って捕まってしまうということになる。簡単にいいますと、判決は、宇和島で第一審、広島で第二審があるんですが、結局ともに一審判決を指示して死罪になるわけです。
 今でも放火は最高刑は死罪なんですが、少ないんです。が、これだけの件数をやっていますから。放火は死罪というのは昔からの刑罰のあり方が踏襲されているなあという感じがします。これ4件で立件されるんです。ひとつは昭和7年9月15日の道後ホテルにはじまる火付け13件に対して、これが、死刑。第二事実は松山城ほか15件に対して、これも死刑です。それから昭和8年天理教教師庁、それから、列車妨害を一件やっているんですが、それにたいしては懲役10年。第4事実は那覇県立第二商女はじめ5件に対しやっぱり10年。これでいくと死刑ふたつに懲役10年ふたつというさんざんな刑がかかってくるんですが、こんなような事件です。


動機不明の犯罪

別役
放火魔としては前代未聞ですね。希代の放火魔。はっきりいってなにがなんだかよくわからない(笑)。とにかく猛烈に急いでいた。それからとにかく火をつけなければ収まらなかった。切実に切羽つまって放火して歩いたという、後ろ姿がなんとなくいじらしい。
山崎
最終的にわかんない。
会員
本人はなんていっているんですか。
芹沢
やっぱり、燃えるのが見たい、そうはいっているんです。裁判官とのやりとりで見ると。
別役
本人もわかんないと思う。だって、仏様を温めてあげたとかいうでしょう。それぞれに理屈はあるんでしょうけど、それがほんとの理由かどうかというのは。ただ、なんか理由があっただろう。それも放火というのはかなりの大事業ですから。刑務所に入っていないあいだはほとんど放火している。
会員
民家はやってないの。
芹沢
やっているんですが、数は少ないです。やっぱり規模が違うから、燃え方の。
会員
騒ぎ方も違うだろうから。
山崎
なにして食ってたのかなあというのが一番最初に聞いたんですが、お賽銭を抜いていたらしんですよね。
毛利
神社仏閣が多かったっていうからね。
別役
だからやっぱりかっぱらいとか。
会員
でも、よく歩いたね、感心だわね。
山崎
でも大体、あったかいとこなんだよね(笑)。
別役
だからあったかいところが好きだったのかねえ。
山崎
最初は自分がらい病だと思って四国の八十八カ所をまわる、これはわかるんですよ。でもそれがだんだん拡大していて、九州、沖縄、台湾までいっちゃう。もう一回八十八か所の出発点に戻ってくる。そういうイメージがありますけど。
別役
花柳病っていうのは梅毒でしょ。梅毒の第三期というのは天才なんですよね。ニーチェとか大川周明とか。梅毒第三期というと大天才という。これもこの世界では天才。
会員
もともとはなにをしていたひとなんだろう。
芹沢
このひとは、だから、なにもしてないひとなんです。本来の放浪癖のひとですから。生まれた背景もよくわからない。でも福井県大野郡勝山町というところに戸籍はある。そこへ行って徴兵検査を受けるということになっていたわけですから。もともとそういうことに不向きなひとだったんでしょうね。組織のなかに入れないひと。


神との合一

山崎
なんていうのかな、お寺とか公共物、それが炎として燃えていくときというのは、自分が一番神様の近くにいるとき、という感じがしないですか。
別役
快感があるだろうね。
芹沢
金閣寺を燃やしちゃったひとは怯えちゃうでしょう。山に逃げちゃう。でもこのひとのドキドキのしかたは脅えじゃないですよね。消えちゃうんじゃないか、というそっちの脅えなんですよ。ついた、ほっとする。それでみんなと一緒に見ているという。松山城というのは、かなり警備されているんです。道後ホテルなんかは失火として処理されている。宇和島の尋常小学校も失火だという。放火の線はぜんぜん疑っていないんです。つけたらあっというまに次へ行く。燃えたところを確認して、自転車かなんかをかっぱらって次へ行くというね。
会員
沖縄で呉服店に入って衣服を53枚盗んだというのは、自分で持って逃げたんですかね。
芹沢
たぶん、あんまり考えていないんでしょうね。
別役
泥棒としての才能はないよね。初犯で、すぐ捕まっちゃうでしょう。
会員
ここに書いてある行脚というのは、放火して歩いたということなんですね。
別役
八十八カ所を最初に回りはじめたということも弱冠ふくまれています。
会員
具体的に、福井県の行脚のときはどこに火を付けたのかわかりますか。
芹沢
福井ですか。福井は分からないんですよ、どこへつけたか。
会員
自分の生まれた勝山あたりではないんですか。
芹沢
多分、そのあたりに帰ってきてつけているんだと思うんですが。資料を見れば分かるんでしょうけど、新聞なんかでは分かりにくいですね。
会員
というのは、3月に勝山に行ってきたんですよ。私は福井県の出身で、先祖が勝山なんですよ。先祖を探しに行って写真を撮ってきたんですが、神社があって、奉納したという名前がざーっと書いてあって、そのなかに父親のお爺さんの名前をみつけてきたんんですが、それは白山神社といってとても大きな神社なんです。それから平泉寺といって明治の神社仏閣のごたごたのときにお寺ではいられなくて神社に変わったという。白山神社という名前になった。これがものすごく大きな、室町時代の永平寺よりも古い、僧侶が千何百人もいるという大きな寺なんですが、そこにつけたのかなあと思って。
芹沢
つけたかったんでしょうね。
会員
勝山といえばその神社が有名なんです。たしか大火が一度か二度あったんですよね。


浄化の炎

山崎
なんかこれ、放火巡礼というしかないという感じですね。まさにこれはぴったりという。ぼくなんかが思うのは、公共物に火をつけていたというのが大きいと思います。らい病という個人の病を共同体にまで拡大している、というのがよくわかりますね。いっきに共同幻想のところまで拡大している。
芹沢
でもなんか、浄化の火という感じがしますね。らいを焼き尽くすという。
別役
放火魔って連続するでしょう。あれなんか心理的にあるんでしょうかね。
会員
よく思春期の少女が火をつけるというのはよくあることで、すっとするというんですね。その時期特有のストレスというのがあるんですね。
芹沢
もやもやを解消するのは一番いいという。
会員
このころまではしていないんですか。放浪をはじめるのと火をつけるのと、ほぼ同じ。
別役
四国巡礼が初めでしょう。
会員
自分がらい病になったというのが大きいんじゃないでしょうか。巡礼にいったのもそれをなんとかしようとしてでしょう。当時はらい病は不治の病だし、市民社会から隔絶された、まさに汚れの存在だった。病気としては一番汚れというのにふさわしい。可哀相というのが結核で、汚いというのがらい病。それを自覚したときに放浪というか巡礼がはじまったんでしょうね。
別役
四国八十八カ所というのは独特の巡礼道というのがありまして、巡礼姿の人達が一種独特の環境ではあんですよね。
会員
あれはお金なくても泊めてくれるんですよね。白い服着て金剛杖もっていれば。白いのは着ていたんですね。
芹沢
最初はね。きゃはんを巻いて。ちゃんとしたスタイル。杖ついて、同行二人と書いて。
会員
当時のらい病患者の行くところといえば、八十八か所と草津と相場は決まっていたようですね。だから自ら名乗って回っていたのか、隠していたのか。多分、名乗って回っていたんでしょう。それが八十八か所の常道だったようですから。


三流占い師との
共通感覚

山崎
木佐貫義男さんというのはまったく関係なかったんですね。
芹沢
不思議ですね。ほんとに古川さんと相前後して歩いていたという。考えてみれば大きな神社仏閣ならば占い師の需要はあるのでしょうけど。
別役
非常に深読みすれば、そういう三流占い師とある感覚を共有する部分があったんでしょうね。まあ、偶然なんでしょうけど。
芹沢
あのひとが出ていくというところが面白いですね。占ってあげましょう、という。なぜ、行ったのか。普通は疑われると思いますけどね、やっぱりなにかに引かれて出ていっちゃったんでしょうね。
会員
焼身自殺と良く似ている感じがしますね。らい病になって、自分の崇高な部分を焼いていくわけでしょう。このひとは国土も自分も一体になっちゃって、最終的には疑いない死刑を選んでいく。このひとの小さいころから多分親との関係のなかで、切り捨てられてきた自己を背負っているというか。だけども切り捨ててきたものにもこだわりが残っていて、その問題とたえず大格闘して燃焼したんでしょうね。パッションとしかいいようがない。一方で占い師というのも、自分のなかの無力な部分と全能感とが両方ある。それが共鳴してしまったんじゃないですか。聞いていて、素晴らしいというか、ギリシア悲劇を見ているような感じがしますね。人間でしかないという部分と神に近い部分とが出ていて、引かれますね。


巡礼という
特殊領域

山崎
ぼくはもうひとつよく分からないんですが、八十八カ所をらい病の患者が巡礼しますが、どういうイメージを持っているのか。救われるというのは思っていないでしょう。治癒するというのは。
別役
ある種の安心立命の境地というか。
山崎
それを目指しつつ、最終的には死を目指している……。
会員
いや、助かると思っているんじゃない。
別役
たとえばね、若い娘を亡くした良心が、職も家も捨てて巡礼に入るというのがあるんです。それは悲しみとか苦しみという妄想から解脱するという、ぜんぶ回るというのはかなり大変なんです。それに何回も行くんですね。だから特殊な聖域であって、肉体的に苦労するとすっきりする。
山崎
ぼくも何カ所か仕事で回ったんですが、うまくできているんですよね。山のなかに入っていく。ものすごい深い谷と森野あいだをくぐりぬけて、頂上のがけっぷちみたいなところにお寺がある。じゃあ、二番目はどこにあるかというと、戻ってくるんです。平地にある。非常に日常的なところにある。で、また三番目が山に行く。聖と俗が八十八か所のなかに組み込まれている。
別役
今は道が無くなっちゃってバス通りになっていますけど。
山崎
不思議なんだけど、参道の入口のところにらい病の患者を集めていたらしい。ぼくらの感覚では少しずれたところに集めるんだろうけど、けっこう正面なんですよ。
毛利
巡るというのは意味があるんですかね。仏教的な。
芹沢
比喩があるんじゃないでしょうか。
別役
徳島から出発して愛媛、高知、香川へ行って終わり。
芹沢
これも最初、一本の線にまとまらないんですね。それでいろんなのを逮捕するんですが、それに対して古川さんが、違う、帰してやれという。ちゃんと証拠を見せてやるといって図面を描いて、ここにこうして藁束を置いて火をつけたんだと書いて手紙を警察へ送っています。それで四国と九州のあいだで警察同士で問い合わせて、で、どうやらそうらしい、ということになったんです。


●四国というのは死国に通じる。八十八カ所の巡礼というのは、ある意味ではすでにこの世ならぬ領域を巡る、これから来るほんとうの死を迎えるための準備だとも言える。かつては巡礼たちは無料で宿を得、食を得て生涯にわたって巡り続けたという。
 徳島、愛媛、高知、香川はそれぞれ発心、修行、菩提、涅槃の道場であるといわれている。古川さんの場合は、発心から菩提を得たところで、その円環からはずれて飛び出してしまった。ハンマー投げのハンマーのように。その遠心力はなんだったのだろう。その情念の大きさに、畏怖の念をさえ感じてしまう。


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